和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

番外 農と森と

2010年10月03日 | 農と歴史のはなし
 
 割と昔から樹や森について関心が深く、公園や山をそぞろ歩くことも多かったこともあり雑木林や里山という単語には殊更惹かれるものがありました。
 国土の約七割を森林に覆われた木の国、緑の国の日本といのは改めて不思議な国だと思うものです。新幹線が列島を数分おきに縦断して、その車窓から見える景色はどんな場所にも人家が点在しておりおよそ秘境とは縁遠いのですが、人の営みと森や林が非常に近くにあり、生態系の多様性も非常に豊かである。中国大陸や半島が森林をほぼ失い潅木が疎らに点在する乾燥した風景なのとは余りにも対照的な艶やかで瑞々しい景色です。
 ただ、日本人の持つ独特の精神性が森や緑を慈しみ育んできたという論調には賛成できません。その逆の、気候風土や環境によって特有の精神性が醸成されるというならばうなずけますが、何か日本人が特別な森の民のような話はそれこそ木を見て森を見ない話でないでしょうか。
 それどころか現在の日本の森林が危機的状況にあるのは間違いなく、それは農業と重なるものがあります。農林業と呼ばれる農業と林業はかつて非常に近い存在で、不離即の関係であったものがそれぞれが合理化、機械化をする中で片手間で携わるのは難しくなってしまいました。とは言え、もはや一般の人は森を見ても木を見ないという関心の埒外に置かれてしまっているという点では農業と林業はやはり同じなのかも知れません。

 そんな中で、里山だけは過大な評価を得て、自分のようにミーハーな連中を惹きつけています。共生や生物多様性という言葉で語られることが多いですが、ここで言う共生とは現代的な意味であって本来の、あるいは過去の里山の共生は生物学的な意味においてのそれであると思います。つまり、人と自然が互いを利用し折り合いを付けて均衡を保っているギリギリの状態で、そこに至るまでには長い試行錯誤の時間が必要だったはずです。
 そんな歴史の一端を見つめて、改めて森とのかかわりを考えてみたいと思います。
 
 大和が歴史の表舞台であった古代において、飛鳥から藤原京、平城京と宮や京が次々と作られ、更に仏教の伝来による寺や神社などの巨大構造物の建設ラッシュが重なって、その資材となる木々は次々と切り倒され、目ぼしい大きさの原木は奈良盆地の四周には無くなってしまうという大規模な人為的自然破壊が古代において初めて引き起こされます。はげ山然と化した山々は保水力を失い、ある時洪水という手痛いしっぺ返しを食らわされるに至って朝廷は重い腰を上げるのです。
 天武五年五月条に「南淵山・細川山を禁めて、並に草刈り薪ることなかれ。また、畿内の山野の、元より禁むる限り、みだりに焼き折ることなかれ」とあるようにこの頃はまだ秣(まぐさ)での使用というより刈敷などに使ったであろう下草や日々の煮炊きに使用する薪材を採る事を禁じ、続く次の文はとても興味深い事に焼畑を禁じた文言であるらしいのです。
 いずれにしろ民衆が飛鳥川上流の山に分け入りみだりに木材を切り出すことを停止したのですが、煮炊きの手段が薪なのは民衆に限らず、天武四年「百寮の諸人、初位より以上、薪を進る」とあるように宮廷所用の薪を百官らが奉ったように朝廷や貴族といった上流階級で炭が使われるのが常態化するのはもう少しあとのことです。

 炭と違って薪材で煮炊きすれば当然ですが煙が出ます。朝日が昇って人々が一日の活動を開始するその最初が火を熾すことで、朝凪の中で奈良盆地の各所からは白い煙が一斉に立ち上ったことでしょう。仁徳天皇四年条には、高殿に登って眺めると、人家の煙があたりに見られないのは人民が貧しくて炊く人がいないからだろうと三年間全ての課税を止めたという話があります。また、万葉集に採録されている舒明天皇の謹歌にも「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原に 煙立ちたつ・・・」というように国見という行為の一端が窺え、竈の煙は国が富む象徴のように語られています。
 
         大和の夜明け
 
 為政者による山林の保護政策は入山を禁じる消極的なものでしかなかったのでしょうか?厳密な意味での保護育成林業は近世まで待たなければなりませんが、植林という行為の認識は既にあったはずで日本神話にもその辺りが垣間見えるのです。
 一書(第五)にいう。スサノオ尊が言われるには「韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、船が無かったらよくないだろう」と。そこで髯を抜いて放つと杉の木になった。胸の毛を抜いて放つと桧になった。尻の毛は槙の木になった。眉の毛は楠になった。そしてその用途を決められていわれるのに「杉と樟、この二つは船を作るのによい。桧は宮を作る木によい。槙は現世の民の寝棺をつくる木によい。そのために沢山の木の種子を蒔こう」と
 この話をして杉桧槙樟の発生譚として読むならば、古事記のオオゲツヒメや書紀の保食神(ウケモチノカミ)のような食物起源譚の傍流と捉えることが出来ないでしょうか。死んだあるいは殺された女神の体から人類に不可欠の食料が生えてくるという、いわゆるハイヌウェレ型神話として有名な保食神のくだりはまた、昔話に出てくる山姥との共通性を持っており、山姥も死体から穀物あるいは財宝を生じます。
 それだけでは無く山姥の話の中には呪的逃走と呼ばれるパタンもあり、それは日本神話においてイザナギがヨモツヘグイをして黄泉の国の住人になってしまったイザナミの醜い姿を約束を違えて見てしまい、イザナミに追いかけられるという話と重なり、山姥の物語は明らかに神話のイザナミの話を踏襲してもいるのです。
 柳田國男は山姥の正体を祀られなくなり、落ちぶれた山の神の姿であると看破しました。確かにかつて信仰の中心であった地母神が新しい神の登場によりその地位を譲るというのが普遍的パタンであり、イザナミも古い神、地母神の系譜であると考えられます。
 スサノオはそんなイザナミを母として誰よりも慕い、半ば天上界を追放される形でイザナミの居る根の国に向かい、途中立ち寄った地上で八岐大蛇を退治して助け出した奇稲田姫を娶ります。
 アンドロメダ型神話の典型であるこの話は英雄譚そのものであり、五月蝿えなす荒ぶる神スサノオの変容には目を見張るものがありますが、ふと思うことにイザナミとスサノオの関係と行動が金太郎と母のそれと似ている気がするのですがどうでしょうか?金太郎説話と坂田金時伝説がごっちゃになっているので少々説得力に欠けますが、スサノオが古い神の系譜なのは間違いないと思います。
 木々を生み出し、そればかりかそれらの用途を明確に指示したこのくだりは非常に興味深く、特に槙、コウヤマキを死者を葬る棺に使うように指示したことは考古学的にも合致するところですが、民草が利用する様な物では無かったようです。昨年、再調査された桜井茶臼山古墳の木棺も樹齢千年以上のコウヤマキである事が再確認されたのは記憶に新しい話で、一面に水銀朱を施された長大な竪穴式石室に丁重に埋納された棺は底部と側の一部を残すのみですが、千七百年余りの長きに渡って残存しえたのは最高級のコウヤマキ材を使ったからなのでしょう。
 ちなみにコウヤマキは日本に固有の品種で、楠も半島には殆ど分布しない樹種です。

イザナギを古い系譜の神とするならばアマテラスはその後を継ぐ新しい神の系譜と言えます。そんなアマテラスも女性神だからでしょうか、保食神の眉から生じた蚕の繭を口に含み、絹の糸を紡ぐという養蚕の始原に関わっています。高天原には機殿があり、日々神衣を織っていたのです。
 この話を受けての事ではありませんが、皇后さまが廃れかけた蚕の品種「小石丸」を残すように求められた話は感慨深いものがあります。

 少し切りが悪いですが、今回はここまでとします。