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聖書に学ぶ神のみことば

teacherが感じ、思ったことなどをいろいろと綴ります。聖書の一節をちょっと添えて。

イースター ルカ福音書24章から

2006-04-16 23:25:39 | みことば
 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。(ルカ24:36)

 祝 復活祭!!

 「神を知る方法は、神のみことばに沿って歩むしかない」

 第一コリント15:14
 「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」
 イースターにあたって、ぜひ確かめておきたいパウロの言葉です。また、イエスの復活を描くルカ24章でも、17節に、イエスの復活を疑うふたりの弟子が、暗い顔つきになるというシーンがありますが、これは主イエスの復活を自分のことだとして受け止めないと暗いものだということを示しています。信仰をもって聖書を読まないと、何の喜びも見出せないことになります。なにげなく年中行事としての復活祭を迎えていませんか?熱き信仰に裏付けられた復活祭でありたいものです。弱さの塊りともいえる私たちの前に、復活の主が立ってくださる喜び、復活の希望が聖書に約束されていることの喜びを確かめ合う日、それこそがイースターです。
 私たちは、復活の主の証し人です。証し人としての歩みを全うできますように、心からお祈りをして、4月16日のイースター礼拝が終わっていきました。

 イースターエッグ美味!!礼拝後の愛さん会も、いい時がもてました。主に感謝し、改めて復活の主をたたえます!

 ☆イースター礼拝後の愛さんの様子(教会HPから)☆

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せっかく冬に終止符と思いきや、明日そして明後日と雪予報。とくに職場のある空知地方は明日終日、雪マークが・・・。夏タイヤ出勤大丈夫かな・・・不安。

明日はもう4月も後半だよ、お天気さん。

イザヤ書から~平和を待望して~

2006-04-15 23:52:39 | みことば
 危険な世界へとひた走る教育界を案じつつ イザヤ書2:4

 主は国々の間をさばき、
 多くの国々の民に、判決を下す。
 彼らはその剣を鋤に、
 その槍をかまに打ち直し、
 国は国に向かって剣を上げず、
 二度と戦いのことを習わない。

東京都教委の独断専制主義ここに極まれり。民主主義を教える場である学校が、実は教育委員会という名の独裁組織に支配されている現実。これに対して、今日のA新聞やY新聞に期待したが、ふざけた文調で何も教育界の行く末を案じている様子が無い。メディアの抑止力の無さにも呆れてしまう。右寄りの思想を持った二世政治家たちが次期首相候補として乱立しているご時世は、日本にどんな未来をもたらしていくのであろう。残念な週末がきてしまった。こうした独断専制はきっと、近い将来、東京以外の道府県にも蔓延することになっていくだろう。
「愛国心」が強要され、均質な人間作りの場となっていかざるを得ない学校教育。
せめて、イザヤ書2章4節が、多くの人の良心に訴えるものとなり、抑止力となっていけばいいのだが・・。

 まもなく4月16日。
 世界各地でもたれるイースター礼拝が、聖霊の働きに満ちたものとなりますように

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受難週~ルカ福音書22:44~

2006-04-09 23:31:28 | みことば
 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。(ルカ22:44)

 受難週に入った。私たちクリスチャンの柱にある考えは、「神から離れた生活をすると、私たちは実に愚かな姿をさらしがちな人間にすぎない。」ということである。ルカ福音書22章では、イエスの十字架が近いのに、弟子たちがなにやら権力闘争的な愚かな姿をさらしているシーンが描かれている。醜い争いごとである。神から離れてしまうと、こんなふうになっていくという好例が描かれているといってかまわないであろう。その一方で、イエス様ご自身のとりなしの祈りが、「苦しんで、切に」なされたのである。

振り返って、私たちは普段そこまでの思いで祈っているであろうか?悲しいかな、答えは否である。弱い弱い私たちは、汗が血のしずくのように地に落ちるまでの祈りは実践できていないのだ。でも、こんなイエスの苦しみを思うとき、改めて愛の塊である贖いの主イエスを覚えて、神あっての自分に自覚的な生き方を模索していくことができるのではないだろうか。今日の牧師メッセージはそんなことを教えてくれた。

 ★動画★
 ふるさと銀河線乗車の様子。ガラガラの車内。新聞によれば、どうも十勝側(池田から陸別間)は盛況のようなのですが・・・ホント置戸から北見間は閑古鳥が鳴いているとでもいうべきなのでしょうか。

 「ふるさと銀河線」メモリアル旅行の写真は、膨大な枚数となりました。動画もいくつかあります。無料ホームページなどにアップして残していくつもりです。(現在編集中)

今日も雪が舞った札幌市内…いや~本当にこの春はどうなっているんだろう。明日は4月10日になるというのに、夏タイヤに換えたいという気が起こらない。

オープンしただろうか?明日、出勤がてら楽しみ。(きっと、まだ駄目)

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 teacherは、明日、いよいよ入学式&始業式。とはいっても、担任でもないし、副担任でもないし、緊張感のない一日であります。バタバタと飛び回っている担任たちを横目に、勉強でもしているつもりです。


イースターまであと10日~ローマ6章8節~

2006-04-06 00:44:34 | みことば
 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

 今日も、ふと聖書を無作為に開く。開かれた箇所は、ローマ人への手紙6章。洗礼以後、クリスチャンとしてどんな生活をするべきなのか、そんなことを思い、下線をひいていた箇所がローマ6:11-13であった。
 でも、この6章全体を読んでいくと、実に明快である。「罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(6:14)」、「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(6:23)」など、簡素明快なことばが朗々と広がっているのです。

 イースターまであと10日。復活の主をたたえて、カウントダウンしていきたいものです。

こちらで、「自然のアルバム」をご覧ください。(コニカオンラインラボにリンク)

 山の雄姿とハクチョウたち

 悩んでいたけど、いま決断。「ふるさと銀河線」に明後日、別れを告げに行こう!!札幌から車でまずは帯広市へ出て一泊。置戸~訓子府間を乗車してこよう。思い出の区間である。あと半月で廃止となる鉄路を見るのは辛いが、もう二度とあの鉄路に列車は走らないのだ。直接、別れを告げに行くのが、沿線に3年勤務した者の礼儀であろう。そんなおかしな義務感がいま襲ってきた。

 ところが、明日から天気が下り坂で、また予報。峠道が怖いな~。300キロ先までどんな運転になるやら安全運転で。

 

詩篇18~神、その道は完全~

2006-04-02 23:40:45 | みことば
いつも読んでいるはずなのに・・・詩篇18から

 愛読者の多い「詩篇」。僕ももちろん好きだ。この書は、そのときどき自分が置かれている気分で、すいすいと読めたり(時に解釈が浅くなったりということでもあるのだろうが)、また正反対にぐっと特定の1節にだけじっと心を留め、神との関係を思考する場合もある。
 今日は後者だった。いつも目を通している詩篇なのだが、今日はとにかく進まなかった。

 詩篇18:30 神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。

 今日は礼拝前に、この1節に引き込まれ、「ああ、これがすべてだ」という気持ちにさせられた。そして、牧師メッセージは、「光の子どもらしく歩みなさい」(エペソ5:8)であったから、とても関連深いものがあった。なんという導きでしょう。心から主に感謝です。

 「光の子どもらしく歩みなさい」(Walk as children of light)について詳細は明日。

 4月2日・・・昼から雨となり、夜になって雪。高速道路が伊達と苫小牧間で吹雪のため通行止め。いや~4月になってもふりますね~夏タイヤに換えようかなんて、この時期思うものですが、どうも当分無理な気配。

 もうひとつ。
 詩篇18:46 主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの神。

ファイターズ3連敗のあと3連勝。こんな出入りの激しい野球やってたら、最後はきっと駄目。4月から先が見えてしまっては悲しいな~。



一息ついていたら冬へバック~ローマ人への手紙2章~

2006-03-30 23:50:17 | みことば
春の大雪ニュース~一晩で1メートル近くもふるなんて・・・★

 写真は我が家の車庫屋根に積もった雪。とにかく寒い!!どうなっているんだろう・・・。あと2回寝ると、4月なのだが…。

 ローマ人への手紙 2章から7節・8節
7節 忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、
8節 党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。(注:5節からの主語は、「神は」でつづいている。)

 党派心という言葉が気になって、書き留めた。NKJヴァージョンでは、「党派心」をself-seekingと訳しているので、ここは利己主義、身勝手というところだろうが、この「春休み」期間中も職場に行くと、本当に利己主義、身勝手な同僚に言葉もない場面に多々遭遇。

 イライラせずに、我慢することを教えてくれる聖書の力にどれだけ助けられているだろう。父なる神の愛、イエス・キリストの恵み、聖霊の親しき交わりに感謝し、いよいよ明日は、本当の年度末である。

 労働過多は禁物。明日は休暇を取りました。でも寒さと荒天は続くそうで、ぱっとしない3月の終わりになりそう。
 教会のY姉宅に行き、調子の悪いプリンタを診断してきます。Y姉宅のPCは、
Windows95だそうです。まだあるんだな~。

 

みことばホームページTOPへ(4月のみことばは3月31日掲載予定)

には、いつになったら乗れるかな~春休みには乗り始めたいと思いながらも、この雪景色。

ローマ人への手紙1章

2006-03-29 23:22:38 | みことば
ローマ人への手紙1章~昨夜就寝前に~

 ビールの写真は特に関係ないのですが、仕事漬けにならざるを得ない春休みでも、昨夜は就寝前に、「ローマ人への手紙」1章を読みました。(情けないことに、1章を読んで疲労ダウン)

 1:16 私は福音を恥とは思いません。福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
 1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

 なんだか、嫌なことばかりが続いた3月だったけど、まさに福音によって得た救いの力で無事過ぎていきそうです。試練を下さっても、それを神の愛という側面から受け止めてこれからも毎日を過ごしていくことができるなら、少しは、「義人は信仰によって生きる」を実践できるのではないかと、これまた自分勝手に解釈しております。

 忙しすぎるのは駄目。3月31日(金曜日)は休むことにしました。その分、明日目一杯仕事であります。

 昨夜未明からなんとなんと。5センチくらい積もってしまいました。いつになれば、積雪ゼロになるのやらです。甲子園も雪が舞ったというのだから、どうなっているんだろう。

 神の祝福に感謝し小ビールで乾杯。今夜もう少し「残業」しないと明日の朝が来ない・・・。

★★みことばホームページ★★

傲慢が信仰に取って代わるまで

2006-03-19 23:17:11 | みことば
 「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」(ルカ5:5)

 シモン・ペテロはこうイエスに述べているが、私たちは、ここをただ単に、ペテロが淡々と事実を伝えている箇所だと浅読みしがちである。
 しかし、よく読んでみるとそうではない。このペテロのせりふには、「俺たち魚をとる玄人でも取れなかったのだ」という傲慢さが内在されているように思う。

 5:5は、5:4でイエスが、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言っていることに対する返答なのであるから、やはりペテロがまだその時点では、イエスのことを信じておらず、「魚をとることに関してはシロウトのお前に何がわかるかって・・」という心理が働いていたと考えられる。

 だからこそ、ペテロは、5:8で、「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と続けざるを得なかったわけである。ペテロは、自分の傲慢の罪に気づいたのであろう。
 
 特段深読みしてこの解釈にたどりついたわけでもないが、どうにも力不足の私は特に福音書の浅読みが多く、いまごろこんな簡単なことに気づいている。でも気づいたからこそ、イエス様とともに在る自分を再認識できるのである。

 聖書は、「傲慢」という罪を通して、自分のあり方を見つめなおす機会を与えてくれる良書である。

 外は、というよりも吹雪。ひさしぶりに雪が積もった・・明日は学会があって北大へという予定なのだが・・ポプラ並木を雪のなか歩くのは辛そう。春はまだまだ先にあるのかもしれない。

 

ルカ5章4節の前後関係~「驕り」と「傲慢」

2006-03-18 23:52:40 | みことば
シモン・ペテロは傲慢だったのだ・・・

 福音書は怖い。そう思う。何とはなしに読み進めてしまうからである。読み手が悪いといえばそこまでだが、おうおうにして福音書はそんな読み方に終ってしまいがちではないだろうか。
 2006年の教会聖句であるルカ5:4も実は洞察が必要な箇所であるにも関わらず、意外と浅読みで終りかねない箇所のような気がする。

 ルカ5:4は、その前後の節の解釈が重要なのだろう。そんなことに今頃になって気づいてどうするのだと叱られそうだが、詳しくは明日まとめたい。なんだかとても眠い。

 明日の礼拝が豊かな時となりますように。司会の務めが主にあって祝福されますように。

マーク。大荒れになるという天気予報です。あさって月曜日はさらに荒れるって。札幌で学会があって出かけるというのに、どうしてこう外に出かける日に限って天気が悪いのだ・・・と。

何気なく開いてもそこには賛美が

2006-03-16 23:14:03 | みことば
 詩篇はなぜこう愛読されるのだろう

 求道時は詩篇から入る人が多い。多くの教会で交読する機会も圧倒的に多いに違いない。
 詩篇のすばらしい点は、脈絡なくぱっと聖書を開いても、そこには常にわかりやすくすばらしい詩が並び、またそれが例外なく賛美の気持ちにあふれていることが理解できる点である。

 今日も何の意図もなく、ぱっと開くと、9篇が目に留まった。

9:10 御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。

 今日は、このことばが偶然与えられたとは思いません。職場では決して良好な関係ともいえない上司と友好的な話し合いができたことが今日の収穫。祈りにこたえて、主がこうした道を敷いてくれたと感謝しています。

 あすは、北海道公立高校の合格発表日。ボランティアで2年間英語を教えたO君が志望校に合格しますように、お祈りして就寝です。

 

callingとvocation~エペソ4章を軸にして~

2006-03-12 23:54:56 | みことば
「召された人の歩み」~エペソ人への手紙4章から~

 3月の第二主日に与えられたみことばは、エペソ4章からでした。「エペソ人への手紙」4章から先は、教会生活の実践的なあり方をパウロが説き、勧めているわけですが、そこでのキーワードは、「歩み」です。「歩く」とは、人間の基本的動作であり、生きることの象徴だともいえますが、人間が“ひとり歩き”を始めるようになって、死と永遠の裁きに向かって歩くようになってしまったことを聖書は描いているわけです。(創世記)ただし、「召された人々」はそうではないのだというのが、パウロの言わんとしているところです。

 そこで、「召し」=callingが出てきます。

 エペソ4:1 さて、主の囚人であるあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
 I , therefore,the prisoner of the Lord, beseech you to walk worthy of the calling with which you were called.

この「召し」ですが、新共同訳ですと、「招き」になっています。どちらの訳がいいのかは別にして、神が私たちに「人生」を賭けてくださっているとでも表現するといいのでしょうか。神が私たちを聖徒として信じ、みていてくださるということ、競馬で言えば「駄馬」に賭けてくださっているのです。それだからこそ、2節、3節と続いているはずです。

 2節 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
 3節 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

 さて、神の信頼と期待に応えて、それにふさわしい「歩み」をすることができるでしょうか。一人ひとりが問われているのです。ただ、重たい問いではありません。calling=召しとは、キリスト者になるべくこの世の中から呼び出されたことを示すわけですから、イエス様を信頼できればいいのです。

 また、callingとほぼ同義にvocationがありますが、こちらは、「召命」と訳されています。聖書の述べる「召し」・「召命」の力点は、人間の側の「努力」ではなく、神の呼びかけに置かれているのだということを理解する必要があります。そうであるならば、「召し」がいっときの経験にとどまることなく、生涯をかけて暖め続ける体験であるという認識に立たねばならないでしょう。

 “熱い”言葉で溢れている「エペソ人への手紙」は、こんなことを教えてくれています。

 
 

天に宝を積むこと~マタイ19:21から~

2006-03-09 23:07:02 | みことば
「そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(マタイ19:21後段)

朝、目が覚めると銀世界。札幌周辺は15センチ程度の積雪となった。それでも除雪車はやってこない。予算がないからというのは理解できるが、要はそんな雪も昼間には大方溶けてしまうからというのが第一の理由だろう。3月のそうした大雪は、「まだ冬か・・」という溜息と「そろそろ春だ」という希望の両方をもたらす。季節とは不思議なものだ。
10センチ以上の雪が降ったというのに、昼間の日射しも長くなり、夕暮れになっても農家は、融雪剤撒きに忙しい。江別市の東側南幌町寄りの場所から、夕焼けと融雪剤で「黒化粧」の田畑のコントラストを撮った。毎年見る風景だけど、本当に気持ちが安らぐ。いま職場で巻き込まれている困難も、神が創造した原風景に近いものを見ていると、なんとか乗り越えていけそうな気がする。今日もそして明日からも神に祈ろう、そんな勇気が少し湧いてきた帰路であった。

3月9日の風景~オンラインアルバムへどうぞ!

 イエス様は、21節前段ではこう青年に言うのです。
「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。」

 なかなかぎょっとすることばです。さらにすごいのは、23節です。
「金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。」

 格差社会が大きな話題になっていますが、一握りの「勝ち組」は、こうした救い主のことばをどう受け止めるのでしょうか。カネの魔力はたしかに、人が神から離れていくことを誘発します。マタイ福音書のこの箇所を改めて開いて思うのは、いつの時代も、人は神によって品性を問われ続けているということです。(巨額の補助金を私利私欲に使い果たしたA学園大学の前理事長にも、ぜひきいてほしいみことばです。)

 みことばホームページはこちらへ!!



文化のゆえに滅びる?~創世記をもとに~

2006-03-08 22:31:31 | みことば
創世記11章 バベルの塔が伝えているもの

 札幌でも、マンションの耐震強度偽装問題が発覚し、この問題はどうやら日本全国に飛び火していきそうな気配を感じる。
 一つの建物に何戸もの人が住む「マンション」。いまや建築学という学問に裏づけされたひとつの社会文化の象徴ともいえよう。その「文化」が、人を超えた存在に対する畏怖の念がない人たちによって滅びの危機にあるといえる。

 創世記11章1~9節 バベルの塔のお話から
8節 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。

 その町こそバベルであり、そこに人々は天に届くような塔を建て、名をあげようと画策したわけですが、それが主によって否定されてしまうわけです。これは、最近のマンション耐震強度偽装事件につながっていきます。
 「マンション」という金のなる木は、神への畏れの維持を困難にしたのです。と述べてしまうと実に一方的な言い方になるかもしれませんが、高度な都市文化の象徴である「マンション」の建設に、人間の超越した力への畏怖を失くして思い上がり、結局は文化のために滅んでいく人の姿がみてとれます。

 文化・文明の発展は結構なことですが、それ自体が至高のものとなってしまい、神の存在が遠いものとなっていく今日に、神は、耐震強度偽装事件の発覚を通して警鐘を鳴らしているのだと思います。

 こうしてブログを発信している今も、「ネット」という文化の裏で、ネット詐欺、データ流失などの悪行が横行しているはずです。インターネットという便利なものを手にした人は、同時に何かを失ってもいます。

 文化・文明ゆえに滅びない謙虚な生き方を常に模索するクリスチャンでありたいという自覚こそが今日求められるはずです。
 創世記1~11章は、人間全てにあてはまる原初的ストーリーですが、バベルの塔の記述と昨今の世相はしっかり重なります。「罪」に自覚的な人間でありたい、
札幌の耐震強度偽装問題を知り、そんな思いが駆け巡った3月8日である。

 写真の鳩は、ぜんぜん、みことばと無関係。よくエサの少ない冬を乗り越えた鳩たちに拍手!!
 

人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。

2006-03-06 23:49:07 | みことば
パウロの真摯な祈り~エペソ3:19~

 タイトルに引用したエペソ3章19節は、実によくいろいろな書物などに使われている箇所ですが、だからといって「俗っぽい」という部分は全くありません。3章14節から21節まではパウロの真摯な祈りがしっかりと伝わってきて、本当に勇気づけられます。

 キリストの愛の外に置かれている人はいません。経験や理性を超えた神の愛はたしかに存在します。キリストの体の一部である教会での交わりを通して、それを確かなものとしていきたいものです。

 昨日は、教会総会が祝福された時間となり、主に感謝です。

 エペソ1:23を改めて感じつつ、恵みに預かりました。

 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

 東京は春一番が吹いたとか・・・。こちらは夜、 朝、ゴルフ場で塩カル(融雪剤)を撒いているのを見ましたが、これで台無し。ああ~いつ春がくるんだろう。やはり待ち遠しい。愛用デジカメ、Fuji F-420が故障。ショック!!