和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

金鐘上人

2009年07月05日 | 和州独案内
 東大寺の初代別当、良弁は持統三年(689)相模国あるいは近江国の生まれと伝えられています。名峰大山の開山と大山寺の開基に良弁が関わったと言う大山寺縁起に相模生誕説は代表され、その内容の前半は有名な「鷲に攫われた嬰児」の話で相模国国司の子供であった良弁が大鷲に攫われ、遠く大和の二月堂下の杉ではなく東山山中の楠にある鷲の巣で発見されこの地で育てられたという話です。
 もう一つの候補地の近江国説も石山寺縁起に良弁と近江との関わりが詳しく書かれています。その内容の正否はともかくとしても、良弁が石山寺の造営に関与したことは正倉院文書などからも紛れも無い史実です。金鐘寺の名も元は紫香楽の地にある金鐘山にちなむものだとも云い、近江地方南部と良弁の関わりの濃さをうかがわせます。
 石山寺といえば寺名に示す通り、天然記念物の硅灰岩の奇岩が有名で、本尊の如意輪観音はその岩の上に鎮座しているといいます。縁起によれば、良弁は大仏の鍍金に必要な金を求めて奔走し、かの地の地主神の比良明神の宣により東北より金を授かったとあります。陸奥国小田郡より百済王敬福によって献上された400キロ相当の砂金は余りにもタイミングが良すぎるとは思いますが、産金遺跡からは天平の文字瓦が出土するため間違いは無いようです。余談ですがこの慶事を誰よりも喜んだ聖武天皇は年号を天平感宝と改元します。これを天平勝宝と混同しているものが多いですが、勝宝は孝謙天皇即位に伴う改元によるもので、この年は天平・天平感宝・天平勝宝と三つの元号が続きました。いずれにせよ石山寺は保良宮と共に東大寺大仏殿及び大仏の造立に必要な物資の集積地としてここが要地であったことを物語るものです。
 それと気になるのは、如意輪観音を硅灰石の奇岩の上に据えたという点が東大寺二月堂の本尊大観音と重なってみえることです。というのも二月堂大観音も自然石の岩座上に安置されているとの伝承があるからです。二月堂といっても現在の立派な懸崖造の御堂ではなくいわゆる初期二月堂の事ですが、それは三間四方二面庇瓦葺堂という現在の堂内においては将に本尊が置かれる内々陣の規模に相当する極めて小さい堂を指します。
 確か以前「東大寺山堺四至図」に二月堂に相当する建物が描かれていない事から、天平勝宝八年(756)時点では若狭井にあたる井戸は確認できても二月堂の存在は確認できないと書きましたが、少し訂正して四至図に二月堂に相当する建物は描かれていないが、存在した可能性は必ずしも否定できないとしておきます。と言うのも四至図の資料的価値が高いことに違いないが、有るべき建物が無かったりまだ計画途中のものが描かれたりするからです。どうやら東大寺の主に山側の境界を画定するための絵図なので細かい所は端折っていると言う事情があるようです。
 二月堂と言えば良弁の高弟の実忠を思い浮かべますが、同じ上院に位置し観音菩薩を本尊としている事からも師良弁が何ら関与していない訳も無いはずです。岩座の件のみならず、良弁が造営を指揮した石山寺の前身建物に東大寺二月堂の前身建物と同規模の法堂の存在を指摘する論があるのは面白い話です。
 実忠も不思議な人物ですが良弁も劣らず伝説めいた話が満載の人です。この師弟はどこかしら似た所があり当時のいわゆるエリート学問僧ではなく、実務や修験にどちらかと言うと偏った印象があります。それは良弁の師義淵からの流れから、行基とも通じているようで東山の地を本拠地としていたのもどうやらその辺りと関係が有りそうです。
 纏まらないままに続くと思う。

  
 この四月堂(三昧堂)の北に「良弁僧正坐像」を安置する開山堂があり、忌日十二月十六日に御像を拝観することが出来ます。その日は良弁の念持仏と言われる秘仏執金剛神立像の厨子が開かれる日でもあり、またお水取りの練行衆を発表する日でもあります。また名椿「糊こぼし」も一画にあり、剣塚と共にこの辺りに花を添えています。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。