音と言葉フルトヴェングラー Wilhelm Furtw¨angler 芳賀 檀 新潮社 1981-03売り上げランキング : 48288Amazonで詳しく見る by G-Tools |
というわけで,私の最も敬愛する音楽家の一人,ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの言葉を冒頭に掲げつつ,今日も今日とて参りましょうか。釈迦に説法的な内容になりますが,適宜読み飛ばして頂きたい。
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ま,思うに,心理学にとって,科学的であれ! というのは,これ呪縛ですね。これに対して,科学では分からないこともある,と答えるのは,自らをオカルティストと認めるようで,非常にはばかられるものがあるのだと思いますが,それはもはや議論の対象というよりは前提になっており,そもそもなんで科学的であらなければならないのか,科学的であるとはどういうことか,っていうところはなんか軽やかに無視されて,科学,科学と連呼されてるわけですね。
ま,どんな分野においても,今日,科学的でない,と言われることは,強烈なダメージを被ることが多いわけでして,したがって,文系・理系でいえば,文系の親玉「哲学」とか文系の若頭「社会学」,文系の長老「宗教学」っていうのは,しばしば,科学批判をするわけですが,ま,その成果は芳しいとはいえず,当たり前ですが,現代的な生活は科学的な基盤を持って成り立っている部分が多すぎて,批判も腰砕けにならざるをえないわけでして。
ところで,「すべて偉大なものは単純である」というのは,これ,フルトヴェングラーさんの音楽観でありまして,具体的なものとしては,バッハ,ベートーヴェン等のドイツ音楽を主に指して仰られてるわけですが,実はこれ,科学にも当てはまることなのでありますね。
というのは,科学というのは「一般法則定立」をその目標としているわけでして,一般法則というのは,例外はありつつも,できるだけ条件が限定されない条件下での法則性を見出すことであります。一般化する単純化するとはそういうことであります。
譬えていえば(といってもあまり知らないけれど),アインシュタインの「相対性理論」には,「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」というのがあるのですが,これ,先に「特殊」を証明した後に,「一般」へと発展したわけで,「一般」のほうが難しいのね。なんでかっていうと,それは単に条件が増えるから,ですね。条件が増えると,パターンが増えるわけで,それをあい矛盾することなく成立させるのは,より大変なのはわかると思います。
ちなみに,重力理論においては,種々の証明やら観察やら実験やらを通して,一般相対性理論が正しいだろうことは,おおむね支持されております。そして,「一般相対性理論」というのは,種々の理論のなかで,最も単純な形である,ということがあるのですね(簡単に理解できるという意味ではない)。
そういえば,高校の時,よく数学の先生が,生徒の解答に対し「美しくない!」という,なぜか審美的なことを言ってて,正直「?」と思っていたりしました。物理の先生もそういうことを言いがちだったかもしれません。「美しくない」解答を連発してた僕としては,これすごくひっかかってたわけですね。
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やがて,清く正しく文系大学生となった頃,工学系の友人に聞いてみたわけですね,「数学において,美しいとはどういうことか」と。するとその友人は,自分も高校の時に数学の先生が言ってた言葉を憶えている,「数学は美しいから,たいてい答えはイチかゼロよ」などと言われたことを憶えているという。
ま,これに対して,「じゃ,2×2=0じゃないのか?」とバカ丸出しで聞きかえした訳ですが,そこはヒトデナシ(つまり俺)の友人はイイ人が多いですので,笑いながら,それには答えず,「デジタルってどういうことか知っている?」と問うてきたわけね。
もちろん即答で「カシオの時計!」と答えるわけですが,さすがにこれはサムイわけで,今思い出すとサムボロがゾワゾワくるわけですが,そこでも我慢強く「デジタルとはイチかゼロかである」,「機械でいえば,電気が流れる(1)か流れないか(0)である」,「コンピュータ上の複雑な計算は,つきつめていえば,電流が流れるか流れないかを複雑に組み上げることで成り立っている」などなど説明してくれたわけです。
それに対して,「なるほど,そう言われれば,確かに一応は納得できる,しかし単純なものが美しいとは限らない,複雑なものにこそ美しさがあるのではないか,第一,あらゆるすべてのものをイチかゼロで表現することは不可能ではないか」と,本人は反論してるつもりの,厨度の高いインネンを吹っかけるわけですが,ここでも「まあ,ね(笑)。でも,できるものに関してはイチかゼロにしとくといろいろ便利だとは思わない?」と軽くいなされたわけですよ。
さらに,「たとえば,3次元って何だと思う?」,「縦・横・高さ!」,「4次元は?」,「……プラス時間」,「(笑)じゃあ5次元は? 6次元は?」,「……シラン」,「要はね」,「ム」,「4次元は3+1次元,5次元は4+1次元,6次元は5+1次元」,「……」,「だから次元を考えるには,n+1次元で全部が表現できるのね,あ,nは任意の数ね,軸の名前はx, y, z……,何次元でも理論的には表現可能だよね」,「だから?(半泣)」,「うん,だから,軸に特定の名前をつけるのは後でもできるよね?」,「……」,「それが条件ってことになるのかな。条件によって導き出されるものは違うけど,なるべく違う条件にも対応できるように,シンプルな形にしておくのが数学的な考え方ってわけ」,「……」,「数学だって万能なわけじゃなく,条件によっては,「不定」とか「解なし」とかあるけれど」,「……聞いたことある」,「(笑)分からないことが分かるというのもひとつの知だね?」,「……」,「その際,式を簡単にしておけば,条件を代えたときにその式自体の妥当性を検討しやすくない?」,「ム」,「だったら最初の式はできるだけ簡単な方が楽だよね」,「……」(だいたいこんな感じだったと思う)。
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というわけで,もう随分昔の話になっちゃうわけですが,あの恥ずかしさたるや,いまでも忘れません。そして,なんだかよく分からないけど,やや勘違いも含みつつ,「そうか,数学というのは答えが,イチかゼロになるんじゃなく,イチかゼロに「するべく」最大限努力するものなんだ」とインプットされたわけですね(間違ってたらごめんなさい)。
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わかるものはシンプルに,わからないものはそのままに,これが19~20世紀科学のやり方でして,これによって飛躍的に多くのことがわかった反面,驚くほど未だわからないことだらけでもあるという,それをもって科学は無力だなんて思う人はいないと思いますが,当たり前ですが,それはひとつの(そして今のところ最も有力な)認識論ではありますが,限界もある,限界もあるというよりも,そもそも万能的なものを想定してはいないということでして,それでも多くのことがわかってきたわけですね。
科学的な認識は,実際の適応上において,何かが不足せざるを得ない,と皆が思い,それを補うのが,たとえば複雑系といっても良いし,QOLといってもいい,とにかくなんか足りない。計算可能性ということも含めて,いろんな人がいろんなことを考えます。
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個人的に思うのは,「科学は科学にしやすいものを選んで科学する」ということでして,これ筒井康隆が「批評は批評しやすいものを選んで批評する」を科学に変えただけなんですが,ここでヴィトゲンシュタインをひいても良いのかなと思いつつ,良い悪いではなく,要は認識っつうのはそういうことなのね,科学に限ったことじゃなく,ね。
そして,科学もまたコミュニケーションであり,数字もまた多重言語である,科学の客観性というのは素朴に実現されるものではなく,客観的だとのコンセンサスが得られている手続きを踏んだ上での科学者間の間主観性の産物に過ぎない,科学は金儲けに使えるが,また金がかかるものでもある,ということになると,「科学の社会経済学的コンテクスト」つうのは大に小に出てこざるを得ないわけね。コンフリクト,といってもいいかもしれない。コンフリクト・フリーな人生がありえないように,コンフリクト・フリーな科学の応用はありえない。
というわけで,ようやくここまで参りました,というところで,次回に続きます。STS(Science, Technology and SocietyあるいはScience and Technology in Society)すなわち科学技術社会論,というところを参ります。
最後に,最初に戻りますと,「数学が美しい」のは,社会の文脈を離れた論理のみの小宇宙だからなんだなあと思い,良くも悪くも,そういう無垢な美しさ,なんですね。そういう美しさをのみを追い求められる人はとても幸せであり,同時にとても不幸でもある,なんっつってな。
今更クーンを持ち出さずとも、科学は科学なりに限定された方法論でもって科学であろうとしているわけで、その意味で「科学は科学にしやすいものを選んで科学する」というのはその通りなのでしょうね。その範疇からはみ出すものはいつでもあるのでしょうし、そう考えると臨床の知というものが魅力的だったのはそうした一般法則からこぼれ落ちようとするものをすくい取ろうとしていたからなのかもしれませんね。
ちなみに、数学的な美しさは、その解に至る道筋の示すストーリーにも内在するのではないか、と思ったりしています。複雑な事象についてどのように言葉を紡ぐか、という作業と似ているのかなとも思ったりしました。
ご無沙汰しております。
>心理学は基本的には科学的であろうとしているとは思いますが、
多分ですが,問題設定の仕方が問題なのかなと思います。基礎か臨床かを問わず,問題設定のところが文系的なのかなと思います。
これも今さらですけど,文系的研究は現実的な対応を,理系的研究は根本的な対応をそれぞれ模索するもので,現実的対応はスピードを,根本的対応は,正確さを,それぞれ「より」求められるってことでしょうか。
文系は論理をすっ飛ばせるけど,それは理系が論理をすっ飛ばせないのと同様,良くも悪くもそれが魅力であるかなと思います。どちらがいいというものではもちろんない。
>臨床の知というものが魅力的だったのはそうした一般法則からこぼれ落ちようとするものをすくい取ろうとしていたからなのかもしれませんね。
僕が個人的にいつも思うのは,医学における外科手術は科学か職人芸か,というところでして(というのをどなたかが言ってたような気がします),もちろん基礎理論はあるでしょうけど,指先が不器用だと実際に手術はできないという。そこでは常に理論より実践が先んじているのではないかと思うのです。任意の再現性がないものは科学ではないですよね。そこに科学が幾分か貢献できるとしても。
>その範疇からはみ出すものはいつでもあるのでしょうし、
心理学に限らず,生物学や医学なんかもはみ出すものが多いのかなと思いつつ,環境科学も地球科学も宇宙科学もそうかなと思うと,はみ出すものを従来のパラダイムで説明しようと頑張るのか,新たなパラダイムが出現するのか,おそらく両方必要なんだと思いますが。
>数学的な美しさは、その解に至る道筋の示すストーリーにも内在するのではないか
なるほどですね!
さらに僕が思うのは,科学者間ですらそのような主観的な認識がある程度共通に理解できるのならば,科学外の一般社会において,科学によって導き出された数字が「科学者の意図からはずれて」一人歩きするのは致し方ないことなのかなと思います。数字もまたコミュニケーション言語である以上,もう誤解は必然なのかもしれません。
ちょっと支離滅裂になってしまいましたorz。。。
エントリの方でまたまとめます。しかし,
>突き詰めると人間は科学的な存在なのか
うーむ,シビレマス。僕ももっと考えないといけません。