和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

東大寺法華堂

2009年05月05日 | 和州独案内
 世界最大級の木造建築としてその威容を誇る東大寺大仏殿から東に登った処、古くは九十九折山と呼ばれた若草山から伸びる観音山という支尾根の麓にある高台は上院と呼ばれ、そこは二月、三月、四月堂などの印象的な名称を持つ御堂群で形成されています。上院地区に建つ諸堂の中でも三月堂つまり法華堂は東大寺に今も残る最も古い建物の三棟のうちの一つです。(ちなみに残りの二つは正倉院と転害門)

  
                     大仏殿と二月堂のある上院

 南を正面とする法華堂を横から見ると二つの堂を繋ぎ合わせた珍しい建物であるのが分かる事は良く知られています。双堂と呼ばれるその様式は仏像群を安置する本堂と、その手前に礼拝のための空間である礼堂を軒を連ねて建てる様式で、鎌倉時代に二つの堂を更に大きな棟で覆った結果、南正面は入母屋に、北裏は寄棟の何とも奇妙な建物になってしまいましたが、言われてみないと気にならないのかも知れません。双堂建築の名残として二つの軒が重なっていたところには木樋が今も残されているのを見ることが出来ますが、何故こんなものを残したのか皆目見当がつきません。大工が屋根裏に鑿をわざと忘れたり落書きをしたりするのに似た遊びや腕自慢の類なのかもしれません。

  
               法華堂あるいは三月堂かつては羂索堂と正面灯篭

 法華堂が創建当初から双堂形式だったのかは少し置いておくとして、法華堂がいつ頃創建されたのかと言う所から話を始めたいと思います。と言うのも現在東大寺と呼ばれる寺院に現存する建物で最も古いものがこの法華堂である事は間違い無く、この寺院の創建に深く関わっているのが古くは羂索堂と呼ばれた法華堂に他ならないからです。
 ただ最初に結論を言っておくと法華堂が何時建てられたかの正確な答えは有りません。それだけでなく堂内に安置された諸像に関しても確かな所は分かりません。文献や伝承、美術様式に考古と様々なカードが有るにも拘らずどれも決め手を欠いています。多くの研究者の詳細な考察は一々頷けるものの、手持ちのカードをいくら整合性を持って並べてみてもすっきりとする論には至らない感じです。 
 中世に東大寺で編纂された「東大寺要録」には天平五年(733)に良弁によって不空羂索観音と執金剛神立像を安置する堂として羂索院が創建されたと書かれていますが、法華堂の軒瓦には恭仁京造営時に新調した瓦が使用されているのが分かっており、その年代は天平十二年(740)を遡りえない。また正倉院文書には天平十九年(747)に羂索観音の光背用に鉄挺二十挺を金光明寺造物所に申請しており、これをもって不空羂索観音が完成したとみなされています。
 「要録」の記述は寺伝の縁起らしく潤色はありますが、仮に羂索堂および羂索観音が740年代に造られたとしても両者と加えて執金剛神立像に関係の深い東大寺初代別当の良弁が古くからこの上院地区に縁があったであろう事は良弁にまつわる伝承からも窺えます。
 良弁抜きに東大寺を語り得ないので、次は良弁についてを書いてみたいと思いますがその前に 寺名である東大寺の名称は天平十九年(747)までは確認できますが、それより前は当時の正門に当たる西大門の扁額あるように金光明寺(金光明四天王護国寺)と呼ばれていました。更にその前は金鍾寺(金鐘寺)と呼ばれ金鍾上人の別名を持つ良弁と繋がる訳です。