和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

狛峠越え

2010年07月04日 | 和州独案内
やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 京を置きて こもりくの 泊瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 阿騎の大野に はたすすき 篠を押しなべ 草枕 旅宿りせす 古思ひて
           (巻一 45)
 
 一番奥に見える山々が三輪山から巻向山の山列で、その麓に初瀬谷が長く伸びています。谷筋の道から狛の集落の果てまで長い登り続きのうえ、この先は本格的な山道になります。と言っても距離にしても高々500m程でしょうか。
 
 狛峠の暗く険しい山坂道を抜けると、視界が開けてはるか遠くに烏ノ塒屋山の尖った山頂がかすかに見える。可瑠皇子一行がもしこの峠を越えて阿騎野を目指したとすれば塒屋山は格好の目印になり、目的地の阿騎野まで視界に入り続けます。

 手元にある「日本古典文学全集」のように通った道が狛坂越えでは無いとすると、忍坂を通る半坂峠、あるいは谷を挟んだ女寄峠位しか考えられません。狛坂越えは結構距離がかさむルートなのは間違いなく、阿騎野まで歩けといわれれば宇陀ヶ辻で初瀬と忍坂のどちらかを選ぶとしたら間違いなく忍坂を選びますね。
 それにしても、詳しくは別の機会に書くにしろ、記紀の伝承にある女坂が大峠越えだなんていうのは幾らなんでも無茶過ぎます。女坂は男坂の対に在り、男坂より緩いものに付けられるはずですから、大宇陀町史にあるように男坂→ナンサカ→ハンサカ→半坂と転嫁したと考えられる半坂峠を男坂にあてて、谷を挟んである女寄峠が女坂にふさわしいと思うのですが。ただし、半坂峠を小峠とも呼ぶことから大峠との対比で女坂にあてる文献もあるように推測の域を出ない話ではあります。
 現在の女寄峠の元は明治期に開通したもので、更に最近トンネルが貫通して広い直線の車道がはるか下まで伸びています。昔の道をトレ-スすることは難しいですが、花山塚古墳が存在する事からも古くからある峠道なのは間違いないのでしょう。面白いのは榛原方面に抜ける丁度その場所から額井岳の山頂が綺麗に見える事です。
 
 今歩いてきた道を振り返ると、峠のたわみが見て取れる。細い道がゆるゆると曲がっていい味を出しています。何の変哲も無い農道ですが、美しさを感じるのは余計なものが何も無いからでしょうか。こんな風景もいつまで見られるのやら、もし農業用ハウス等が建ってたらごめんなさい、でも農業はハウス無しではやってけないんです。

 農道を下ると車道に合流して、そこからはどの道を行ったものやら分からなくなります。何故か狛坂を越えてから、更に女寄峠を越えて麻生田に山道を分け入るルートを想定するものもありますが、それなら元より半坂峠を越えた方が素直だと思います。

 狛坂を越えた笠間郷は正倉院文書にも現われる古くから開かれた集落です。ここから大宇陀方面に抜ける道は現在二つ、どちらも榛原の町の方面に少し歩いてから東西に伸びる丘陵を南に抜けます。一帯には古墳が点在しており、道の一つは行者塚古墳群や澤ノ坊2号墳の間を抜ける道です。ただし澤ノ坊2号墳は件のパイロット整備事業で破壊され墳石だけが何とも知れぬままに集められて残っています。
 もう一つはダケ古墳の横を抜ける道ですが、狛坂に近い行者塚を横目に通るルートが地道になっており雰囲気的にこちらがいい感じです。が、このルートも右手のハウスが目印で墓に向かって山に道が続いていますね、すいません。
 丘陵を越えると、宇陀川に沿って遡上するルートが分かり易く、爾来旧の街道として利用されていますのでここを歩くと、やはり烏ノ塒屋山の尖った山頂が目印になってくれます。 
 
阿騎の野に 宿る旅人 うちなびき 眼も寝らめやも 古思ふに

ま草刈る 荒野にはあれど もみち葉の 過ぎにし君の 形見とそ来し

東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ

日並の 皇子の尊の 馬並めて み狩立たしし 時は来向かふ

 長歌に続く四首の短歌は時間の推移を折り込みながら歌われており、かぎろひの歌はもちろんのこと最後の歌は「阿騎野の朝」の絵の記憶と合わさって躍動感みたいなものが半端なく感じられる。この四首の短歌は出典も早めでかなり好きな歌です。

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