国際的な作家古義人の義兄で映画監督の吾良が自殺した。動機に不審を抱き鬱々と暮らす古義人は悲哀から逃れるようにドイツへ発つが、そこで偶然吾良の死の手掛かりを得、徐々に真実が立ち現れる。ヤクザの襲撃、性的遍歴、半世紀前の四国での衝撃的な事件…大きな喪失を新生の希望へと繋ぐ、感動の長篇。
出版社:講談社
ずいぶん読みづらい作品である。
本当に久しぶりに大江を読んだので忘れていたけれど、彼の文章には癖があって、すらすらと読み進めることはできない。少なくとも片手間に読むタイプの本ではない。
しかしそんな文章のわりに、ふしぎと退屈と感じることなかった。
それは物語の展開や、知的な考察などが、個人的には楽しく、部分部分で変なパワーもあったのが大きいのかもしれない。個人的には、スッポンを解体するシーンが好きだ。
さて、そうして語られるお話の内容は、大江の私生活を否応なく想起させる。
物語は、作家である古義人の、十代からの友人であり、義兄であり、映画監督の吾良が飛び降り自殺をするところから始まる。
言うまでもなく、古義人は大江であり、吾良は伊丹十三を髣髴とさせる。
物語そのものは、フィクションだろうが、それでも世間から好奇の目で見られかねない題材だ。
そんな話を大江が描いたのは、彼なりに友人である伊丹の死について、総括したかったのかもしれない、なんて思ったりする。
友人の吾良が死んでから古義人は、田亀と呼ばれるヘッドホンを使って、吾良が残したテープを毎日聞くようになる。そのテープを通じて、彼は生前の吾良と会話をしているのだ。
だがもちろん、死んだ人間が生前に残したテープに向かって、返答するという行為は、会話とは呼ばない。
古義人自身が認めているように、それは「自分単独の精神の遊戯」にすぎないのだろう。
そう気づいていながらも、古義人がその行為に「惑溺」するのは、十代のころからの友人で、精神的に深いつながりのあった吾良の自殺に戸惑っていることが大きい、と思う。
そして吾良が自殺した理由が、古義人にもまったくわからないからではないだろうか。
とは言え、テープと会話するという行為が異様なものであることは疑い得ない。おかげで妻や息子から心配される始末だ。
そのため、古義人は、田亀の会話を「Quarantine」(遮断とかそういう意味)しようとする。
しかし田亀を離れても、古義人が考えるのはあくまで吾良のことである。
そこからは古義人の吾良に対する思い入れが強く伝わってくるかのようだ。古義人にとって、吾良はそれだけ重要な友人だったのだろう。
そして吾良と過ごした過去の記憶や、自殺の原因について、古義人なりにいろいろと思いをめぐらせている。
そしてその過程で、古義人は、過去に起きた、忘れられない一つの事件をふり返る。
その事件は二人の間では、トラウマだったらしく、真正面から受け入れることができていなかった。
だが吾良は、死を前に、過去の事件を受け止めるようになっている。
そのことを田亀を通じて聞いた古義人も、吾良と同様に、その事件をしっかりとふり返ることとなる。
その行為は、言うなれば、事件の言語化とも言えるだろう。
そしてそのようにして、事件を捉えることで、二人はようやくそのトラウマティックな過去から解放されたのではないか、と僕には見えた。
その言語化するという行為が、「取り替え子」というモチーフと、子どもの質問に答える形で述べた、ラストの古義人の考えともリンクしてくるのだ、と思う。
そこにあるのは、大事な人の死を悼み、受け入れるまでの、一つの物語だ。
そしてそれゆえに、本作には、ある種のポジティブなメッセージも感じられるのである。
その予感が印象に残り、静かな気持ちで本を置くことができた。
評価:★★★(満点は★★★★★)
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