和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

法隆寺西円堂

2011年01月16日 | 和州独案内
 法隆寺観光の巡回ルートから少し離れているためにちょっとした穴場のようになっているのが、この法隆寺西円堂です。正月ということも有って写真では人が多目ですが、普段は人気も無く落ち着いた場所で、以前はもっと木立に遮られていたために鬱蒼とした奥の院のような雰囲気がありましたが、今は見晴らしも良いすっきりした場所になっており、遠くに二上山から葛城山の山並みが縦方向に見渡せます。
 この場所が一年で最も賑わうのが二月の一日から三日に西円堂本尊の薬師如来に祈念する「薬師悔過」の修二会で、その最後の結願の日に行われる追儺会(鬼追い式)ではないでしょうか。

 

 

 大和の追儺会といえば長谷寺のだだ押しや興福寺のものが有名ですが、法隆寺のそれも中々どうして勇壮で、暗闇の中鬼達が放り投げる松明は迫力があり、どちらかというと五条の念仏寺陀々堂で行われる鬼追いに近い古式を残しているように思います。現在は柵によって参拝者との間が隔てられていますが、数十年前はその柵も無く臨場感溢れるものだったのです。それが災いしてある年に放り投げた松明で観客が火傷をしたために金網の柵を設けるようになったと聞いています。
 しかし災い転じて何とやらと言う通り、鬼が金網めがけて松明を放り投げると、丁度火の粉だけが観客に降り注ぐようになり、この火の粉を浴びるとその一年を無病息災で過ごせると言うのはお水取りのお松明と同じ道理になります。
 「峰の薬師」と名高いこの薬師如来は奈良時代に造られた丈六の堂々とした乾漆像で、県犬養橘三千代の発願によるものだと言う伝承があります。建物の八角円堂は鎌倉時代に再建されたものですが、基壇部分は奈良時代に遡るようです。それにしても大宝蔵院の阿弥陀如来厨子といい三千代と法隆寺との因縁は遠からぬものがあるようです。

 法隆寺に幾つかある民間信仰の中でも最たる場であった峰の薬師は、病気平癒延命除災の願をかけて女性は鏡等の装身具を、男性は武具を奉納するという伝統がありました。その中でも、特に耳の病に霊験があるということから、願掛けに際して耳の障りを通すと言う意味で錐を奉納するのが通例だと言われ、現在でも薄暗い堂の側面には額に飾られた錐を見ることが出来ます。太子といえば一度に十人の言葉を聞き分けることができたという故事から豊聡耳皇子とも称されるなど、なるほど無関係ではないものなのです。
 中近世を中心に隆盛した峰の薬師信仰は、古くは何処まで遡りえるのか分かりませんが、奉納された鏡の中に一面だけ唐代の海獣葡萄鏡があるのは興味深い話です。ただ、近世の信仰のきっかけをつくったのは何といっても徳川家康が大坂冬の陣を前にここに立ち寄り、必勝を祈願して刀を奉納したことがあるのではないでしょうか。
 大坂冬の陣で徳川家康とくると、奈良検定を受検される方はピンと来るのではないかと思いますが、大和にはもう一ヶ所、こちらは鎧ですが家康が奉納したしたところがあり、それが漢国神社という訳です。

 
 本尊の薬師如来坐像に拝した後、ぐるりと堂を巡ってみると丁度裏手に閼伽棚か厨子様のものがあるのに気が付きます。ここを素通りしてしまいがちですが、この中には賓頭盧尊者の像が鎮座しており、左手が木製で取り出せるようになっています。これはその手で自分のからだの悪い部位とお賓頭盧さんの同じ箇所を摩ると病気が治るという地元の人々の素朴な信仰があるのです。ただ、聞くところでは年の数だけお堂を巡って、その都度お薬師さんとお賓頭盧さんに拝しなければならないそうで、流石にこの年になると数十回もぐるぐるしてられないという話です。
 
 

 
                          法隆寺の時の鐘