和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

lycopersicon esculentum

2008年07月27日 | 野菜大全

 遅ればせながら、トマトである。一切の手間を省いたあるまじき栽培方法になってしまいました。流れをざっと整理すると、太陽熱消毒をする為に今年はトマトは作らんと思ったのですが、やはりそういう訳にもいかず改めて種を蒔く事に。
 しかし鉢上げようの土が用意出来てません。まあ良いか、セル苗定植すれば、と言うことで種を落としました。
 本圃をどうするのか?ぎりぎりまで熱消毒をするとして、肥料を先にぶち込んで畝立ても止める去年からのやり方を採用することに、何て楽なんだろうか。
 心配なのは樹が暴れないかという事だが、元肥も最小限だったからか左程でもなく、むしろ少し弱いくらいだ、わき目もいつも通りしばらくは放置する。通路もすっきり人間本位だし、防草シートを張って汚れませんからサンダルで歩けます。遮光ネットも張りました、何せ外気温が30度を越してるのに、ハウス内なんて40度もざらですから。
 太陽はやっぱりすごい、とても勝てない、勝つ必要ないんですけど。地球温暖化も太陽が原因でいいのではないでしょうか?CO2削減やらを聞いたり読んだりする度になにをやってるんだろうかまったく・・・と言う気分になる。まるでダイオキシン騒動の再来と思ってしまう。カーボンダイオキサイドって言うと何だか悪そうに聞こえるから不思議です。理系音痴の自分ですら温暖化したから二酸化炭素が増えたことくらいは判るんですけど・・・
 脱線してしまいました、このあと一段目を普通に着果させて、二段目から連続摘芯に移行する予定です。どうも樹勢が弱いのがいつもの癖ですが、早めに追肥をしていこうかと、潅水も普通より早めに開始していいんじゃないかと思っています。

法隆寺金堂展

2008年07月22日 | 和州独案内
 前期を見逃して、さてこれはもう見に行けないのではと思っていましたが、ついに見てきました。兎に角、感動したの一言でしょう。しかし、こういう美術展に足を運ぶ度に思うことは、寺の御堂は祈りの空間だから簡単にはライトアップは出来ないという説明だけでこれからもやっていけるのでしょうか?何もピカピカにしろといってるのではなく、せめて見える程度にはライトが必要なのではないでしょうか?決して安くない拝観料を払っているのですから。でも法隆寺の拝観料はその質と量を考えるに破格の安さだとは思いますが。それでも眼を凝らしても何にも見えないもどかしさは誰もが感じるところでしょう。
 例えばダイオードや特殊な光源なら熱を帯びず、光による劣化の心配もどうにかなるのではないでしょうか。まあ、電線がある限り漏電の危険性はあるのでしょうが。
 
 何と言っても将に1949年昭和24年の失火によって世界的に貴重な、いや世界髄一の仏教絵画が失われたその場所ですから、おいそれとはいかないのでしょう。ホントか嘘か、一月の寒空の下、わずかな暖を取るために使っていた電熱座布団の漏電が出火の原因と言われています。十一号小壁付近から出火した炎は容赦なく壁画を焼き払い、慌てた消防団が静止を聞かずに六号大壁の、丁度阿弥陀如来の顔に当たるところに穴を開けて消火ホースを入れてしまいました。四大壁のうち最も状態の良かったのに何とも皮肉なものです。現在この遺構は法隆寺の宝蔵殿の北蔵に樹脂加工や防腐等の処理をして安置されています。剥ぎ取り切り取られた壁画と柱はまるで昨日焼けたかの様にツンとした刺激臭を今も漂わせています。

 当会場を囲むように配置された壁画の美しさは、美術展ならではのライトアップの妙で、更にその美しさを引き立てられており、細部までもが精緻に模写されその苦労が偲ばれます。気になったのが、それぞれの壁画を隔てる柱を模したもの、恐らく実寸を模しているのだと思いますが、その膨らみ具合の激しいことこの上ない事です。伽藍内では中門にその一端を窺い知れるのみですが、やはり金堂内陣の胴張りが最も顕著であったのでしょう。しかし、あからさま過ぎて一種、違和感すら感じるものです。これはもうエンタシスと呼ぶべきものでは無いのではないでしょうか?胴張りがお似合いですね。
 思い違いをしていたのですが、入江波光、荒井寛方、中村岳陵、橋本明治による模写壁画ではなく十八年後の安田靫彦、前田青邨、橋本明治、吉岡堅二によるものだったのですね。

 四天王像が厳かに佇むそのお姿をぐるりと見渡せる贅沢は言葉になりません。樟材の一木造で、内刳りもほとんど無かったはずですから相当重いはずです。お顔は彫りが浅く彩色が剥落して、光の具合で微妙に変化するさしずめ能面の様な、古仏に共通するものです。四天王と邪鬼とのバランスが何とも不自然なのもこの像の特徴でしょうか。州浜座の上の邪鬼は後世のように擬人化されておらず、牛や猿にしか見えない代物です。抽象的というのかデザイン的というのか、大きさと良い自己主張の激しい邪鬼で、持物が有った事も手の造形から伺えます。「別尊雑記」の四天王像との類似は置いておきます。
 多聞天の光背(頭光)の裏には銘が刻まれており、肉眼でも「薬師徳保」を確認できたのは驚きです。広目天の光背にも「山口大口費」銘が確認出来ました。

 金堂にある三つの間、三体の仏像を安置する宣字形の台座が全て揃って出展されていました。感慨深いのは釈迦三尊像の台座の据付部がいびつに削り取られているところで、鋳掛の技術が不十分な為据付に苦労したことが伺えます。下部の框の上の板が扉の転用材であること、「相見了陵面楽識心陵了時者」の墨書が見つかるなど何かと話題の多い台座です。
 
 何だかお腹いっぱい過ぎて、しかしそれだけでは済まず「天寿国繍帳」「信貴山縁起絵巻」「法華説相図」「粟原寺伏鉢」など思いもかけないものを見ることが出来ました。いやもう勘弁してください。

 設問3、法隆寺金堂四天王像の邪鬼のうち角のあるのはどの像でしょうか?

春日大社 南門

2008年07月10日 | 和州独案内


 写真が貼り付けられないのは何故でしょうか?一MBを超えてしまうらしい、もうやめようかなとか考えてます。すみません取り乱してしまいました、飽きっぽいんです。と思ったら貼り付けられるようになりました。その為に少し修正を加えますので、あしからず。


               祓戸神社と祓戸式灯篭
 
 さて、二の鳥居を潜るとすぐ左に「祓戸神社」があります。古くは二の鳥居の外にあったらしいですが、春日権現験記では今の位置に既にあります。ここで手を合わせれば全ての穢れを祓い清めてくれる。いやむしろここで穢れを祓わねば本殿には昇ることが出来なかったのです。ですから申祭りとも呼ばれる、当社で最も重要な祭りの「春日祭」において、天皇の勅使もここで「祓戸の儀」を行います。キハダで出来た人形で体を撫で、息を吹きかけて穢れを人形に移す所作の他、絡まった縄を解く所作もやはり魔を払う意味があるのでしょう。さらに「梅白杖」を使った所作を行う。これも魔を祓う意でしょうか、「うめのずばえ」と呼ばれる一年生の梅の若枝はおん祭りでも見かけますし、お隣の東大寺の「お水取り」でも見られます。春日祭では、このあと勅使一行は着到殿に向かい着到の儀を行ないます。                       


                     剣先道
 
 着到殿にて式次第を確認した後、勅使一行は大宮に向かいますが、勅使が藤原姓の場合は西に開いた三門の一つ「慶賀門」を潜ります。その為に参道を戻って「伏鹿手水所」から分かれた「剣先道」通ります。剣先道はその名の通り、石畳が矢印の様になっており、その奥には「藤の鳥居」があります。勅使が他姓の場合のみ「異姓」と言って正面の南門を潜るのは、客には玄関を身内は勝手口を使うという事か、藤原氏の氏神にはばかっての事だとか、もしくは本来が慶賀門を潜るのが正式であったとも云われます。

 着到殿の前の石段を登った所にあるのが「つんぼ春日に土地三尺借りる」の地主神、榎本名神です。騙されるかのように桜井の阿部山に居を移した榎本神でしたが、余りに参拝者が少なく寂しくなった榎本はいま一度春日の地に戻れるように頼みますが、流石に大宮にはその場所も無く、かろうじて回廊外に社殿を置いてもらえたとか。契約書はよく読んでおかない大変なことになるという教訓ですね。緑青の綾垣が少し他とは違う印象を見せます。


                南回廊外にある榎本社   
 
 ようやく大宮に取り付きました。ここで気分を変えてまたはごまかしの為に超ソムリエ級の春日大社にまつわる設問をいくつか置いておきましょうか。
 その一 春日大宮四殿の雁字板の剣巴文は白色。では若宮のそれは何色でしょうか?
 その二 大宮第一殿、武甕槌神を祀る社の木階は何階でしょうか?
答えはまた何時か、十問くらい溜まった時にでも