和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

お水取り 火と水の行法

2009年02月24日 | 和州独案内
 お水取りを喩えて「火と水の行法」と呼びますがとても的を射た表現だと思います。それに加えるなら暗闇の堂の中、様々な音が飛び交い光と影が織り成す神秘的な体験とでもいいましょうか。
 但し、本行の本義はあくまで十一面観音を奉賛し、あらゆる罪障を懺悔することなので二月堂内で行なわれる称名悔過などが中心のはずです。ただ堂内は人の出入りも制限され、特に女性は各局から格子越しにしか行を見る事が出来ないために派手で衆目を集めやすい行事が注目されるのでしょう。あ、でも女人禁制は伝統ですからどうする必要も無いと思います。

 練行衆は現在は11人で構成される。和上・大導師・咒師・堂司の四職と、平衆と呼ばれる7人、総衆ノ一・南衆ノ一・北衆の二・南衆ノ二・中灯・処世界・権処世界。それ以外に行を補佐する堂童子・小綱・駆士の三役を筆頭として、更にその下に多くの童子や仲間が行を支え、そのまた縁の下で多くの二月堂講者が支えています。

 練行衆は三月一日より始まる本行に先立って「別火」と称す精進潔斎を行ないます。試別火(ころべっか)から総別火(そうべっか)と潔斎の度合いを高めていくのですが、娑婆の穢れを祓い清める最も判りやすい方法がその名前の通り火を別けることです。更に火だけではなく水も娑婆のものと別ける事で身を清めていくのですが、その水はと言うと佐保川上流の蛭子川の水を汲み上げたものです。
 精進潔斎の象徴でもある浄火は全て「一徳」の僧名を持つ堂童子の手によって熾されれます。試別火、総別火そして二月堂本行から一年間堂内で使用される常燈の元になる「一徳火」に至るまでの全てを三役の堂童子が熾すのです。
 堂童子はかつて一徳などの僧名を与えられながら妻帯を許された半俗半僧の者達で各堂に存在したが、今は川上郷の稲垣家のみが存続している。稲垣家が、稲垣家が受け継いできた二月堂の堂童子が本行において重要な役割を果たしている事は、史実なのか伝説の類なのかわからないが、稲垣家と実忠和尚との深いかかわりに他ならない。本行を始めるに当たって実忠が南方補陀落浄土に十一面観音の請来を祈念し見事に果たしたその後、稲垣氏が小観音を難波津よりこの地のもたらしたとの伝承がそれです。
 小観音は本行中の三月七日、小観音出御で須弥壇の裏(東方)より礼堂へ一端搬出され(もちろん御輿付きの扉の無い厨子に安置されており見る事はできない)、日付が変わった八日の深夜一時前に内陣をぐるりと一巡して須弥壇の正面西に安置する。これが「小観音後入」で下七日の本尊が大観音から小観音に移ったことになる。
 七日の出御から初夜上堂までの間、小観音を警護するのが堂童子と手向山八幡宮の宮司の二人ですが、ここで唐突に八幡宮宮司が出てくる理由が、昔小観音が盗難にあったときにそれを取り戻したのが八幡宮宮司だからと云う、堂童子が警護の任に就いている理由は言うまでもありません。
 小観音の移動はかつて修二月会がはじまると堂外の印蔵より二月堂へ小観音が迎え入れられていた儀式の名残だと言うのが主流の見解です。ただ、小観音が大観音以上に絶対視されるようになったのは何故なのかよく解らないところで、そもそも何故二尊を行の本尊とするのか?についても定かではありません。

 十二日、日付が変わった午前二時に行なわれる「お水取り」は四職の咒師を中心に六人の水取衆それに堂童子と童子、庄駆士が別名蓮松明とも呼ばれる咒師松明を先頭に列を成して階段を降りる。興正社に参拝したあと若狭井のある閼伽井屋に実際入るのは咒師と堂童子と庄駆士の三人のみで、他の五人は外で警護をする。若狭井の実忠と遠敷名神の話は書くまでもありませんか、遅参した詫びに遠敷名神が若狭から水を送ったところ、黒白二羽の鵜が飛び立ったあと水が噴き出したという。
 
 ちなみにこの水取衆の五人が持つ杖は練行衆の持物で「牛玉杖」と呼び、春日祭やおん祭りにも見られる「梅のズバエ」またはズワイと同じものですが、梅ではなく柳の木製で杖の端に牛玉札を挿すことからその名が付きます。(下の牛玉札とはどうも別物)
 牛玉札(ごおうふだ)は三月八日、九日の牛玉日(ごおうび)に練行衆が刷る護符の一種です。下の写真の札が正式なもので少し高いですが二月堂で購入出来ます。ただ注意したいのは似たような廉価版が一緒に売られている事で、こちらは納所などで寺男等が刷ったものでしょう。病の時にはこのお札の墨の文字を切り取って水に溶かして飲むと効果があるといいます。と言うのも、正式な牛玉札は「牛黄」つまり生薬の牛の胆石が入った牛玉墨と御香水による墨汁で刷られているからです。廉価版は恐らくただの墨で刷られたものだと思います、違うかな?
 何故、中世において起請文を燃した灰を一味神水として飲むのか理解しがたかったのですが、本来起請文の牛玉宝印は牛黄が含まれており、それを飲む事が始まりだったと考えると腑に落ちます。

  
          二月堂牛玉札とその下は最も有名な熊野の烏文字の牛玉宝印

  

Raphanus sativs

2009年02月20日 | 野菜大全
 大根の学名はRaphanus sativs ラファナスはラーパつまりカブの事をさすらしいが、割れるもしくは早く割れるという意味だと言う話もある。割れるという意味なら初生皮層の剥皮現象(本葉3~4枚目頃に芯部が肥大して外皮が縦に裂ける)を指しているのかもしれないが、そうするとBrassica属のカブも同じく剥皮するので、やはりここは「早く割れる」の意味のほうが通る気がする。
 では「早く割れる」とはどういう意味なのかというと、やはり種の発芽が早いということになる。アブラナ科の中でもかなり早い部類に入り、うちの畑ではルコラ、ミズナ、小松菜などの漬け菜類、キャベツ類の順に発芽して、大根はミズナとほぼ同じと見ている。発芽の早さと種の大きさには関係があって、小さい種ほど発芽は早くなる。小さな種ほど貯蔵物質が少なくもしくは無いために、光合成を早く始めたほうが有利という訳らしい。弁当を持ってるかいないかみたいな話。
 では大根の種はというとアブラナ科では異例というくらいとても大きい、ルコラは芥子粒ほどしかないが大根は米粒より大きいくらいか。それでいてミズナこれもかなり細かい、と同等の発芽スピードは大根の特性として昔の人が認識してもおかしくは無いでしょう。 もしかして大根の種はあのなりで貯蔵物質をもっていないのか?その辺はまたにしておきます。

 カブを差し置いて最も地方の在来品種の多い大根ですが、大和においてはこれと言った品種は報告されていません。ただ白上がり大根という細身の正月大根はあります。土壌の性質からすると聖護院のような丸大根や、田辺大根のような短系種があってもよさそうなのに残念です。それらの有名な大根以上に特徴のある大根が生まれなかったのでしょう。
 古くは古事記にも登場し、仁徳天皇から磐媛に送った歌に詠まれています。おおかた嫉妬深い磐姫をなだめる歌なんでしょう。 生駒の聖天さんこと宝山寺の寺紋って言うのでしょうか?あれは確か「二つ大根」ですね、違ったかな。本尊ではなく守護仏と言うらしいが完全に母屋を乗っ取った感じです。

 大根はカブと何が違うのか?と言う問いは素朴さゆえに実に難しい質問です。アブラナ科のラファナス属とブラシカ属の違いは現在はDNAレベルでの違いとして分類がなされてるはずですから、カブは同じブラシカ属のキャベツやアブラナに近く大根は遠いことになる。でも同じ科なので両者を掛け合わせた品種は既に市場に出回っています。絶対量が少ないのでもし見かけた方はラッキーですね。
 農家としては種の大きさが全然違うのでそこが決定的な差異といえる。葉の姿からカブは広葉で大根は鋸歯葉だから違うと言うのは、辛味大根系で広葉があり、天王寺かぶに切れ葉があるため十分条件ではない。 大根は主に根部が肥大するのに対して、カブは胚軸部(茎と根の中間)が肥大すると言うのも、二十日大根は胚軸が肥大して日野菜は根部も肥大しており十分とはいえない。やはり種子の大きさの違いは単純だが決定的な違いといえそうですね。

 それはそうとして春大根ですがかなり困った事になりました。一部で葉色が違うと思っていたらやはり薄くなった辺りトウが立ち始めているようです。一応トンネルをして25度以上を確保していたつもりだったし、一部だけが春化出来ないなんてことは思いもよりませんでした。最初はモザイクウイルスにでもやられたか微量要素障害かとも考えましたが、追肥と潅水不足がトウ立ちを早めたのだと考えています。まだス入りが有るわけでもないので十分に肥大しきってないが早めに出荷しようかと、異変があって気付いていたにもかかわらず対応しなかった落ち度は自分に有るのでどうしようもないですね。

  
                     右手の大根の葉色が抜けている

 
 それに加えて更なる問題、ハタネズミの野郎が大根を齧っていました。本当に頭にきましたので宣戦布告します。土中が齧られているならモグラの可能性も考慮に入れなければなりませんが、地際が齧られているのでネズミで確定でしょう。モグラ穴をネズミが利用する負の連鎖は今のところ無いけど、エサが少ないからか冬のほうが活発に動き回り、暗黙の了解(畑には入らない)を易々と破ってくれる。これはもう狩らないといけないかもしれません。


  
  

お水取り

2009年02月15日 | 和州独案内
 もうすぐ大和に春を告げるお水取りが始まります、いや既に十二月十六日から始まってるとも言えなくは無いかな。天平勝宝四年(752)に始まり今年で千二百五十八回?を数える大変歴史と由緒の深い奈良を代表する行事と言えます。ところでお水取りって?お松明って何なのと言う素朴な疑問にキチンと答えられますか?

  

 お水取りは正式には修二月会もしくは十一面観音悔過会と言い、二月堂のご本尊十一面観音にあらゆる罪と穢れを懺悔して、国家の安泰と国民の安寧を祈念する東大寺の年中行事の一つです。
 本行は三月一日より上七日、下七日の合わせて十四日もの間執り行われ、お水取りはその十二日目、日付が変わって十三日の午前二時時くらいに行なわれる行事です。二月堂の崖下にある若狭井より湧き出す霊水(香水、若水)を汲み上げて、本尊十一面観音に奉げる儀式が何時しか行全体を呼ぶようになったのです。
 ではお松明はと言うと、実は本行とは余り関係が無く、修行の僧を練行衆と呼びますが彼らが参籠所から二月堂に夜上堂する際に足元を照らした上堂松明が何時しか大きくなって今のようになったと言われています。今では本行のクライマックスのように取り上げられる事が多く誤解を招いています。しかし、お松明の火の粉を被るとその一年息災で過ごせるという話が何時しか出来る様にこの行には火と水が重要なキーワードであり、お水取りやお松明と言う呼び名は奇しくもこの行事の本質を捉えているともいえます。
 寺の数ある年中行事の中で「不退の行法」と呼ばれるほどに東大寺にとって最も重要な行事となり、幾度かの戦渦を乗り越えて現在まで一度も途絶えることなく執り行われてきました。そのため古式を伝える行の意味するところが分からなく成ったり、途中新たに付け加えられたりした為に本行を理解するのが更に難しくなっています。とまあテンプレ的な普通の理解ならここまで判っていれば十分だと思いますが、ここから以下は長い長い余談になりますのであしからず。

  
        松明は練行衆の足元を照らすのみならずその火で道を清める意味もある                     

 天平勝宝元年(752)実忠和尚によって始められたとされるお水取りですが、その当時に現在の二月堂にあたる建物は無く若狭井に相当する井戸のみが存在した事が「東大寺山堺四至図」によって確認できます。では創始の年代に誤りがあるのか、二月堂とは違う堂で勤修したのか、丁度同年に光明皇后の下紫微中台で執り行われた十一面悔過会を充てるのか答えは出ません。個人的には実忠によって小観音を本尊として堂を定めずにこじんまりと始まったと思いますが。
 この行の創始者実忠という人物についても生地などの詳しいことは判らず、大同四年(809)の本行勤修中に十一面観音が祀られている須弥壇下に入り姿を消したと言う謎めいた伝説めいた話が残っています。
 「二月堂縁起」によれば、751年に笠置山中の洞窟に迷い込んだ実忠が竜穴を抜けると、そこは兜率天の内院で天人達が十一面悔過会を執り行っていた。それを見た実忠は人間界で是非この悔過会を行ないたいと願うが、天上界の一日は下界の数百年に相当し、本尊の十一面観音もいない事から無理だと言われた。それでもあきらめきれない実忠は行を走りながら行なう事とし、本尊は観音浄土補陀落山に向かって勧請祈念したところ海上より閼伽器に乗った生身(人肌の温かさを持つ)七寸ばかりの十一面観音を得る事が出来た。これが現在二月堂の絶対秘仏とされる小観音で本行の下七日の本尊とされる。
 では上七日はと言うと大観音と呼ばれる2m近い、その名の通りに大きな十一面観音が本尊となり、行の途中に本尊が入れ替わるややこしい事になっています。大観音も秘仏ですが小観音共に文献からその像様を推察する事が出来る。大観音は1667年の二月堂の火災で破損した光背が蔵に収められて伝世し、今は奈良博に寄贈されておりこの時期の企画展に出展されるので是非見てください。光背は大仏連弁線刻画に似ており、大観音が天平の金銅仏であると類推されます。
 小観音の詳しい像様は20cm程の金銅像で、頭頂に慈悲面、白牙面、瞋怒面が三段アイスクリームの様に積み上がるとても珍しい尊像です。本像に類似するものは本邦に見当たらず、遥か遠くインドのカーンヘーリ石窟にあるらしく、実忠が小観音を南海より請来した説話の持つ意味を考えさせられて面白い。
 普段は大観音の前に安置される小観音が、お水取りになると後ろに回され、さらに下七日になると「出御」「後入」を経てお前立ちする所作も小観音の来歴を物語っているようで色々考えさせられます。
 
 二月堂が何時建てられたかは少し置いておいて、観音堂としての二月堂を眺めてみたい。華厳経によると観音菩薩は南海にある絶海の孤島、補陀落山浄土に住むと考えられている。観音菩薩を安置する観音堂はこの補陀落山観音浄土を体現するための舞台装置です。故に奥深い山懐に堂宇を営み、山並みや雲霧を海に「見立て」て観音浄土を再現しようとしています。二月堂を見立ててみると当然山中にはありませんが、斜面に張り出したいわゆる懸崖造りで絶海の孤島を再現しています。平地に作られた南円堂などは観音菩薩の住む八角形の宮殿を模している訳です。二月堂の正面の石階段にもそんな「見立て」が施されているのですがお気づきでしょうか、恐らくですが。
 次に続くかも   

  
二月堂を南方の絶海の孤島にあるという補陀落浄土に見立てるための(多分)青海波紋と亀甲紋

  

大根可愛いよ大根

2009年02月08日 | 野菜大全
 野菜を栽培していると得意なもの苦手なものが、好きなもの嫌いなものが自然と出来てきます。最近は特に大根が可愛く思えてきました、理由はありません。ああ、冬大根だとかろうじて無農薬でも栽培できるからでしょうか、虫との不毛な闘いに勝てる見込みがあるうちはまだ救いがあります。
 いやそれでも安心は出来ません。例えば、ダイコンサルハムシの被害は目を覆いたくなる酷さで、道端の宿根性の雑草イヌガラシ等が自然繁殖のスポットになっており、そこからせっせと遠征して来ます。いったい何を目安に大根を見つけるのか?カラシ油の成分を感知するのか、闇雲に歩き回って見つけたら集合フェロモンでも出すのでしょうか?解かりません。
 同じくヤサイゾウムシも品種を横断的に食害する面倒な害虫で要注意です。コイツはオスに出会うまではメスばかりを産み続ける無性生殖を繰り返すやっかいさんで、道端ではキク科がお好みのようです。どちらも甲虫ですが飛ぶことは出来ず、その代わり歩く速度は早く何処と無くユーモラスですが可愛いとは思った事は一度たりともありません。勿論見つけ次第つぶします、プチッと。
 どちらもかつての非選択的に良く効く、つまりどの虫にも更に人にも良く効く様な農薬の使用がほとんど無くなった事により近年復活し幅を利かせていると言います。農薬が常に進化して更なる安全性を追求し研究していると言う事をこんなところで知る事になろうとはわからないものです。

 大根は品目別の消費量でトップを走り続けているそうで、特に冬場に、おでんに大根は欠かせません。子供の頃はあの苦味が好きになれませんでしたが、今はそれこそが大根らしさと思えるようになりました。その大根らしい苦味が消費者に敬遠され、甘みのより強い品種が今のトレンドだと言うのは皮肉ですね。
 そして冬から春、更に夏大根と産地を変えながら一年中の出荷が可能になり消費を支えています。

 大根は自身の味を余り自己主張せず、しかし繊細かつ一本芯の通った日本人らしい野菜なのかもしれません。面取りや隠し包丁を入れ、した茹でをしてから出汁で味を染み込ませるなど調理の仕方も繊細です。まあ適当に切って豚肉と炒め、味噌とだしで味付けするようなざっくりした料理もあります。
 大根は主にその根部を食しますが、カブと同様に葉っぱの栄養価は馬鹿に出来ません。カロテンや食物繊維に富み大いに利用してもらいたいですが、葉を残すと水分の蒸発が激しく品質を著しく劣化させてしまうため切ってから出荷されます。どうしても葉っぱがという方は直売所などで探せば有るものですよ。

  
               ナメクジに葉を食べられながらもすくすく育つ春大根