和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

金鷲上人

2009年08月02日 | 和州独案内
 大山寺縁起にある「鷲に攫われた嬰児」の話は、中世の書物「元亨釈書」では近江国出身の良弁の幼少譚として語られています。更に遡れば平安時代の初期に景戒によって編纂された「日本霊異記」の上巻九に皇極天皇の御世二年に但馬国の娘が鷲に攫われた話として登場し、そこには当然ですが良弁の「ろ」の字も出てきません。 高僧の奇譚ではなく、稀にあったであろう鷲に攫われる話であって、霊異記のテーマ因果応報の話と言う訳でも無いようにも思えます。
 世界中にこの手の話は広く存在しており、例えばペルシャ神話にある怪鳥シグルドに育てられた英雄ザールの話にしろギリシャ神話のゼウスとガニュメデスにしても、鷲に攫われまた養育されることで聖別され英雄や貴人としての資質を担保されている訳です。その意味においては良弁と鷲の話もある種の英雄譚や貴種流離譚の一つと考えられます。
 神話ではそうですが民話のレベルでは鷲に攫われた末に助けられ、あわよくば親との再会を果たすことで物語が完結しています。十分に劇的ではありますが、鷲に育てられるのではなくあくまでも雛のエサにされそうなところを助けられるのです。寧ろ助からない事のほうが多かっただろうし、そういう民話が説教節などの中世説話につながるような気がします。まあリアルと言えばよりリアルかもしれませんが。
 良弁を代表するような奇譚であるはずの鷲の話が完全にスルーされていると云うか、当時は未だ良弁が鷲にさらわれたと言う伝承は無く、その代わりという訳ではありませんが、霊異記の中巻二十一にはまるまる良弁に纏わる話を載せていますので長いですが少し書いておこうと思います。

 「塑像の神像の脛が光りを放ち、不思議な事が起こってこの世で報いを受けた話」中巻二十一
 奈良の都の東の山に、一つの寺があった。名を金鷲(こんす)といった。優婆塞がこの山寺に住んでいたので山寺の名である金鷲を名前とした。今はこの寺は東大寺となっている。その東大寺を創る以前の聖武天皇の時代に、金鷲は行者としてこの寺に常に住して、修行に励んでいた。
 その山寺には一体の執金剛神の塑像が安置されていた。金鷲行者はこの神像の脛に縄をかけて、昼夜を問わず祈願した。そうすると神像の脛から光を放ち、皇居にまで達した。天皇は大いに驚き怪しみ、使いを遣わして見に行かせた。勅使は光を辿って寺にたどり着いた。見ると一人の優婆塞がおり、神像の脛に掛けた縄を引いて礼拝、懺悔していた。
 それを聞いた聖武天皇は件の優婆塞を召して何を願って祈るのかを尋ねたところ「出家して仏道を修めたい」と言うので天皇自ら得度を許され、金鷲と名乗らせた。
 光を放った執金剛神像は、今東大寺の羂索堂の北の入り口に立っている。

 ということで金鍾→金鷲だと思うのですが、果たして本当のところ金鷲と金鍾のどちらが元の名なのだろうか?金鍾については以前に書きましたが、金鷲はやはり釈迦の聖地の一つ霊鷲山から来ているのでしょうか。若草山を含む春日山山系にはそっち系の地名が今もたくさん残っています。誓多林に鹿野園、忍辱山、菩提山など東山、春日山山系は奈良時代以前から、仏門に帰依した求道者たちの修行の場として優婆塞や優婆夷、沙彌や沙彌尼たちが止住しました。後の修験道に繋がる山川抖擻の輩は、山中での苦行や瞑想の末に霊験を得て、広く民衆の尊敬を集めます。
 金鷲優婆塞こと良弁もその一人でしょうが、ここでは聖武天皇と如何にして出会ったかが語られます。ただ、脛(すねでは無くふくらはぎ)が光るとは単なる奇跡なのかどういう意味なのか全く分かりません。
 金鷲優婆塞が執金剛神立像に縄を結んで礼拝し、念持仏として扱っていたくだりは、さすがに簡単には信じられません。当代髄一の技術、恐らくは官営工房で製作されたはずの執金剛神立像が一介の優婆塞ごときに造れるはずも無いはずですから。
 この像は霊異記の時代には既に法華堂の本尊不空羂索観音の裏戸に北面して立ち、不空羂索観音と浅からぬ縁を匂わせていますが、二体を一具とするのは流石に早計と考えます。
 結局纏まらずに一応締めたいと思う
 

 
今は芝山となっている若草山も、かつてはモミや杉、椎等の木々が生い茂る、緑深い山であり、その中には天地院などの山房が多数点在していた