和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

天平の諸像 東大寺法華堂と興福寺西金堂

2009年11月26日 | 和州独案内
東大寺法華堂の堂内はほの暗く、そんな中に人の背丈をはるかに越える巨像が十数体も林立し、所狭しと並ぶ様はさながら天平仏の森に迷い込んだようです。一つの御堂内に、これほどの数の仏像が居並ぶのは国宝仏がと限っても、東寺の講堂諸像群には及びませんが、天平仏のと言えば法華堂に勝るものは無いでしょう。
 東寺講堂の空間の広さはその数を収めるに余りある大きさですが、比べて法華堂は堂内の規模が小さい割に、そこに詰め込まれた仏像の数とスケールは目を見張るものがあり、アンバランスと表現する事もできます。
 堂内に安置された合計十六体の仏像のうち鎌倉時代に造られた木彫地蔵菩薩と不動明王像、十世紀始めに吉祥院から移されたという弁財天・吉祥天像を除く十二体の諸像が法華堂創建当初どの様に安置されていたのかまたはいなかったのか。そもそも法華堂は何時創建され、また諸像がいつ造像されたのか詳しく論じられる事はありましたが確かな事は分かっていません。それもそのはず、いくつもの文献や仏像様式、考古といった断片的なカードを辻褄が合うように並べ替えをしている、するしか無いのが現状だからだと言うのは以前に書いた通りです。法華堂自体の根本的な解体修理でもあって地下部の調査もなされればあるいは大きく動く事があるかもしれません。


 興福寺西金堂にもかつて阿修羅像を含めて三十体近い像が並んでいましたが、罹災を繰り返し、幾つかの像を残すのみとなりました。その中に阿修羅像があったことの、天平の時代から今この時に見える事の出来る奇跡に感謝します。わずか15キロほどの重さしかない乾漆像の特性が良かったのかも知れません。
 その阿修羅像を含む八部衆や、十大弟子の今に伝ええられた諸像が、堂を移して仮の中金堂に会するのが「お堂で見る阿修羅」です。いや、でした。蓋を開ければ二十万人以上の人を集め終了してしまいましたが、一、二時間待ちは当たり前という阿修羅像の人気の高さを改めて思い知らされるものでした。
 

 思うに阿修羅の像容の際立つ特徴は、よく言われる憂いを秘めた青年様の容貌もさることながら、極めて繊細な六臂にあるように思います。左右の肩口から枝分かれした複腕は、肉付きの造形もまったく無く、かいなから手首までほぼ同じ太さで形作られています。阿修羅と言えば筋骨隆々とした憤怒像が一般的であるのに対し、この像は腕の付け根にさえ肉付きが一切無い、その事が各腕の長さをことさら強調する結果となり、像全体の存在感をより大きくしている。簡略な表現かと言えばそうではなく、腕釧や臂釧といった装飾を施しており、その腕の終端の指先も繊細に表現されています。
 仏法の守護者たる八部衆で唯一、鎧を纏わずにほぼ半裸の薄い胸板を晒している。これも考えれば奇妙な話ですが、仏典にはその様な指示をしているものも有ります。
 現代の人気の高さもあって仮中金堂では主役の扱いを受けており、何か勘違いをしてしまいますが、本来あくまでも脇の脇の仏であったにすぎません。それにしても何故あのような生々しい顔の造形にしたのか解りませんが、如来の超越した風貌とは一線を画すのは間違いありません。これが西洋絵画であれば脇の人物に作者や知人の顔を忍び込ませるというお遊びもあり得るところですが、流石に無いですか。ただ、仏像という宗教的な制約を多分に受けるものではあっても、中尊の釈迦如来は無理として、脇の脇の仏像に遊びや試みがあることは考えられるのではないでしょうか?仏師という職人であり信仰者であり芸術家でもある者の発露として。
 仏師将軍万福が果たしてどの様な考えを胸に、この像を造り上げたのか知る術はありません。だから勝手な事が書ける訳ですが、空想が夢想にならぬように少しこれら諸像にまつわる話を纏めておこうと思います。

 733年、光明皇后の実母である県犬養橘三千代が亡くなる。仏教に深く帰依した母の影響を受けて育った光明子は同じく仏教に傾倒し、夫の聖武天皇の打ち出した国を挙げての仏教政策に少なからぬ影響を与えたとも云われています。
 三千代は光明子(安宿媛)を産む以前に、美努王との間に後の橘諸兄を儲け、軽皇子の乳母になって後宮に影響力を持つなど、当時の政治の舞台裏に深く関わっていました。
 そんな母の菩提を弔うため、光明子は興福寺に西金堂を造営しますが、既に建立されていた東金堂と対を成すように建てられた西金堂は、現在の東金堂と同じ規模を持つ、かなり大きな堂であったことが分かっています。
 その堂内には釈迦如来を中尊とした、釈迦浄土あるいは釈迦説法の世界が広がり、合わせて三十体近い仏像群のその中に八部衆と十大弟子も含まれていました。八部衆のうち沙羯羅・迦楼羅・緊那羅と阿修羅像は、中尊釈迦如来像よりも向かって左側に据えるために、やや左を向いた形で造形され(阿修羅はほぼ正面)、当然なのかも知れませんが製作時には須弥壇上に各仏像をどの様に配置するかも決まっていた事が解ります。
 
 本来の阿修羅像の扱いの脇役ぶりは仏教における阿修羅の立ち位置をそのまま表わしています。帝釈天(インドラ)によって調伏され仏法に帰依した阿修羅(アスラ)は、その前にインドラとガンダルヴァ(乾闥婆)の娘を巡って戦いました。インドラとは仏教以前からの因縁があり、インドにおいて既にインドラの優位は決定的になって、そのまま仏教に取り込まれます。成道後の仏陀に説法を勧める「梵天勧請」や「三道宝梯降下」で、帝釈天が梵天と共に重要な役回りを与えられるのとは対照的に阿修羅は魔族と呼ばれ、後に六道の一つ修羅道の主となります。
 しかし、より古くはアスラとインドラは対等であり、逆にペルシャのゾロアスターではアスラは最高神アフラマズダにまで昇格されるという面白い現象が見られます。
 

 最後に一つ、ヒンドゥーの叙事詩「マハーバーラタ」にある「乳海攪拌」神話ではアスラはデーヴァと対峙し、マンダラ山に巻きつけた龍神ヴァースキの頭と尻尾をそれぞれ引っ張ってマンダラ山を回して大海を攪拌します。乳海と化した海からは様々な珍宝が飛び出しますが、最後に不死の霊薬甘露アムリタが出現しそれをデーヴァが獲得します。アムリタを諦め切れぬアスラはデーヴァに変装してアムリタを飲もうとしますが、月と日の神に見破られ、ビシュヌ神に告げ口をされて首を切り落とされてしまいます。しかし既にアムリタを飲み込んだ喉より上の首は不死になり、告げ口された日と月を怨んで追いかけ、時にこれらを飲み込むために日食や月食が起こるのだといいます。
 この話から阿修羅のアトリビュート(持物)に日月を掲げるようになったともいわれ、遠く東アジアの阿修羅像は多面多臂で日月を掲げる像が圧倒的に多いものになっています。興福寺の阿修羅像が日月を掲げていたかどうか分かりませんが、仮に持っていたならば、第一手が胸前での合掌手、第二手で日月を大きく天に掲げており、第三手は無手か弓と矢を持っていたのではと想像できる。ちなみに造立年代が711年頃と最も近い、法隆寺の塔本四面具の阿修羅像は日月を持っていません。興福寺の阿修羅像が乾漆像であるのに対し、法隆寺のそれは塑像で更に小さいという違いはあれど、今日まで現存しているという奇跡は共通するものです。

 興福寺の建物を「誰が誰の為に」建立したのかは、一度奈良検定の試験問題にされており、押さえておくポイントの一つなのでしょう。試みに阿修羅に関して四択を作るとするならば
二級試験 阿修羅像の履物の名は
①金剛下駄
②藁草履
③板金剛
④天狗下駄

一級試験 阿修羅像の造仏に関わったとされる仏師・絵師の組み合わせで正しいものを選べ
①仏師将軍万福と画師秦牛養
②仏師薬師徳保と画師黄文本実
③仏師将軍万福と画師秦致真
④仏師蔵慶と画師猪部多婆理

ソムリエ試験 阿修羅像で上部に広げた両手は第何手か
①第一手
②第二手
③第三手
④第四手
試験問題を作るのは意外と難しい、それでもきちんと合格率を合わせて来る問題作成者には頭が下がります。来年も唸るような難問を期待していますよ。 

閑話休題 農とそこに吹く風と

2009年11月24日 | Weblog
 農家にとってハウスは欠かす事のできないツールです。天候に左右されずに栽培が出来き、とりわけ雨の多い日本では病気の発生を少なからず抑制する事が出来ます。加えて害虫の侵入を物理的に防ぐ事が出来るために減農薬や無農薬栽培が可能になります。
 反面、病気や害虫が一端侵入すると爆発的に被害が蔓延してしまいます。それに台風や季節風、雹や雪は、最悪ハウスの倒壊を招き、そうなれば天候に左右されずどころか精神的にも経済的にも容易に立ち直る事も出来ません。幸いこれまでは倒壊の経験が有りませんが、室生寺の五重塔に被害をもたらした七号台風、そして今年の台風八号ではビニル破れは当たり前、ハウスの倒壊もあるかと覚悟を決めたものです。もちろんやるべき事はやってのことですが、それは何というかある種の諦観のような感じでしょうか?自然を前にして人は如何に無力かを思い知らされる瞬間です。

 自分は生来の小心の為かハウスの風被害を常に心配しており、少し強く風が吹くと気が滅入ってくるものです。その場合、ハウスの倒壊よりもビニールの破れが先ず心配の種になります。台風ともなると進路予想を確認しながら何日も生殺しの様な状態が続きますし、冬の季節風の様に季節を通して吹く風や春・秋の前線の通過の様に瞬間的に吹く風などさまざまです。つまり、一年中風によるビニル破れの心配に悩まされるという訳です、ホントやってられませんねえ。

 どの風もヤバイのには違いが無いのですが、台風はジワリジワリとやってきて暴風が半日続きます。怖いのは横風だけで無く上からの押し込み、その後の引き抜く力こそが台風によるハウス倒壊の主要因だと思います。自分は本当の台風の怖さを未だ知りませんが。
 冬の風は同じ向きの風が季節を通して吹き続けます。この辺りでは、晩冬に台湾付近で発生し、発達しながら日本列島にやってくる低気圧を「台湾坊主」と呼んで忌み嫌っています。「台湾坊主が来るからつっかえ棒しときや」というのは奈良盆地にも大雪を降らせてハウスの倒壊を招くからですが、普通の人に、いや農家にさえ「台湾坊主」と言っても最近は何のことやら訳が解らないでしょう。最近の言葉で云う所の「爆弾低気圧」と同じと考えればよいのかな。
 春秋の季節の変わり目、寒冷前線の通過に伴う風は、実は一番被害の可能性が高いのかも知れません。短時間で急に天候が変わり、場所が悪ければ台風並の風が一瞬で吹き荒れます。さっきまでポカポカ陽気だったのが嘘のように荒れた天気になる、季節外れの陽気で暖められた空気が前線の冷たい空気に一気に取って代わられる訳ですから大荒れの天気になってしまいます。そんな時は天気の境い目の前線が見える事すらあります。と言うのも雲が本当に帯の様に真横に連なって通り過ぎるのが見えるってことなんですけれど。

 そうは言っても奈良は内陸性のお蔭か、風害のとても少ない地域になります。隣の三重は海風の影響で、滋賀は琵琶湖があることで強風注意報・警報が出されることが多く、ラジオで週に一二度は聞いている気がします。
 うちの畑で吹く風の七割程が南東風で、冬の季節風さえ南東から吹くのはある意味局地風といえるでしょう。六甲おろしのように名称の付いた地域的に吹く風など余り聞きませんが、東山間部の高見山から吹き降ろすものは「平野風」と呼ばれ、地元では貧乏風として忌み嫌われているといいますが、それくらいでしょうか。
 五条辺りの地形はフェーン現象が起きる条件を見事に兼ね備えています。夏場が相当辛い地域で、気温の年較差、日較差が大きいのも、水越峠付近の水争論の歴史もその辺りが原因でしょう。そしてそのことがこの地の米を吐田米と呼び、かつて相場を左右するほどの銘柄米を生み出す一因になったと言えます。
 
 考えてみると畑では常に風を感じながら、空を見ながらあれやこれやと思い巡らしている自分に気付きます。農というと何か止まった時間にある様に思われるかも知れませんが、これ程五感を働かせながら居るものは無いのではないでしょうか?生き死にが懸かってる辺りは泣けてくるのですが。