もやもやとしていたと言えば、月日磐の写真を貼るつもりが何故か寝仏を貼っていたのをずっとそのままにしていました。
二月堂のある東大寺の東院地区と春日大社を結ぶメインルートの中で、ほっと一息つけるのが水谷神社の周辺です。深い谷を削る水谷川の湿気を帯びた空気は木々を良く繁らせ、その木陰は人に憩いの場を提供してくれます。まあ、猛暑の頃は熱を持った密度の濃い湿気で息苦しくなるような状態で、とても涼を感じる事は出来ないですが、陽射しを遮るだけでもまだましでしょう。
その水谷川を遡ると春日山原始林の遊歩道に合流して砂利道が続いており、数百メートルほど登った川の中に転がっているのが「月日の磐」です。
崖上にある高級料亭月日亭の名前の由来がこの磐で、日を抱くように月に重なって丁度三日月の様に彫り上げられています。と書きましたが、果たしてどちらが月でどちらが日なのかについては議論の余地が有るのでは?と思いました。
通常、日輪と月輪を表現する場合は両者を区別するために、阿修羅が掲げる様に、あるいは庚申塔のように月の方を三日月に表現します。その常識から考えると月を地の面の三日月にあて、上面の丸型を太陽にあてるのが自然なのですが、両者を重ねるところにどんな意味があるのかが良く分かりません。そこを考慮して、これを仮に日蝕だと捉えるとどうでしょう。三日月型の方が日だという事になりませんか?
そもそもよく考えると、これは月日磐と呼ばれるから月と日と思い込んでいるだけのことで、「これは瓢箪だ」と言えば結構通用しそうではないでしょうか?まるでロールシャッハテストのようですが、予断無く改めて眺めてみるとそう思えなくもないという感じです。
そこで、この磐をもう一度丁寧に見てみると、二重円の重なった部分、苔で見え難いですが下地の弧が彫られていることに気付きます。つまりこの石彫は右の大きい円を線刻し、次に左の円を線彫したという只二つの線円が重なっているに過ぎないのです。
しかし、かつてこの磐は「月日星磐」とも呼ばれ、星型も合わせて彫り込まれていたかのように伝える文献もあります。現在、それが脱落しているのか、苔に埋もれているのか、あるいは今も隠れた面に存在しているのか分かりませんが、もし月日星の三光が彫られていたというのならばこれを月日磐と呼ぶにやぶさかではありません。いや、もちろんその時は月日星磐と呼びます。
では、この月日磐がいつ頃作られ、そもそもどのようなモチフで彫られたのか?については残念ながら殆ど情報がありません。かつて本当に月日と星が刻まれていたとするならば三光を主題とし、上の写真で見える日月の右手に丁度剥離したような部分があるので、そこに星型が刻まれていたのでしょうか。
いつ頃どのような目的で作られたのかは分かりませんが、かつてこの辺りは春日氷室、水屋氷室とも呼ばれ、現在は水谷川下流の吉城川のほとりにある氷室社の旧跡がこの月日磐の辺りにあったとされています。氷室社伝によると平城京遷都に伴い、氷室を三笠山山麓の吉城川上に作ったとされ、和銅三年(710)には氷室明神を三笠山の下津岩根宮に祀ったといいます。その真偽の程は定かではありませんが、正倉院に納められている境界図「東大寺山堺四囲至図」には春日社を示す「神地」の文字の北側に「氷池」の字がはっきりと見え、少なくともこの絵図が作成された天平勝宝八歳(756年)には既この地に氷池が存在したようです。
ですから月日磐のツキヒとは、朝廷に献じる「調(ツキ)の氷(ヒ)」を産出したこの地にあった石彫を、調氷をもじって月日と呼んだものだと言う説も有り、これも大変魅力的に思えます。
その旧跡を示すために置かれた氷池址の陰刻のある新しい石碑
春日氷室はかつて興福寺の寺領の東限に位置するものでもあったらしく、月日磐は境界石として置かれたのかも知れませんが、これ以上稚拙な推論や想像を重ねても意味が無いのでここまでにしておきます。
立派な石灯篭もある
それにしてもこの辺りには加工跡の有る岩が目立つ
この月日磐のある場所に立ってみると直ぐ下にちょっとした堰があり、そこから水路が分岐している事に気付きます。この水路は「奈良公園史」や「秘儀開封 春日大社」の大東延和氏の論考にあるように、文永四年(1267)の春日社司祐賢の日記に見える、興福寺の衆徒が月日磐の辺りから水谷川を分水して、春日社大宮を通って榎本社下の滝に流す計画を、氏の長者の許可が無いまま強引に着工したが、当時の氏の長者関白一条実経の勘気を被り工事を中止したと言うモノそのものに当たるというのです。
実際に、月日磐辺で分水した流れは、春日本殿大宮の西回廊と直会殿の間を流れているのを現在、目にできますし、榎本社の南、参道下には白藤の滝があります。計画を中断されたその後を語るものはありませんが、現状を考えると計画は一旦中断されたものの、後に再開したと考えるのが妥当です。
砂ずりの藤の前に広がる吊り灯篭と、朱塗り柱の均整の取れた列、御手洗川のささやかな流れは思わずシャッターを切りたくなる美しい景色です。
白藤の滝は参道脇にあるにもかかわらず、参拝客の目に付かない日陰の存在で、この日は落ちる水音も無いほどでした。
その手前でこれ位の水量が有るのに滝に殆ど流れないという事は、分水施設があるのではないでしょうか。もう一方の流路は暗渠で参道に沿って真西に流れていきます。白藤の滝を落ちた水はというと下の池に溜まり、鷺川となって飛火野の南の底を流れ、鷺池に合流します。
そもそも、興福寺の僧が強引に分水の計画を行ったのは、興福寺の境内の水利の悪さが原因で、それを解消するために少々強引な手段に出たのではないかとされています。しかし、月日磐で分水した水量では満たされなかったのか、後に月日磐下流の水谷社の辺りからも分水路を設けて水量を確保したようです。
その流れが神苑に湧き出る水と一体となって、飛火野丘陵のオサカズキと呼ばれる丘陵の最高地に、人工的に掘り込まれた水路伝いで興福寺寺領にまでようやく到達するのです。
そして、それらの流れの源は総て、御蓋山とその後ろに控える春日山の原始林が育んだものです。
二月堂のある東大寺の東院地区と春日大社を結ぶメインルートの中で、ほっと一息つけるのが水谷神社の周辺です。深い谷を削る水谷川の湿気を帯びた空気は木々を良く繁らせ、その木陰は人に憩いの場を提供してくれます。まあ、猛暑の頃は熱を持った密度の濃い湿気で息苦しくなるような状態で、とても涼を感じる事は出来ないですが、陽射しを遮るだけでもまだましでしょう。
その水谷川を遡ると春日山原始林の遊歩道に合流して砂利道が続いており、数百メートルほど登った川の中に転がっているのが「月日の磐」です。
崖上にある高級料亭月日亭の名前の由来がこの磐で、日を抱くように月に重なって丁度三日月の様に彫り上げられています。と書きましたが、果たしてどちらが月でどちらが日なのかについては議論の余地が有るのでは?と思いました。
通常、日輪と月輪を表現する場合は両者を区別するために、阿修羅が掲げる様に、あるいは庚申塔のように月の方を三日月に表現します。その常識から考えると月を地の面の三日月にあて、上面の丸型を太陽にあてるのが自然なのですが、両者を重ねるところにどんな意味があるのかが良く分かりません。そこを考慮して、これを仮に日蝕だと捉えるとどうでしょう。三日月型の方が日だという事になりませんか?
そもそもよく考えると、これは月日磐と呼ばれるから月と日と思い込んでいるだけのことで、「これは瓢箪だ」と言えば結構通用しそうではないでしょうか?まるでロールシャッハテストのようですが、予断無く改めて眺めてみるとそう思えなくもないという感じです。
そこで、この磐をもう一度丁寧に見てみると、二重円の重なった部分、苔で見え難いですが下地の弧が彫られていることに気付きます。つまりこの石彫は右の大きい円を線刻し、次に左の円を線彫したという只二つの線円が重なっているに過ぎないのです。
しかし、かつてこの磐は「月日星磐」とも呼ばれ、星型も合わせて彫り込まれていたかのように伝える文献もあります。現在、それが脱落しているのか、苔に埋もれているのか、あるいは今も隠れた面に存在しているのか分かりませんが、もし月日星の三光が彫られていたというのならばこれを月日磐と呼ぶにやぶさかではありません。いや、もちろんその時は月日星磐と呼びます。
では、この月日磐がいつ頃作られ、そもそもどのようなモチフで彫られたのか?については残念ながら殆ど情報がありません。かつて本当に月日と星が刻まれていたとするならば三光を主題とし、上の写真で見える日月の右手に丁度剥離したような部分があるので、そこに星型が刻まれていたのでしょうか。
いつ頃どのような目的で作られたのかは分かりませんが、かつてこの辺りは春日氷室、水屋氷室とも呼ばれ、現在は水谷川下流の吉城川のほとりにある氷室社の旧跡がこの月日磐の辺りにあったとされています。氷室社伝によると平城京遷都に伴い、氷室を三笠山山麓の吉城川上に作ったとされ、和銅三年(710)には氷室明神を三笠山の下津岩根宮に祀ったといいます。その真偽の程は定かではありませんが、正倉院に納められている境界図「東大寺山堺四囲至図」には春日社を示す「神地」の文字の北側に「氷池」の字がはっきりと見え、少なくともこの絵図が作成された天平勝宝八歳(756年)には既この地に氷池が存在したようです。
ですから月日磐のツキヒとは、朝廷に献じる「調(ツキ)の氷(ヒ)」を産出したこの地にあった石彫を、調氷をもじって月日と呼んだものだと言う説も有り、これも大変魅力的に思えます。
その旧跡を示すために置かれた氷池址の陰刻のある新しい石碑
春日氷室はかつて興福寺の寺領の東限に位置するものでもあったらしく、月日磐は境界石として置かれたのかも知れませんが、これ以上稚拙な推論や想像を重ねても意味が無いのでここまでにしておきます。
立派な石灯篭もある
それにしてもこの辺りには加工跡の有る岩が目立つ
この月日磐のある場所に立ってみると直ぐ下にちょっとした堰があり、そこから水路が分岐している事に気付きます。この水路は「奈良公園史」や「秘儀開封 春日大社」の大東延和氏の論考にあるように、文永四年(1267)の春日社司祐賢の日記に見える、興福寺の衆徒が月日磐の辺りから水谷川を分水して、春日社大宮を通って榎本社下の滝に流す計画を、氏の長者の許可が無いまま強引に着工したが、当時の氏の長者関白一条実経の勘気を被り工事を中止したと言うモノそのものに当たるというのです。
実際に、月日磐辺で分水した流れは、春日本殿大宮の西回廊と直会殿の間を流れているのを現在、目にできますし、榎本社の南、参道下には白藤の滝があります。計画を中断されたその後を語るものはありませんが、現状を考えると計画は一旦中断されたものの、後に再開したと考えるのが妥当です。
砂ずりの藤の前に広がる吊り灯篭と、朱塗り柱の均整の取れた列、御手洗川のささやかな流れは思わずシャッターを切りたくなる美しい景色です。
白藤の滝は参道脇にあるにもかかわらず、参拝客の目に付かない日陰の存在で、この日は落ちる水音も無いほどでした。
その手前でこれ位の水量が有るのに滝に殆ど流れないという事は、分水施設があるのではないでしょうか。もう一方の流路は暗渠で参道に沿って真西に流れていきます。白藤の滝を落ちた水はというと下の池に溜まり、鷺川となって飛火野の南の底を流れ、鷺池に合流します。
そもそも、興福寺の僧が強引に分水の計画を行ったのは、興福寺の境内の水利の悪さが原因で、それを解消するために少々強引な手段に出たのではないかとされています。しかし、月日磐で分水した水量では満たされなかったのか、後に月日磐下流の水谷社の辺りからも分水路を設けて水量を確保したようです。
その流れが神苑に湧き出る水と一体となって、飛火野丘陵のオサカズキと呼ばれる丘陵の最高地に、人工的に掘り込まれた水路伝いで興福寺寺領にまでようやく到達するのです。
そして、それらの流れの源は総て、御蓋山とその後ろに控える春日山の原始林が育んだものです。