和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

そういえばロコト (Capcicum .pubescens)作ってました

2009年09月28日 | 野菜大全
  

 ロコトは南米のアンデスが原産の辛トウガラシ、ホットペッパーの一種で、特にペルー等では非常にポピュラーなトウガラシ、肉を詰め衣を付けて揚げるロコトレッジェーノなどが有名だそうです。アンデス原産らしい冷涼な気候を好むが、霜や強い寒さには弱いため、日本では栽培が困難だそうです。実を付けるまでに90日以上の期間を要し、春先に種を蒔いても丁度開花、結実期に高温期に差し掛かるため、花落ちが激しく、最悪暑さで枯れてしまうこともあるようです。
 ロコトを栽培し始めて既に数年になります。標高が比較的高い事もあるのでしょうが、発芽まで持っていければ枯れるような事はありません。しかし霜に数回あたると葉っぱがごっそり落ちてしまいますので、種まきをなるべく早く済ましておく必要があります。育苗は加温で二月中に播種して、定植後はトンネルで遅霜を回避するのがベターなのかも知れません うちではそこまで手をかけてませんけど。
 
 ロコトの特徴として一番に挙げられるのが種が黒いという事でしょう。ピーマン・トウガラシ類の種は白色が普通ですから、黒い種は何か禍々しい感じがします。
  

 もう一つの目立つ特徴は、何と言っても花が紫色をしているというところでしょう。樹全体がアントシアニンの強い感じですが、小指の爪先程の可憐な花は濃い紫に染まっています。在来の紫シシトウも確か紫の花を咲かせたと思うのですが記憶に自信がありません。
 ロコトの学名の小名プベッセンスは「毛がある」という意味ですが、写真でも確かに毛じが確認できます。  
  

 無限花序であることや花の形はいわゆるカプシクム属に共通していますが、節間が若干長く、葉はハバネロよりも厚い、ピーマン程度の厚さで照りがありません。花弁は六弁が殆どで五弁は余り見かけませんでしたが、これはピーマン等で良く使う樹の健全度の指標程度の差異なのでしょう。放任していたにも関わらず、腋芽も多く無くて左程茂らない、適度の密度を維持していたのは驚きです。何処かしら全体に気品を漂わせており、トウガラシ界のナイトとでも言っておきますか。
 実成りが極端に悪いのも残念な特徴で、一株に十個実が成れば良い方かも知れません。そう言う訳で商品として値段の付けようが無いんですね。五百円玉くらいの大きさの実は、赤と黄色があり肉厚でつるっとした表面をしています。
 相当に辛いらしいのですが、辛いのが苦手なのですぐに売ってしまい試食していません。スコヴィル値もかなり高いけれど、辛い中に旨みや甘みが有るという話しで、トウガラシの中で一番美味いともいわれます。ペルーに行く機会があれば是非食べてみて下さい、国内の料理屋でロコトを利用している所は無いんじゃないでしょうか。
 ロコトレッジェーノくらいは作ってみたいので、来年こそは本気を出して2,30株いやそれ以上は栽培してみようかと思っている。(どっかのニートみたいな言い訳していやがんじゃねーですよ)  すみません

  

鳥見の等彌

2009年09月25日 | 和州独案内

 鳥見山の西麓に鎮座する等彌神社は、こじんまりとした、しかし綺麗に整った境内を持つ雰囲気の良い神社です。おもてからはあまり大きくないように見えますが、背後に控える鳥見山を含めると相当の規模になります。神社は上ツ尾社と下ツ尾社に別れ、参道途中右手に八幡社と春日社を祀る下ツ尾社が、一番奥まった所に大日靈貴命を祀る上ツ尾社があります。
  
                           下ツ尾社  
 
  
                       上ツ尾社への折れ上がり参道
 
  
                             本殿正面から
 
 等彌神社の良いところは上ツ尾社と下ツ尾社、つまり上社と下社の形態を今に残しつつ在るというところです。山を御神体として斎祀る場合、山裾には里宮があり山頂には山宮があり、其の形態を等彌神社も踏襲しています・・と言っておいても良いでしょう。
 図らずも対岸の大神神社が将にその形態の典型であって、更に北隣、弓槻ヶ岳の兵主神社、その更に北にある春日大社も同じ範疇に括る事が出来ます。もちろん重層した神社の性質の一面がということですよ。
 しかし、ご存知の通り今挙げた神社の山宮に参拝することは、特別な手続きを経ない限りおいそれと出来ません。対してこの等彌神社は、嬉しいことに境内脇から山頂までの道が整備され、一般に開放されています。
 等彌神社の上ツ尾社を単純に山宮に当てはめる事には、多少躊躇してしまいますが、社伝によると本来の上ツ尾社は、現在地の背後、鳥見山山中の小ピーク斎場山付近に在ったとされています。それが天永三年(1112)の霖雨に発生した山崩れによって社殿が流された為に、現在の地に移し降ろしたと言う事です。件の斎場山は鳥見山山頂への山道の途上にあり、現在は歌碑が立っている以外何も有りません。
 日本書紀に見える、神武即位後の四年春の条「乃ち霊畤(まつりのには)を鳥見山の中に立てて、其地を号けて、上小野の榛原(はりはら)・下小野の榛原と日ふ。用て皇祖大神を祭りたまふ」に現れる鳥見山をこの地とする説があり、それに従って霊畤(まつりのには)を鳥見山山頂に比定しています。
 これを宇陀の榛原の鳥見山に充てる説もありますが、榛原は新しく開いた土地の意味で固有の地名を指している訳では無いようです。しかしだからといって、山中に点在する小ピークに「庭殿」や「白庭」の旧跡地をあてるのは少々強引に過ぎる感じで、もう一方の生駒山麓の鳥見の地との折り合いをどの様に付ければ良いのでしょうか。
 それでは実際に歩いてみることにします。
  
                        本殿下のここが登り口

  
 注連縄を渡して聖別された霊畤(まつりのには)遥拝所。鳥見山山頂を正面に見る場所に位置し、高杯形土師器が多数出土している。ここから山の中に分け入る道になります。
  
  
 最初の小ピーク斎場山は、お椀を伏せた形をしており、谷から吹き上げる風がとても心地よかった ここからも祭祀用臼玉が多数出土している

  
                       まあ何というか白庭だそうで

  
 20分弱程の山中行の末の終着点、標高245mの鳥見山山頂。特に見晴らしが利くわけでもなく素っ気無さが漂う中、霊畤の文字は達筆だった。 ハイカーの踏み跡が目立ち、南に抜けるルートが有るようです。  

鳥見山

2009年09月22日 | 和州独案内

 鳥見の地名を持つうちの一つ、磯城の鳥見があるのは隠口の初瀬から国中に開けた辺り、長谷の初瀬川と、粟原谷から忍坂へ下った粟原川とが集束する地域にあたります。今もその名を残すのは外山(とび)の地名と標高245mの鳥見山です。鳥見山は四方にだだ広く裾野を広げ、山というよりは丘陵のようなピークの見分けがつかない姿をしています。神奈備山と言えば円錐の秀麗な山容から来るものばかりだと誤解がありそうですが、大和の物実、天香具山同様に高からずも神居すが故に尊いというタイプの物もある訳です。
 鳥見山が信仰の対象の神聖な地であることは等彌神社の存在からも分かりますが、この山の周囲に多くの古墳が存在している事からも神聖視されたことが窺えます。南端部の浅古には古墳時代中期の兜塚古墳や後期岩屋山式石室に先行する秋殿古墳、それから塼槨式の横穴式石室を持つ舞谷古墳などがあります。レンガ状に加工した石材を、漆喰で固めて積み上げ、内部全面を漆喰で塗りこめたタイプの古墳は、粟原谷から宇陀にかけて多く点在しています。
 そして北端の外山には前期の代表的な大型前方後円墳、桜井茶臼山古墳があります。

  

 鳥見山から北に伸びる尾根を切断して造成した、全長約207mの巨大古墳は付近のメスリ山古墳と並び、あの箸墓古墳に次ぐ古さの大型古墳です。茶臼山古墳の発掘は一部が今だに続けられていたようで、ブルーシートが木々の向こうに見えました。 つい先日には後円部の竪穴式石室の周囲を取り囲む、巨木の列柵遺構が確認されるなど、円筒埴輪との繋がり、葬礼の一端を垣間見させてくれました。箸墓古墳が学術調査を基本的に受け入れていない中、ここの発掘調査は重要な鍵になるのでしょう。
 谷側の後円部にある竪穴式石室は古墳主軸線上に位置し、扁平な芝山産?安山岩の割り石を垂直に持ち送りすることなく築き上げ、上部は十二枚の花崗岩を天井石としています。内部石材には一面に朱が塗り込められ、樹齢千年を超えるトガ(以前はコウヤマキと書かれた)の木を使った長大な割竹型の木棺の一部が、石室中央に残されていました。大型の内行花文鏡や鉄芯に碧玉を蒔いた玉杖など、盗掘を受けながらも貴重な副葬品が多数出土しています。
 高度な土木技術を要したであろう古墳の築成も、千年の時を経て形を崩し、木々の侵入で林地化してしまい、傍目には古墳というよりも雑木林の丘陵と化しています。高みを目指して垂直に建造するピラミッドと違って、こうなれば何が有るのか全体像を把握する事は容易ではありません。カメラを向けてもファインダーに収まり切れないその姿は、すぐ傍を通る国道の喧騒もあってか時間が止まり、周囲から取り残されたような雰囲気を漂わせています。

  

 茶臼山古墳が地域的にもメスリ山古墳と近しい関係にあることは違いないのですが、この古墳の指向する先には三輪山やその山麓があるような気がします。中軸線を延長するとという類の話ではなく感覚的な事ですが、この辺りは河岸段丘か名張断層なのかがあり見晴らしがすこぶる良いため、広く浅い谷を挟んで三輪山の側面が手に取るように見えるのです。

   
 カメラが悪いのではなく腕が悪いだけですね、文字サイズが何故か小さくなって読みにくさに拍車がかかっている             

鳥のこと

2009年09月11日 | Weblog
 思った以上に話しが長くなり、丁度歴史とで二つに別けました。それでは話題を戻して鳥について 
 二月になると藪の中からウグイスの下手なさえずりが聞こえてきますが、その頃はつがいのセグロセキレイが決まってハウスの屋根をトコトコと歩き回っています。彼等の好奇心の高さは鳥の中でも随一ではないでしょうか。
 新緑の頃になるとコゲラ?らしいドラミングの音が谷を渡って鳴り響き、春の訪れを感じさせます。ドラミングの音は本当によく通る音で、人工音でもあれ程響くものは無い位なので、もしかするとアカゲラやアオゲラかもしれません。
 周りの田起こしが始まると、ケリがいつの間にかやって来てやかましく縄張りを主張しますし、田に水が張られると鷺が何処からか集まってきます。昼間は田んぼに出張っている鷺はねぐらが近くの木の上なので、朝晩に渡りをするのですがその時に発する鳴き声の気持ち悪さは、喩えるなら首を絞められた時の断末魔のようで
半端無いものです。
 キジは年中見かける常連で、特に最近は警戒するものの慌てて逃げる事もなくなりました。下のように10mほどの至近距離でもこちらを意識しつつもデジカメで写真が撮れるほどで、こうなると頭隠して尻隠さずどころではありません。主に雄が単独で居る事が多く、甲高い声で鳴くのは普通として羽根をバタつかせる音は意外に大きくこれも縄張りでも主張しているのでしょうか。五月頃には草叢に産卵しますので、少し草刈りが遅れると卵を見つけることがあります。卵は鶏卵の半分ほどの大きさで、真円に近くて青みがかった灰色というところでしょう。雛が孵ると基本的に雌が育てるようですが、雄も一緒に行動する事もあるようです。雌はヒューイまたはヒーと鳴き声というより空気が抜けたようなのど声をしきりに立てて雛の場所を確認し、それに応えて雛はヒーヨ、ヒーヨとか細い声で鳴き互いの距離を測っているのです。
 雌が子育てを始めると雄はまた別の雌とつがいになり繁殖を試みるようでハーレムとは言わないまでも二羽の雌を引き連れたところを見たことはあります。鳥に良くある雄のほうが鮮やかな体色というのも、雌に対するアピールだけでなく、外敵に対して雄は姿を晒してギリギリまで留まり、先ず地味な雌を逃がしてから自らも逃げるのに都合が良いからといえるでしょう。冬になるとこの辺りはハンターがやってきて鴨を撃ちますが雉を仕留めたことは何故か見たことが有りません。水平撃ちは制限されているのかもしれません。

  

鳥のこと(歴史編)

2009年09月07日 | 和州独案内
 かなり間が開いたので繋ぎに鳥の事も書いておこうと思う。すぐ隣の杉林がねぐらだからしょうがないですが、うちの常連は残念ながらカラスです。トビも時折見かけますがカラスとは折り合いが悪くトビは多勢に無勢いつもカラスの群れに追い立てられるという理不尽さ、これがイヌワシなどの王道の猛禽類ならいざ知らずどちらも同じ雑食性で時に死肉をあさる様な食性だからそんなに邪険にしなくともと思ってしまう。それにしてもトビが羽根を大きく広げて旋回する様は、思わず見とれてしまいます。トビでさえというのは可哀想ですが、あんなに優雅な姿ならばイヌワシならどれ程雄大で美しい姿なのでしょうか。

 カラスもトビも「書紀」においてはカムヤマトイワレビコつまり神武天皇一行の窮地を救った立役者でもあります。カラスはヤタガラスとして熊野の行軍を助け、まつろわぬ土着の民である兄磯城と弟磯城の前に現れて二人を試したりします。そして少し前の兄猾、弟猾の時と同じく弟が神武側に付き兄は誅されるのです。これは古い兄弟祭政二重政体の有り様や、海幸彦と山幸彦のように神話に普遍的に見られる弟の優位性を踏襲しているのでしょう。
 トビは金鵄として長髄彦の軍勢を眩惑させ磐余彦達に勝利をもたらしました。その事跡にちなんで鳥見の地名が付けられるようになったという地名発祥譚でもあります。鵄が転訛して鳥見となった訳ですが、大和にはトビそしてカラスにちなんだ地名がいくつかあります。
 神武の東征神話では生駒山麓の日下邑に上陸した神武一行は、山を越え長髄彦と対峙したが、遂に大和に入る事さえ出来ないのみならず兄の五瀬命を失ってしまいます。そこで大きく迂回をして、熊野から吉野宇陀を通って兄猾、兄磯城を破りようやく国中に入りついに長髄彦を討ち果たした というのがあらすじで、その道筋にトビやカラスの地名が残されているわけです。しかしそもそも神武東征をどのように評価すればよいのか見当がつかない。少なくとも史実を物語っている訳ではないので、地理的に体系立てて理解するのは難しいと言うか余り意味が無いのかも知れない。とは言え東征神話には宇陀の各地から桜井への道筋が詳らかに描かれており、地図で確認したり実際訪れたりしてみたくなりますよね。
 
 それにしても何故この二種類の鳥が選ばれたのか?三本足の烏は支那において太陽の象徴であり黒点を表わしたものではあるが、どちらも雑食死肉食らいであり特に、人の身近に生活するカラスには死のイメージが付き纏い印象はよくありませんが、むしろそれが逆に異界を繋ぐ生き物として特別視されたりはするのでしょう。
 個人的には神話好きなものですからオージンのフギンとムニンが頭を過ぎります。あちらは確かワタリガラスのはずですが知能の高い鳥という認識は汎世界的にあったわけです。神話と言えば、カラスが太陽の象徴ならば月の象徴は兎、古くはヒキガエルが居ると考えられていました。もちろん月の表面のクレーターの模様がそのように見えたということである訳ですが、それにまつわる話として英雄羿とその妻の嫦蛾の物語が知られています。羿は昔、太陽が十個もあるために苦しんでいた人々のためにその内の九個を射落とした弓の名手です。後に不老不死の仙薬を得るも妻の常蛾に裏切られ仙薬を奪われてしまいます。常蛾は月まで逃れますがヒキガエルにされてしまい、それが月の模様になっているというお話です。夫婦で太陽と月に関わっている訳ですが、不老不死のくだりはギルガメッシュ叙事詩の話を彷彿とさせます。

 八咫烏という存在は、天皇に供御し灯燭を職掌とした先祖を持つ葛野主殿県主に語り継がれ、作り上げられたもので、神武天皇を供奉先導したという祖先譚であると考えればある程度納得がいきます。氏族伝承を大王家の神話が取り込んだ訳で、宇陀にある八咫烏神社がその名残りなのですが、八咫烏の太陽との繋がりにこだわると聖なるラインのような考えも生まれてくる訳です。確かに太陽線は脇に置いても、神社の鳥居越しに東に見えるのはこの辺りのシンボルである伊那佐山の全景で、この二者に何らかの関係が有るというのは肯ける所かもしれません。
 延喜式神名帳にも表れる八咫烏神社は中世には廃れて、社は崩れ基礎を残すのみとなっていたものを江戸時代に今の春日造に立て替えたと云うことです。

    
もう少しアングルを考えればよかったが、確実に八月の後半には神社の鳥居越しに伊那佐山山頂から昇る朝日を拝む事ができたはずです。

  
しかし神社本殿は現在南面して立地しており、伊那佐山とは正対していないうえに、山頂にある都賀那伎神社との関係も深くは無さそうです。