Luna's " Tomorrow is a beautiful day "

こころは魔もの。暗い地下でとどろくマグマのような…。

人は、いわば、二回この世に生まれる

2006年09月21日 | Weblog
わたしたちは、いわば、二回この世に生まれる。
一回目は存在するために、二回目は生きるために。

「エミール」/ジャン・ジャック・ルソー・著

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選ぶことができないもの。健康、性別、時代、境遇、親。
選ぶことができるもの。生きかた、生きること。



わたしは人間として生まれた。人間の社会の仕組みのなかに生まれてきたので、自分を縛るものに取り囲まれていた。それらに身をゆだねることもできた。でも気持ちに納得のゆかないものがあって、それはいらだちに変わり、やがて耐えられないものになった。心には、別の願望が植物のように伸びてきたから。

だから、思い切って飛び出した。わたしは自分の気持ちにしたがって飛び出してきた。自分の本当の気持ちに忠節でありたいから。わたしは、ようやく、生きることを始めた。たくさんぶつかったけれど、そのたびに知恵を拾ってきた。独身者だけれど、セレブじゃないけれど、同い年の人や年長の人と話したり、一緒に仕事をしたりしていて、はっきりわかったことがある。自分は彼らの誰よりも、多くの「知恵」を身につけてきた、と。

奴隷であった経験は、けっしてムダじゃなかった。傷ついた経験はけっしてムダじゃなかった。失った経験はけっしてムダじゃなかった。わたしには、少なくとも奴隷たちとは違っている点がある。

自分の気持ちにしたがって生きていること。誰かを見返すためじゃなく、誰かに認めさせるためでもなく。

「わたしは生きている」とはばかりなく言える人間がどれほどいるだろうか。他人に認めてもらうために生きるのは、生きているんじゃない、単に存在しているだけだ。


次に、自分の考えを堂々と表明し、また、多くの人と討論できるようになるということです。

2006年09月21日 | Weblog
 その第一は、ものごとに対して自分なりの考えを持つ、ということ。
 次に、自分の考えを堂々と表明し、
 また、多くの人と討論できるようになるということです。

 渡辺淳/(「国際感覚ってなんだろう」/渡辺淳・著)より。

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ICU(国際基督教大学:海外から帰国した生徒の受け入れ専門校)高等学校のいくつかの授業クラスで、「海外で暮らした立場から、国際感覚に関連して、身につけたほうがいいものがあるとしたら、それはなんだろう」と聞いてみました。すると、まっ先に出てくる答えがあります。

その第一は、ものごとに対して自分なりの考えを持つ、ということ。次に、自分の考えを堂々と表明し、また、多くの人と討論できるようになるということです。

海外の学校では、つねに「君はどう思うのか」とか、「あなたの意見はどうか」と問いかけられます。ですから、いやでも自分の考えを持たざるを得ないのが実情です。それも、“ニヤニヤ笑い”でごまかしたり、“こそこそ話”をするのではなく、堂々と自己主張したり、自己アピールができることが求められます。

ところがこうしたことは、日本に暮らす私たちにとって決して簡単なことではありません。たとえばイギリス・ケンブリッジ大学のサマー・スクールに参加した国内生の尾崎美穂子さんがこんな経験を話してくれました。彼女は高校2年生。はじめての長い海外語学研修に参加するため、はりきって出かけたそうです。

「いろいろな国から生徒が集まっているので、授業以外のときでも英語を話すということが暗黙の了解になっていました。でも同じプログラムに参加した日本人のなかには、日本語でこそこそ外国人の悪口を言う人たちもいて、“いやだなあ”と思っていました。

「ところがハイキングに出かけたとき、どういうわけかスペイン人の子のグループが固まってしまい、スペイン語でばかり話しています。私は気になったので、となりにいたイタリア人の子に、“英語で話してくれたらいいのにね”と不平をもらしました。すると彼女が大きな声で、“ちょっとみんな、スペイン語で話すのやめようよ”と明るく言ってのけたんです。
「頭がガーンとしました。“たったこれだけのことをどうして自分で直接言えなかったんだろう”と、ほんとうに情けなくなってしまったからです」。

ただ、尾崎さんの場合は、この経験が教訓となって、ますますいろいろな人に溶け込む努力をするようになった、と言います。





「逆に、国際感覚を磨く上で、これはマイナスだというものはあるんだろうか」と問いかけます。するとさっそくやり玉にあがったのは、「○○人はこうだ」とか、「とかく外国人というものは…」などと、ひとまとめに論じるステロタイプの発想でした。10年以上アメリカで暮らした小堀あやさんがこんなことを言っています。

「私は苦手だったんだけど、日本人や韓国人などオリエンタルの子は数学ができてあたりまえと、現地では思われているんです。“なんだ、日本人なのに…”と、向こうの子によく言われました。“私は私なのよ”と言いかえしましたけど。“○○人は…”なんて、ひとまとめにするのはやはりおかしいですよね」。

小堀さんはアメリカの生徒の例をあげてくれましたが、こうしたステロタイプの発想は、私たちの側にも根強くあることは言うまでもありません。したがって、小堀さんの指摘は、「すべての人を、まずひとりの人間として見ることが基本だ」ということになるでしょう。

これと関連して、海外に住む日本人が、日本人だけで固まってしまい、なかなか現地に馴染まないということも指摘されました。せっかく現地校に通っているのだからと、日本人のグループから離れて現地の友人とつきあうと、「なんだ、あいつ」という感じで、日本人からつまはじきにされてしまう傾向がある、というのです。狭い日本人生徒のグループに閉じこもってしまう現象です。

(上掲書より)