和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

歴史とは斯くも愉しき哉

2012年03月06日 | Weblog
 興味の無い方には残念ながら、凱旋式の警句について続きなのですが、これが中々に複雑で面白いものなのです。凱旋式にて凱旋将軍に対して、とここまでは共通する話なのですが、
 誰がは、使用人というものと、奴隷とするものがあり、その人物が、凱旋将軍の戦車に同乗するものと、そうでないものがあります。

 さてここからが問題で、何を言うかについては「メメント・モリ」を筆頭に「後ろを見よ」というものがあることは前回書いた通りなのですが、別の本では「貴方は神のごとき装束を纏っておられますが、死すべき身分のものでございますぞ」と囁き続けた、とあります。背後に控えた奴隷がとして、これが果たしてメメントモリを口語意訳したものに過ぎないのか、そうではなく将にこの科白そのものを吐いたのか、正直判断がつきかねる所なのです。

 更に混乱に拍車をかける事に、高名なローマの歴史家リウィウィスの言葉では「気をつけよ、タルペーイアの岩はカピトリヌスに近し」という風に言ったと書かれており、これは全く違った台詞になっています。警句であることは何と無く伺えるとしても、これを理解するにはタルペーイアとカピトリヌスの二つの語句についての更なる説明が必要になると思います。

 タルペーイアの岩とはローマ七丘の一つ、カピトリヌス丘(現カンピドーリオ)にある旧跡で、丘から突き出たこの岩から、古代に罪人を突き落として処刑をしていたという謂れのある場所です。(などと実際には行った事も見たことも無い奴が、知ったように説明してるのがこの文章の肝で、机上旅行に興じているのだと思ってください)
 タルペーイアは、ローマの始祖王ロームルスの時代まで遡る話なので、果たして何処まで真実を伝えるものか定かではありませんし、諸説あるものを取捨語って行きます。

 女性の割合が少なかった初期のローマにおいて、ロームルス達は近隣のサビニ人を騙してサビニの女達を手っ取り早く強奪しました。当然、サビニ人達と紛争に発展しますが、ローマ側の砦を守る司令官タルペーイウスの娘タルペーイアが、ローマを裏切ってサビニ人の王タティウスに砦に通じる道を内通したというのです。
 これは、タルペーイアがサビニ人の王タティウスに一目惚れをしたのが裏切りの理由とするものと、金や宝石に目が眩んで裏切った話などがあり、裏切りの報酬を求めたタルペーイアに対し、タティウスは持っていた腕輪を投げつけて彼女を気絶させます。それに続く兵士達が投げた腕輪や楯の山に押し潰され、タルペーイアは死んでしまいました。
 爾来、ローマではこの岩において国家犯罪者を処刑する様になったといいます。

 一方、カピトリヌスとは執政官を勤めたマルクス・マンリウス・カピトリヌスの事で、古代共和制ローマの転換点、BC390年にガリア人ブレンヌスによってローマが陥落させられた時、かろうじてカピトリヌス丘に残った防衛隊の一人でした。
 夜影に乗じて奇襲を仕掛け、一気に丘を奪おうとしたガリア人でしたが、カピトリヌス丘にあるユーノー神殿に飼われていた聖なるガチョウがその気配に驚いて騒ぎ出します。ローマ兵達も異変に気付いて目を覚まし、ガリア人を何とか撃退しました。
 それを讃えて、マンリウスはカピトリヌスの名で呼ばれるようになるのですが、その後に、王になろうとした廉でタルペーイアの岩から突き落とされてしまいました。この事を指すのが「気をつけよ、タルペーイアの岩はカピトリヌスに近し」という科白な訳で、確かに警句として成り立つものです。

 しかし、マンリウスが本当に王を目指したのかは分かりません。共和政下において独裁的な王制の復活は、ローマ市民の最も唾棄すべき事柄でしたし、権力闘争というか、足の引っ張り合いは日常茶飯事のローマ政界で、彼が元老院の不正を告発した事が議員の恨みを買い、嵌められただけだったのかもしれません。
 それにカピトリヌスの丘を死守したとは言え、結局ローマはブレンヌス率いるガリア人に賠償金を支払うことでローマを取り戻したのです。ブレンヌスが賠償金を量る天秤に不正な細工をしたのを知り、ローマは抗議をしますが「敗者に災いあれ」という侮蔑の言葉を投げつけられるのです。
 将にその時、颯爽と現れて、佩いていた剣を投げつけ「ローマは話し合いではなく、剣でお返しをする」と言ったのが、ローマを追放されていたマルクス・フリウス・カミルスなのですが、この話は「ローマ人の物語」には描かれていません。紙面を割けなかったのか、後世に潤色されたものと考えたのかも知れません。確かに余りにタイミングが良すぎる話で、名誉を何より重んじるローマ人にとってこの事件は酷い屈辱でしたから、歴史は勝者によって作られる典型と見ることも出来ます。

 最後に一つ、カピトリヌスのユーノー神殿は、ガリア人を退けたことでモネータ、警告するという意味の性質を付され、ユーノー・モネータ神殿と呼ばれるようになります。この神殿の隣にローマの造幣所が丁度あった事から、ローマでは貨幣の事をモネタと呼ぶようになるのですが、何と英語のマネーがこのモネータに由来するものなのだそうです。
 

ローマを見ずに結構と言うなかれ

2012年02月12日 | Weblog
 毎年、年が明けると性懲りも無く今年の目標を幾つか決めたりするのですが、その一つにタイトルにある様に、一度ローマをこの目で見たいというのがありまして。「ナポリを見て死ね」と「日光を見ずに結構云々」というのを混ぜている訳ですが、個人的には風光明媚なナポリよりは、歴史が重層的に濃く存在するローマあるいはフィレンツェの方が訪れたいところです。
 ただ今年来年にイタリアに行く、という話では全く無くありませんので(そんな余裕はどこにも無い)、今年の目標とはちょっと違うのかもしれません。兎に角、ローマに立つその日が来ることを願って、先ずは歴史の勉強などをしていこうかなという意味です。 

 ローマの歴史は戦争の歴史といいます。
 そのローマにおいて、正式な手順をを踏んだ敵との戦闘に勝利し、戦争を終結させた場合、司令官は「インペラトール」の歓呼賛称を兵士から受け、勝利報告の使者をローマへ走らせます。それを受けて元老院が召集され、凱旋式を行うかの可否が審議されて、採択された場合は国費を使って盛大に凱旋式が執り行われるのです。
 勿論ロ-マの歴史は長く、王政から共和制の時代を経て、帝政期へと移るにつれ凱旋式の内容に変化が生じるのは当然なのでしょう。凱旋式自体が始まったのが共和制の時代と云われ、あのハンニバルを破ったスキピオ・アフリカヌスが最初と言う話や、もう少し古く共和制ごく初期のウァレリウス・ブプリコラがエトルリア人との戦いに勝利した時、戦車に乗ってカピトリウムの丘に登ったことが凱旋式の始まりという話もあります。
 面白いのは共和制初期、難攻不落といわれたエトルリアの主要都市ウェイイを陥落させたマルクス・フリウス・カミルスが、四頭立ての白馬に曳かれた戦車に乗って凱旋を行ったところ、神を冒涜する行為として人々の不興を買ったという話があることです。
 というのも白馬四頭立ての戦車は神にのみ許された行為だったからなのだそうですが、後の凱旋式では四頭立ての白馬は当たり前になっており、それどころか凱旋将軍はその顔を赤く塗って、ローマの主神ユーピテルの姿を真似るようになってさえいるのです。神と人の別がある時代と、自らを神と称した帝政期の違いが見て取れるのかも知れません。
 そのこともあって、ローマを追われたカミルスですが、アッリアの戦いに敗れ、建国以来初めてガリア人のブレンヌスの手にローマが落ちたその時、舞い戻ったカミルスによってかろうじて救われました。始祖王ロムルスと並び、第二の建国の祖と称されるのもその為なのです。

 もう一つ気になったことに、凱旋の行進はセルウィウス城壁の外、マルスの野、カンプス・マルティウスからカピトリウムの丘にあったユーピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿に向けて行われるのですが、その時戦車に乗った凱旋将軍を指差す従者、あるいは奴隷とも云われる人物がいます。彼は、列を成す民衆に讃えられ、絶頂の只中にある凱旋将軍を指差しながら「メメント・モリ」と叫び、英雄と称されるこの者もいずれ死を避けられないという警句で、栄華の内に潜む破滅をローマ市民の胸に刻ませたのだといいます。
 しかし、これは果たしてどの程度事実なのでしょうか?と言うのも、メメントモリが「汝の死を忘れるな」という生者の驕りを戒め、自省を促す警句の意味合いを持つのはキリスト教の影響からともいい、あるいはローマの伝染病による人口減少と社会不安がローマ人の意識を変え、それがキリスト教受容に繋がったのかも知れません。
 いずれにしろ、共和政期のメメントモリはどちらかと言うと「汝の死を忘れるな(だから今を楽しめ)」と言う意味合いの方が強く、その意味からすると「カルペ・ディエム」つまり今日を摘め、という成句に近いものになるようです。

 ですから警句としてのメメントモリは、少なくとも共和制期において成立しないのではないかとおもいますが、ゾシモスの「新しい歴史」の訳を載せる本では「後ろを見よ」となっています。現在の状況に驕ること無く将来に備えよという風に、これなら警句としての意味が通るのですが、果たしてどちらが正しいのか、どこかでメメントに変わったのかはわかりません。この部分が後ろを見よならば、ヴィダポストなのかも知れませんが格変化やらが全く分かって無いので適当です。

 それにしてもかつてバブル期だったか、ポストバブルだったかに、やたらとローマやカルタゴと日本が比較された時期がありました。寧ろ人口が減少に転じる今の方が、ローマを語るにふさわしい時代のような気もしますが、識者が「ローマに習え!」というのは北欧に学べというのと同じで、牽強付会の戯言に過ぎないと思います。
 あの頃は丁度、塩野七生の本が売れた時期でもあったのでしょう。一応それらに目を通したにも関わらず、ぜーんぶ綺麗さっぱり忘れてしまい、唯一、最後の著者紹介の「イタリアに遊びつつ学ぶ・・」という一文が妙に引っかかっているだけです。
 あの表現でこの人は何を言いたかったのでしょうか?留学ではなく遊学ということでしょうから、その時代からすれば大層なお金持ちのはずですが、そんな事を自慢したい訳ではないのでしょう。あるいは、ルネサンス期に周辺国がこぞってイタリアへ子女を送ったことになぞらえているのかも知れません。

 

それから一週間後

2011年12月28日 | Weblog
 前回は普段全く行かないカフェというものに入って何だかんだと話し込んでしまい、その日は東大寺ミュージアムに行けず仕舞いでした。

 ある施設を改装したと云うそこはとても雰囲気のあるカフェで、窓ガラスの少し歪んだ透明感などはそういう昔の作りなのか、液体のガラスが経年で塑化した結果なのかは判りませんが、空間を構成する各素材が規格化された大量生産品には無い、年を重ねて角が落ちたような味わいを醸し出しており、とても心地良い場所でした。
 ただ、メニューは少々お高い感じで、他の人が頼んでいたデザートのプレートを見てもうーんと唸ってしまうようなモノだったのは残念な感じです。雰囲気カフェということで初見には良いとして二度三度となると躊躇すると言うか、まあ普段カフェに全く行かない者の放言ですので捨て置いてください。

 そんな訳で、前回余りに紅葉が美しかったので光の射す中でもう一度見てみたいと、翌週にも同じルートを辿ってみました。数日遅く見ごろをほぼ過ぎて色褪せたものが多かったのですが、やはり山中は逆に色が残ったものもちらほらとあり、午前中は雲も多かったにしろ本当に今年の見納めとなりました。

 山中を歩いている頃に、丁度マラソンがスタートしたのが花火の音で分かりました。それから一日中ヘリのパラパラ音と太鼓のドコドコ音が遠くで聞こえる中、奥山ドライブウェイはマラソンによる混雑緩和のためか高円側からの逆路ルートも開放されており、他県ナンバーに混じって地元っぽい車の通りも頻繁でした。マラソンの日はドライブウェイを車で逆走するという貴重な体験を、きちんと調べていませんがもしかしたら無料で出来るのかも知れません。ただ、順路からも当然車が来るので対向が危険なのと、心なしか皆急いでいるのでゆったりドライブと言う訳には行きませんが。 



 


 東大寺ミュージアムの不空羂索観音そして伝日光月光菩薩に関連して、法華堂八角須弥座下段に計七体の塑像に相当する跡が残っていたという報告を聞いても、個人的にはこれらの塑像が本来の一具として造仏されたとは全くもって考えられません。これについてはまた後日語る事も有ると思いますが、論理的ではないのであまり書くに値しないにしても、実際に各像を目の当たりにすると何となく誰でもそう感じると思うのですがどうでしょうか?
 それよりも目を引いたのが二体の小金銅仏で、解説によると奈良時代の釈迦と多宝仏という事でしたが、そうなると法華経の見宝塔品によるもので、大衣に施された装飾紋が特徴的なちょっと他で見た事が無いような仏像がありました。
 それもそのはずで、これはどうやら戒壇院に安置される多宝塔内に納められていた仏像で、しかも寺伝によると元は鑑真が来朝した折に唐より将来した大陸製の仏像と言われ、当初の戒壇院の多宝塔にあったもののようなのです。それを知ってみると、もう少し丁寧に見てれば良かったと後悔するほどに不空羂索観音と伝日光月光像が印象的だったのでした。

紅葉は今が盛りです

2011年12月05日 | Weblog
 二週間も遅れた結果、奈良公園の紅葉は今が盛りです。東京からの友人と共に微妙な天気の中、春日山中に分け入りました。午前中は晴れ間も見え、雨にもほぼ降られなかったというのは奇跡的かもしれませんが、やはり紅葉は太陽の光があって映えるものだと思います。山中ではあと少し紅葉が残るのではないでしょうか。








少し歩いてみた

2011年11月09日 | Weblog
 最近、歩きたい、あるいは歩こうという思いが募るようになりました。かつては本当によく歩いていた気がしますが、年と共に体が重くなって久しく遠ざかっていました。昔は「芭蕉 大和路」を種本にして歩くことが多かった気がします。特に南部に、盆地から吉野へ山越えする時にはよくこの本にお世話になりました。普段は二万五千分の一地図を片手に歩いていましたかね。

 今回は、学園前に用事があったので、そこから法隆寺を目指して歩いてみました。ルートは学園前駅から富雄駅までは近鉄線に沿って進み、富雄駅からは富雄川沿いに南下。霊山寺から子供の森方面へ、第二阪奈を渡って追分梅林を横目に追分本陣を越えて近畿遊歩道に従って進み、子供の森(矢田少年自然の家)に到着。そこから矢田丘陵の稜線まで登り、小笹の辻手前で合流して、あとは一本道で(と言ってもかなり錯綜して複雑ですが)松尾寺を降って法隆寺までになります。

 手持ちのアナログ万歩計によれば2万2千歩程にしかなっておらず、何だそんなものかという感じですが、身体の方は限界だったみたいです。アナログなので本当に一万歩カウントするとゼロに戻ってしまうので、どこまで信用してよいのやら。とは言え学園前までの8千歩と合わせて大体3万歩というところでした。多少写真は撮っておいたものの、どこに立ち寄る訳でもなく大して面白いものでもないのですが、一応。


この一直線に伸びる道が下って展望が開けていく感じ、下手な写真では全く分かりませんが、大阪と奈良を隔てる生駒山も遠くて開放感がある良い道です。

百楽園の地名の由来、百楽荘があったことに感謝。おかげでこの辺りのイメージは最強ですね。

富雄川に出ると、これは上流を見て撮ってますが、川の左岸を車道が、右岸は車の心配など皆無でのんびりと歩けます。ただ、富雄川の真っ直ぐな河道と両岸ギリギリに有る家を見てると少し怖い。今年のようなゲリラ豪雨や、南部で大きな被害をもたらした長雨に対応できるのか?氾濫の貯水域として水田が広がる所にもぽつぽつと一軒家が建ち始めてるのはよくないなあ、などとつらつら考えながら歩いてました。

霊山寺に到着。ここからショートカットをするには、バラ園をぐるりと回って打ちっ放しのフェンスに沿って行くと車道に合流します。

第二阪奈を越えたところに有る追分梅林はどうしたのでしょうか?すっかり荒れ果てていました。

大和棟を葺いた本陣跡。ここから意味不明な遠回りの近畿自然歩道に沿うよりも、子供の森を直接目指す街道筋の方が、道も良くてショートカット出来ます。

この歩きで一番の収穫は、子供の森がこんなに景色の良い所だった事でしょう。

池に向かって下っていく原っぱと遙か向こうに見える奈良盆地の景色は、腰を下ろしてずっと眺めていたくなります。

多分メタセコイアでしょうか?(あるいはラクウショウ)の並木が野原の丘の外周に沿って続く様子は中々に圧巻です。

あとは、こんな林道をひたすら歩く

矢田丘陵の稜線に出てからは、アップダウンも少なくて気持ちよく歩けます。展望台も三箇所ほど設置されている。

展望台からの景色

松尾寺では白洲正子のトルソーなんちゃらが展示されていましたが、見ませんでした。後は南門を下って法隆寺まで行けば、交通機関は充実していますよ。

「楽園」を読んで

2011年11月02日 | Weblog
 今更ながら宮部みゆきの「楽園」を読みました。2007年に書籍化された、元は新聞小説だった事があとがきから分かりますが、全く知りませんでした。たまたま図書館で上下巻揃っていたのを見かけたで借りてみることにしました。

 読み始めて、何か見覚えの有る名前だと思っていたら、主人公はあの模倣犯の連続殺人事件のライターの人でした。が、読み手としてもその事は余り引っかからずに、過去と何とか折り合いをつけ?新たな事件とも言い難いような依頼に動き始めるのだなあと読み進めて行ったところで、不意にあの過去の事件と今のストーリーが重なるのです。
 もうその時には、全身が総毛立ち、しばらく寒気が収まりませんでした。不思議なもので、随分前に読んだ所詮はフィクションのはずの模倣犯なのに、現実にある悲惨な事件よりも読み手として、あの登場人物達の行動や感情に同期していたのでしょうか、或る意味現実に起こった事件の方が実際には遠い存在とも言えるのでしょう。

 少々野暮ったい主人公。これが宮部みゆきの特に主人公の描き方には有るのではないでしょうか。頭は良いというか、悪くないけど少し不器用で世渡りが上手くない。そして、それを陰日向に支えるサブキャラクターの存在。ちょっと古臭い雰囲気が漂うのは、少々野暮ったい文章からそんな印象を持つのかもしれません。でも抜群に面白い物語は、心のひだを一枚ずつめくるようにして核心へと迫っていきます。人の心の機微が大掛かりなトリックの代わりになって話が展開していくのです。

 「模倣犯」を読んだ方にはお勧めします、今更ですが。

 

ニッツァモンフェッラートの白トリュフ

2011年07月10日 | Weblog
 先日、たまたま見ていたテレビ番組「欧州美食紀行」にニッツァモンフェッラートの名前が出てきてびっくりした。ピエモンテ州の町のひとつとして紹介された寒村は、白トリュフの産地として有名なのだそうで、その有名な白トリュフを使った料理として紹介されていたラビオリのようなもので更に驚いた。と言うのはそれがカルドンを使った料理でもあったことだからです。
 以前書いたようにカルドンはバーニャカウーダに使われるということは一応知っていましたから、カルドンゴッボ ディ ニッツァ(という野菜)のニッツァがこのニッツァモンフェッラートのことだという推測は当たっていたことになります。バーニャカウーダに使うくらいだから地中海のニース(イタリア語だとニッツァ)とは当然違うだろうとは思っていましたが、巷にニースのカルドンなどと説明しているものがあったりしたのは、一般的な辞書を引いても当然ニースしか出てこず、コムーネの一つであるモンフェッラートが載ってる訳も無いためです。ズッキーニの一種にもニース産のニッツァが有ったり、カルドンやアーティチョークの原産が地中海周辺だという事もあってもやもやした感じを持っていましたが番組を見て確定しました。

 かの地の名産の白トリュフがどんなものなのか、アルバ産の白トリュフは聞いたことがあるが口にした事が無い身としては想像に難いのですが、値の張り様は日本のマツタケに似ている。香りは全然別物らしくマツタケは世界中の温暖湿潤な林地で取れてもそれをありがたがるのは殆ど日本人だけらしいし、それをありがたがらない日本人もここにいる訳です。トリュフも実は日本の雑木林などに普通に自生というのか寄生して存在しているらしいので、古来それを利用しなかったのは知らなかったということでは無いはず、日本人の好みに合わないものだったのでしょうか?土を掘っているとごく稀に白っぽいゴムのようなものを見つけることがありますが、あれがもしかしたらトリュフなのかと考えますがそんな訳無いですよね。水辺や湿り気の多い土地のニレや菩提樹、ハシバミ等の根周りの土中15センチほどのところにあるらしいので、この辺りだと春日原始林が一番有りそうな感じです。イノシシなどは恐らくエサとして利用しているであろう事は、欧州のトリュフハンター達がかつて犬の代わりに豚を使っていたことから想像できます。

 そういえば、イノシシに山の畑で出くわした経験は今でも忘れられません。冬の頃だったと思いますが、畑際の松林に緑色のレインコートを羽織って休憩して腰を下ろしていた時、遠くで犬の啼く声と鈴の音がしたので猟をしている事には気付いていました。しばらくしてガサガサという音がする方に目を向けると、向こうの林からドラム缶ほどは無いにしてそれに近い大きさの紡錘形をした黒い塊が恐ろしい速さでこちらに向かって来たかと思うと、目の前数メートルを駆け抜けて行ったという事がありました。
 猟犬に追いかけられてイノシシはこちらには全く気付くことはありませんでしたが、あのスピードは尋常じゃ無く咄嗟の事に身動きも出来なかったのを覚えています。それ以来イノシシにはとても太刀打ちできないと悟りました。

 
ごぼうとカルドンの奇妙な関係について以前書いたもの

この大根はセウト

2011年03月09日 | Weblog
 
 マンドラゴラはナス科の植物がモチーフらしいですが、根が人の形をしていると言われても余り同意できない気がします。寧ろこちらのほうが↑マンドラゴラと言っても良い様な、まるでドラクエのモンスターにでも出てきそうな感じで、よく見るとかなり卑猥というか滑稽です。
 引っこ抜いた根がまるで人の形を連想させるものは、セリ科のニンジンかアブラナ科の大根が筆頭だと思います。そんな大根も又根になっては商品価値がありませんから、古くから「大根十耕」というように良く土を砕き、肥料分を散らして根の伸張を妨げないようするのですが、個人的にはと言うか、現代ではトラクタで畝立てするために多くて二回、あるいは一回という場合もあるようです。
 大根は人型よりも「大根足」のように女性の足に対する侮蔑の言葉に使われることが多いでしょう。でも、個人的には大根は雪のように白く緻密で、スラリと適度に伸びた印象が強いので、大根足で上等じゃないかと思うのです。でも、間違っても「君の足は大根のようだ」と褒めたりはしません。

 他の大根より頭一つ葉の繁りが大きいなと思ったら、やはり根がこんな事になっていました。根の伸張が阻害されて、本来根に行く栄養が葉部に回った結果でしょうか?又根の葉は正常なものと何処かしら異なるもので、それを目安に間引きを行います。ですからこんな根の大根に出くわす事はごく稀なことなのです。

 大根についての過去の記事

雪の混乱

2011年02月19日 | Weblog
 こうなると、もはや風情などと言っている場合ではありません。県下が白一色に覆われた14日は交通機関が麻痺して、特に道路は何処も大渋滞となりました。金剛山や高見山で見られるような霧氷が、畑の直ぐ隣で見ることが出来て、背景のテンプレートと同じ風景が目の前に広がっていました。

 

 
 まあ、ハウスがつぶれなかっただけでも良しとしましょう。滑り落ちた雪はサイドで40センチ以上にもなっており、巻上げが出来ずハウス内の温度が急上昇、汗が吹き出る中シャツ一枚になり、我慢できなくなると一面真っ白な外でクールダウンをするという、冬と夏が混在する奇妙な経験が出来ました。
 
 そんな雪もかなり解けて春を感じさせる陽気が続いています。もう何度かは寒の戻りがあるはずで、お水取りが終わるまでは油断できないのでしょう。

静かな雪の日

2011年02月13日 | Weblog
 風も無い中、深々と降る雪は風情があって良いものですね。でも雪が風で吹き飛ばされずに確実に降り積もっていくので、押しつぶされたハウスを幾つか見ました。奥宇陀はかなり大変なようだと聞いています。
 うちはそこまでは無いにしろ10センチは積もったと思います。降雪が一休みすると晴れ間が広がり、ハウスに積もった雪はどんどん滑り落ち始めます。そうするとハウスサイドに雪が溜まってしまい、ハウスのサイドが開けられなくなります。雪の多い地域だとこのサイドに溜まった雪でハウスが押しつぶされるそうです、恐ろしい。
 
 足を伸ばして仏隆寺を覗いてみました。最後の坂道は厚く氷状に締まっておりチェーンでも無いととても無理です。
  
 
 

 
 次の機会には必ずや室生寺までスノーハイクをしようと思います。