和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

難問珍問 つくってみた

2009年12月31日 | 奈良検定その他検定
 奈良検定の二級試験は奈良への呼び水として、奈良の面白さを多くの人に知ってもらうものとしてハードルは下げた方が良いのでしょうが、そこからは難しくあってほしい、個人的にはソムリエは10パーセント以下の合格率が望ましいと思います。その試験で自分が合格できたかは受けてみないと分かりませんが、やり甲斐はあるのだとは思います。
 まあそんなことはさて置いて、検定の問題が悪いという指摘も良く目にしましたが、その意見にも半ば同意しつつも、ではどんな問題なら納得するのか、良問か愚問かを決める基準はつまるところ各個人の恣意では意味が無いとか、試験なんだから落とす事を考えながら問題を作る必要もあるんじゃないかと、色々考えてしまいこの手の議論に結論は無いのだと思います。
 だったら試しに自分で問題を作ってみればいいのでは?自身の実力の程が如実に表れるのは面白いものです。いくつものジャンルのなかで、特に初っ端の地理関係は落とし穴なのではないでしょうか。県外の方は馴染みが無く、県内者も歴史や寺社ならともかく、地理なんぞ何となく知ってる程度でわざわざ勉強しようとは思いません。
 ということで、一助になればと易難様々ありますがどれも少しばかりひねって作ってみました。奇問だと嗤うか愚問だと罵るか、良問だと嘆息するかは見た方の判断に委ねます。

問1 奈良にある四つの山のうち標高が一番低いものはどれか
①御蓋山
②耳成山
③畝傍山
④天香具山

問2 奈良県の四箇所の観測点のうち気温の年較差が最も大きいのはどこか
①奈良
②五条
③針
④風屋

問3 大台ケ原で大雨が降っているにも拘らず大和平野では全く雨が降らない事を指して何というか
①大台残し
②国中忘れ
③背降り
④奥山ながれ

問4 大和川に流入する支流の内、一番流域面積の大きいのはどれか
①佐保川
②初瀬川
③飛鳥川
④葛城川

問5 大和川支流の並びとして正しいのはどれか
①東より初瀬川・寺川・米川・飛鳥川・曽我川・葛城川・高田川の順
②東より初瀬川・米川・寺川・飛鳥川・曽我川・葛城川・高田川の順
③東より初瀬川・寺川・米川・飛鳥川・曽我川・高田川・葛城川の順
④東より初瀬川・米川・寺川・飛鳥川・曽我川・高田川・葛城川の順

問6 大和や各地で発展した田畑輪換法は特に大和では何と呼んだか
①つなぎ
②くるり
③じゅず
④からけ
 
問7 奈良盆地にある池で、今は廃絶した池として正しいものを選べ
①蛙股池
②和珎池
③剣池
④益田池

問8 環濠集落で有名な稗田郷が優先的に水利権を持っていた溜め池はどれか
①勝間田池
②広大寺池
③白川溜池
④平尾池




答え合わせ
問1 2が正解
①御蓋山 297m ②耳成山 139m ③畝傍山 199m ④天香具山 152mで香具山よりも耳成山の方が低いという定番のひっかけ問題。

問2 2が正解
五条は夏はフェーン現象によって温度が上がり、冬季は金剛おろしで寒くなる。南部の下北や風屋まで行くと、海風の影響で気温が下がりにくくなります。針は県下の最低気温を出す観測地ですが、夏も涼しいので年較差は小さくなる。

問3 3が正解
吉野の山間部では大和を人に見立てて、脊梁山脈の台高山地をその人の背中にあてる、そこに降る雨ということで背降りという。

問4 1が正解
どうしても初瀬川が大きいと思いがちですが、佐保川140平方キロと初瀬川117平方キロで、布留川を含んでも佐保川のほうが流域面積は大きい。

問5 1が正解
大和川は中世以降、自然河川を南北方向に、等間隔になるよう付け替えた歴史があります。流出する土砂が堆積し天井川化した河川を再生し、十分でない降水量を利用するための苦肉の策ですが、条里制地割と同じく、古代の奈良時代にではなく荘園化が進んだ中世に行なわれた点は意味深いことです。

問6 4が正解
一般にはまわしと呼ばれますが大和ではからけと呼びました。水稲作を本毛、その後の裏作を裏毛と呼ぶ二毛作から派生した田畑輪換なので空毛(からけ)と呼ばれた訳です。

問7 4が正解
和珎池は現在の広大寺池にあたり剣池は今は石川池と呼ばれる。古代にあったとされる益田池や磐余池など無くなった池も多い。

問8 2が正解
広大寺池は和珎池とも呼ばれ、稗田郷を潤す水がめとして開発された、記紀にも記述が見られる由緒の古い溜池。広大寺池から稗田集落までは結構な距離があり、途中に幾つかの集落があるが優先権は無い。
  
         広大寺池の西堤下にある分水樋は三つに分かれて下流に水を送る
  

本当に全く関係ない話ですが、まさか大晦日にこんな大荒れの天気になるとは、数少ないハウスのビニルが吹き飛んでしまいました。今年最後の更新がこんな事になるなど台風並みの風は雨が無いだけに本当に恐ろしい。                

つづき 大和の種々の薬

2009年12月27日 | 和州独案内
 かつては寺院が文化のセンター的役割を荷い、学問のみならず医療においても知識技術の中心地であったために、寺院由来の薬が多く世に出回ったのは当然のことなのでしょう。
寺院は社会福祉事業の一環として、また信者獲得のためにも慈善事業として薬を求めに応じて頒布していました。
 寺院というより国家の威信の為かも知れませんが、その最も大掛かりなものとしては、正倉院に伝えられた天平時代の薬種に見ることが出来ます。光明皇太后によって東大寺の大仏に献納された生薬のリスト「種々薬帳」によると、約60種もの貴重な生薬が一旦献納され、その後求めに応じて正倉院から興福寺の敷地に設置した悲田院や施薬院を通じて広く衆生に施されました。現在でも20種ほどが現存しており、犀角や巴豆 などの珍しい薬種が当時のままに、いや当然経年劣化は見られるものの遺物ではなく伝世品として今にあります。
 それ以前にも唐招提寺の鑑真は来朝に際して、仏典のみならず相当数の薬種を持ち込みました。それらを配合し調剤する知識にも長けていたのか、それとも弟子にその辺りに通じた人物がいたのか、奇効丸なるものを天皇に進上しその功として水田百町歩を賜ったという話が伝わっています。

 その奇効丸と混同されるもので、関西の方なら必ず分かる「ひやひやひやの樋屋奇応丸」の大元の奇応丸は各地に由来を異にして遍在していましたが、東大寺に纏わる話としては、ある日寺に伝わる太鼓の張り皮が破れ、その内部に製法が記されており、その通りに処方したのが始まりというものがあります。流石にこれは薬の発祥譚として有名な大寺に仮託されたものでしょうが、それは中将湯と中将姫の関係に似ていなくもありません。中将湯の話は別の機会にもう少し詳しく書ければと思っています。
 
 寺院に薬が多いのは流通の未成熟な時代、法事、法要の都度人々が寺に集まるからでもあるのでしょう。そして当時のスーパースターのような存在の高僧に薬の由来を求めたのは、今で言うある種のPRのようなものかもしれません。
 あじさい寺の別名を持つ金剛山寺は、中興の祖である満米上人が地獄めぐりをしたことで有名ですが、この寺で造られたのが「万病丸」です。いわば黄泉がえりをした満米上人の地獄めぐりの話は、絵巻物になって「絵解き」のかたちで広く信者に流布していましたから、万病丸の効能はプラセボ効果もあいまって、それこそ万病に効く良薬としてもてはやされた事でしょう。
 チンポンカンポン祭で有名な御所の柿本神社の別当寺である影現寺では秘薬「仙方施神丸」を法要などに際して頒布していました。
 その影現寺から西へ直ぐのところにある慶雲寺では「桑山丸」を製造していました。元は違う名を付けたものが、近世、和歌山から新庄藩に転入してきた桑山氏が善政を敷いたことに感謝して桑山の名を冠したと云います。

 これら以外にも沢山の薬種が大和にはあった訳ですが、そのほとんどが途絶えてしまいました。信者への頒布は慈善事業の一環でしたが、時代が降るにつれ総じて寺の経営が苦しくなり、商品経済が発達する中で何らかの対価を求める様になったのでしょう。近世の始まる以前から薬の販売は始まっていた模様で、寺院もその流れに乗り豊心丹のようなヒット商品が現れます。しかし、近代以降は法律上の問題もあるかと思いますが、結局時代の大きなうねりに乗り切れず寺院由来の薬は衰退してしまいました。それに取って代わったという訳では無いですが、陀羅尼助丸や三光丸といった民間薬が途絶えること無く今に伝わっていくのです。

  
全く関係ないですが、18日の初雪が初積雪の大荒れの天気。  年が変わるまでは「この冬一番の冷え込み」という表現は気にしないことにしていましたが、今年の寒波は一味違った。特に、金剛葛城山脈が有る為か、大和の国中の天気は桜井・橿原辺りを境界にして南北では全然違う気がします。 

豚の角煮

2009年12月26日 | 菓子作り、料理作り
 豚の角煮は年数回の贅沢というのか、冬の年の瀬になると作りたくなる。実際は材料費もスライス肉と比べてもグラムあたりでは安いものです。ただ、普段余り肉を食べない性質だからなのか、あの肉の塊は何故か無条件に贅沢と感じてしまいます。煮卵に始まって、色々なバリエーションが楽しめるからかも知れません。煮るところから始まって完成に二日、それから煮汁や出汁を利用して一週間は楽しめます。
 普通の鍋だけで作るとガス代が心配になる位煮続けないといけないので、圧力鍋を併用して作ります。逆に圧力鍋だけで作ると肉の臭みが籠って、肉に匂いが染み付く気がすることもありこの方法に落ち着きました。一晩置く事は出汁にしみ出た旨みを肉に戻す為なので、アク取りと同じくらい重要な工程です。

材料
豚バラブロック 800グラムから1キロ
ねぎの青いところ
生姜  半かけ皮付きで

第一日目
深めの鍋に豚肉を入れて、水をひたひたまで加える。ネギ、生姜も投入
煮立つまでは強火でアクを出し丁寧にすくう 沸騰したら弱火にしてコトコト煮込む 2、30分程で火を止め、涼しいところに一晩放置する  一日目終了
  


第二日目
肉を取り出し、一口サイズに切り圧力鍋に 出汁は濾しておく ラードも決して捨てない
  
 
酒 200㏄位と水を被るくらい入れて火にかける アクが出るようならすくい、しばらくしたら砂糖 100グラム位とみりんを入れ、少し煮てから醤油200cc弱とゆで卵を加える 後は圧力鍋の調理法に順ずる
   

圧力鍋では煮詰まらないので、一旦冷まして蓋を取ってから煮てもいいと思います。ということで白髪ネギを置いて完成です
  

応用編 ロールケーキとベイクドレアチーズケーキ

2009年12月19日 | 菓子作り、料理作り
 さて、いたって真面目に基礎のロールケーキが手際よく出来るようになったら、中のクリームをレアチーズケーキ風にしつつ、もう一品のベイクドレアチーズケーキを素材を互いに補完しながら作れるようにレシピを組み合わせてみました。

 ロールケーキの材料 
(生地)
卵       全卵3個と卵黄1個分 または全卵4個でも構わない
砂糖      60~70グラム メタボを気にしてかなり減らしている
小麦粉     70グラム  2回以上篩っておく
バター     10グラム
サラダオイル  10cc
牛乳      15cc
バニラオイル  少々

(クリーム)
クリームチーズ 100~80グラム 
ヨーグルト   80グラム
クリーム    100~80㏄
砂糖      25~30グラム
レモン汁    大さじ1~
粉ゼラチン   5グラム  湯に加えてかき混ぜる  
洋酒少々

 ベイクドレアチーズケーキの材料 6センチのセルクル5個分
クリームチーズ 150グラム フィラデルフィアなら250グラムから上記の残りの分
卵白      1個分 ロール生地の余りか、新たに使う場合余った卵黄はカスタードに
砂糖      45グラム
ヨーグルト   80~100グラム 上記の残り
クリーム    100cc 上記の残り
レモン汁    小さじ1~2

材料こんな感じ
  

先ずロール生地をつくる
  

出来た  
  

荒熱をとり冷ます。焼く時に二重に敷いた底のペーパを焼き面にかぶせ、生地をひっくり返して冷ますと焼き色がはがれない。焼き色をはがすとか考えられないしありえない この後ビニル袋に
  

次にクリームをつくる 生クリームを7分立てにする 砂糖は適当に二分する
  

クリームチーズにヨーグルト、レモン汁、砂糖を混ぜる
  

二つを合わせ、ゼラチン液を加えながら混ぜる
  

 冷蔵庫で冷やし固め、生地に塗る前にかき混ぜて弛める。生クリームよりも固いので巻く時にも流れずきれいに巻ける。レシピ通りだとクリームの量は多めになるのでたっぷり巻き込むか、チーズケーキの方の分量を多くしても良い。 今回緩くて少しはみ出た
  

 ロールケーキの美味しさはスポンジ生地にあると思います。そんな生地作りが覚束無い、安定しない時には、シンプル故にアラが目立つ生クリームより少し主張するレアチーズクリームで言葉は悪いけど誤魔化すのもありでしょう。
 ベイクドレアチーズケーキは次の機会に といっても何時投稿出来るかわからないので この組み合わせのポイントだけを書いておきます。
 ポイントは先に作ったロールケーキ生地をチーズケーキの下地に利用しようというものな訳です。他の材料も補完し合って余りが少ないようになっています。

 お菓子全般の基礎理論に必携の参考書(嘘、図書館で借りた)  「科学でわかるお菓子のなぜ?」

 ロ-ル生地について  河田昌子著  「スポンジケーキさえ上手に焼ければ」
 チーズケーキについて 石橋かおり著 「シンプルスタイルチーズケーキ」
以上から2つのレシピを参考に組み合わせました

ロールケーキ 基礎編

2009年12月16日 | 菓子作り、料理作り
 趣味の一つとしてお菓子作りがあるわけですが、うちにはハンドミキサが無かったために共立てのジェノワーズ生地を作る事を敬遠していました。メレンゲを手で立てるのが好きと言う単純な理由もありますが、別立てで出来るものを作る事が多かった。と言っても余り多くのレシピが自分に有る訳ではなく、ひたすら同じメニュを繰り返し作るというのが自分のスタイルで、そうやって身体で覚えるまで繰り返し続ける事で、新たに何か見えてくるものがあるだろうと考える訳です、例えば砂糖はどれ位まで減らせるだろうかとか。これは普通の料理にも共通する性質で、もしかしたら農業をするうちに身についたものかも知れません。
 最近流石に手立ては辛くなったので、安い電動ビータを買う事にしました。早速何度か作ってみてクセのようなものを掴もうとしていて、ブームも沈静化したロールケーキですがうちには今頃来てます。
 それにしても出来上がりの生地が手立てと全然違うのに驚いてしまいます。電動ビータのほうが力強くて、とにかく速く出来て楽なのですが、焼いた時の膨らみ具合や生地の肌理の細かさとしっとり感は何故か手立ての方が良いのです。途中まではビータのほうが良い位ですから、最後に泡の肌理を整える工程に問題があるのでしょうか。砂糖を控えすぎというのが一番問題でしょうが、グラニュー糖を上白糖に変えたり、牛乳を加えたりとやってみましたがまだ追いつかない、と言っても一応及第点ではあります。

  
 湯煎にかけて卵を崩したら、砂糖を入れてかき混ぜ始めます。

  
 泡立て初めて直ぐは気泡も粗く色も黄味がかっている。とにかく大きく、強く泡立てる

  
 これ位が限界です。ワイヤが12本以上あるものを持っておいたほうがいいのかもしれません。泡は細かくなり生地もクリーム色を呈しています。上から垂らしてリボン状に重なりながらゆっくり消えていくと良いらしいですが、これはその少し手前と言ったところでしょう。細かい気泡をどれだけ生地に混ぜ込むかが膨らむかどうかの分かれ道です。以降の工程は気泡を潰してしまいますので、ここでしっかり泡が形成されていれば一つ目のポイントはクリアできます。この状態を100とするならば、粉類でマイナス10、油脂類でマイナス15には必ずなるものと考え、それ以下にならぬよう注意をする。
 その粉類、油脂類を生地に混ぜ込む工程ですが、悠長に写真なんぞ撮ってられません。スパチュラを切る様にではなくしっかりと大きく底から混ぜ込むこと40回とプラスα。混ぜすぎると小麦粉のグルテンが形成され途端に生地が重く感じられ、バッドエンドとなります。
 その次に、泡を更に潰してしまう油脂類を混ぜ込みます。油脂類は温めて流動性を高めておき、そちらに生地を少し加えて捨て生地にして十分に混ぜてから、生地側に戻して30回、筋が消えるまで底から混ぜ込みます。

  
 流し込んだ時の生地の広がり具合でも成功か失敗かは分かります。あればカードで端まで生地を広げ、一度天板を軽く打ち付けて荒い気泡を抜きます。

  
 予熱したオーブンで200度12分位 焼き色の付いた生地が出来上がる。冷ましている間に中のクリームを作ります。

  
 焼き色の付いた方が好きなのでそちらを表にし、裏に硬めに立てたクリームを塗って、巻いていきます 完成図は忘れた

中将姫と中将湯

2009年12月11日 | 和州独案内
 中将姫と言えば彼女が当麻寺において天人の助けを受け、蓮の糸をつかって一夜にして織り上げたと云われる當麻曼荼羅が有名ですが、その話はまたの機会に置いておくとして、中将姫に纏わる話の中で一番気になっていたことを書いてみたいと思います。
 中将湯を知っている世代といえば五、六十代より上になるのでしょうか、宇陀出身の津村重舎が母方の実家に伝わる、中将姫にその製法を教わったという薬湯を世に売り出したのが1893年、中将湯本舗津村順天堂(現ツムラ)を日本橋に設立したのが始まりです。

 彼の母方の実家と言うのが宇陀の藤村家で、当家が中将姫を匿った青蓮寺の檀家であったために薬湯の製法を教えられたという。ウィキ先生にあるくらい周知の話だからなのかこの話題を余り目にしたことがありませんが、中将湯を知らなかった世代としてはこれは結構衝撃的な話でした。伝説上の人物中将姫に纏わる事が身近な企業の創設に関わっていたなど思いもよりません。

  
 大和の薬の代名詞と言えば陀羅尼助でしょう、奈良検定でもこれまで陀羅尼助の問題しか出題されたことが無かったはずです。もっとたくさんの伝統的な薬があるのに何故だろうか、と言うことは今後出題される可能性はあるという事なのでしょう。
 陀羅尼助は修験の一大地洞川で盛んに製造されていたことは誰もが知っていますが、役ノ小角が修行をしていたという事から、中将姫の伝説を持つ当麻寺でも陀羅尼助が製造されていた事は余り知られていません。
 洞川との間で本家争いを起こしたこともあり、大峰のそれは陀羅助と呼び、当麻寺中之坊は陀羅尼助と呼んで区別し解決を図ったなどという逸話もあります。中将姫にかけて当麻寺の方は尼を残し、大峰の修験は男だけの女人禁制なので尼を除いたという駄洒落で、実話かどうかはあやしいですが。

 今はもう無いがかつては陀羅尼助と肩を並べ、それ以上に流行したのが西大寺の豊心丹です。豊心丹は1242年西大寺の叡尊が四条天皇の命を受け疫病退散の祈願した折、満願の夜に神明の感応があり創製したと伝えます。その豊心丹がおそらく最も売れたのが、1692年(元禄五)の大仏開眼供養の時と、前年の大仏殿上棟式の時でしょう。
 松永久秀の焼き討ちから再興まで二百年をかけた世紀の大イベントは、20万人近くの老若男女を集め、生駒の暗峠まで人の波が途切れなかったという程の賑わいでした。その人々がこぞって買い求め、西大寺が一山を挙げて朝に造ったものが昼には売り切れてしまうほどの人気だったといいます。
 そんな訳で、一躍有名になった豊心丹を騙る偽物や類似品が出回るようになり、奈良町に今も残る老舗薬局の菊岡家に対しても販売差し止めの訴訟を起こしています。西大寺竜池院・一ノ室が、菊岡家の豊心丹は「似せ薬」だとの主張に対し、当の菊岡家は創始者の叡尊が菊岡家の出であるから、製法が伝わっていてもおかしくないと反論しました。
 裁判の結果は古くから販売してきた事を考慮し、菊岡家の販売を認めるが、これまでの「西大寺豊心丹菊岡」ではなく「伝来豊心丹菊岡」と西大寺の名を除く形で販売することで決着した。結果菊岡家は豊心丹の製造販売が正式に認められたことになります。
 裸地蔵で有名な率川の伝香寺でも豊心丹は製造されていましたが、こちらは名前は同じでもその由来は異なるもののようです。伝香寺の豊心丹は、明の鄭舜功から管領畠山義忠に伝えられたものが、義忠と親しかった筒井順昭に伝わり、筒井家の菩提寺である伝香寺に授けられたということです。 
    つづく

おまけ
二級問題
西大寺で製造販売された薬の名は
①反魂丹
②和中丸
③万金丹
④豊心丹

一級問題
御所中嶋家に伝来した薬の名は
①天狗蘇命散
②三光丸
③紫微垣丸
④香蘇散

ソムリエ問題
薬とそれを製造した寺院の正しい組み合わせを選べ
①影現寺と仙方施神丸
②金剛山寺と地蔵丸
③慶雲寺と開心丸
④元興寺と護命丸

我が心の竜王淵

2009年12月04日 | 和州独案内
   
 
 大和富士の別名を持つ額井岳、それに連なる戒場山の中麓に佇む竜王淵は、知る人ぞ知る小さくも美しい湖です。折々の季節に違った顔を見せてくれるこの淵ですが、特に秋は後ろに控える戒場山の紅葉が映えて殊更美しく感じます。行った時は既に葦が冬枯れの様子で、天候も悪く寒々しい感じでしたが、晴れた日であればキリりと澄んだ冬の空気がとても心地よいですし、もちろん新緑の頃の緑のグラデーションも良いものです。
 この竜王淵の一番の魅力は、奈良には珍しく足元と水面が同じ高さで眺められるという、とても新鮮な感覚を味わえるところでしょう。言ってる意味が分からないかも知れませんが、一度この湖の水際に立ってみれば、淵と一体となった様な不思議な感覚を実感できると思います。思わず水面に足を一歩踏み出したくなり、そのまま浮けるんじゃないかと錯覚をしてしまいます。丁度カヌーで水面を滑るような感じでしょうか。
 戒場山からの天水で出来たこの湖は、周囲半キロに満たない小さなものですが、それが箱庭的な美しさとなっています。近年整備の手が入り、護岸が整備されたりと少しばかり興ざめの感もありますが、それでもなおその箱庭的な美しさは色褪せません。
 戒場の集落も奈良らしからぬ、戒場山の中麓に張り出したテラス状の土地で、下界から隔絶したこれぞ隠れ里と呼ぶにふさわしい感がありますが、当の住人にしてみれば別に隠れてもないしと言われそうです。竜王淵は戒場に属するのではなく隣村の向淵に所在します。

  

 集落の向淵(むこうじ)の名の通り、この淵ともう一つの飯降淵が対になってあったために向淵の名が付いたといわれています。この淵に纏わる伝説は色々ありますがそのひとつを紹介します。
 この地の目代の男が淵を歩いていたところ、二人の乙女が水浴びをしている所に出くわしました。美しい姿に驚いた男は、思わず乙女の衣を掴んで二人の前に出て行きます。そうすると乙女は「私は人界のものではない。この淵は穢れを知らず、遠くインドの善女竜王宮に通じており、時折水浴びに来ていたが、人に見られてはもうここに居れない、何とも残念なことよ」と言って靴も履かずに飛び去ってしまったという、それ以来この淵を履ぬぎ池と呼んだといいます。

  

 面白いのはこの淵の直ぐ脇にある雑木林から、縄文式土器や石器が大量に出土している事です。比較的山間部にその痕跡を残す縄文人ですが、この場所も目聡くと云うか見つけ出していた訳です。何より大切な水に恵まれ、ぽっかりと広がる平らかな空間は生活するのにはもってこいで、彼等もきっと安心できる場所をみつけていたのでしょう。この雑木林は、今は原木のシイタケ栽培をやっているのかやってないのか良く分かりませんが、一昔前は酪農の放牧地として利用されていたそうです。杉や檜が悪いとは思いませんが、この湖の周囲がすべて落葉広葉樹で囲まれていたら、鏡のような湖面に映る紅葉はどんなに美しいだろうかと考えてしまいます。


  

 さて、そんな竜王淵の一番奥まった所にあるのが堀越神社です。740年八月に起きた藤原広嗣の乱を契機に、聖武天皇の約二ヶ月の東国への行幸が、出発点を平城京にして始まるのですが、その一つ目の頓宮(仮宮)が「堀越頓宮」です。その堀越頓宮をこの地に充てる説があります。しかし、残念ながら旧都祁村にある四つの水分の一つ、都祁水分神社が鎮座する友田には小字堀越の名が残っており、こちらを堀越頓宮に充てる説が大勢です。聖武天皇の一行は堀越のあと、名張郡を経て次に伊賀の阿保頓宮に向かいましたから、別にここを伝承地としても構わないでしょう。平城京から東山中を斜行する「都祁山之道」を利用したとしても両地を通過しますが、都祁の中心地ということでは友田の方が妥当なのかも知れません。
  伝承によると、聖武天皇が即位をした、神亀元年平城京の周りを金色の光が飛び、これを奇瑞と臣下にその光の行方を捜させます。探し続けてついに向淵の高堂山に至り金色の鷹を発見し、天皇はその山を鷹飛山と名づけたと云います。聖武とこの地の少なからぬ縁を感じますが、この奇瑞自体は、元号の神亀や「天平貴平知百年」と質を同じくするもので、演出あるいは捏造の類と言って良いのでしょう。
 ふらふらと彷徨う聖武天皇の心中に何が宿っていたのか、その足取りが天武天皇の壬申の乱での経路と似通ってると言う指摘はあります。この系譜が天武を遠祖ならぬ近祖として意識していたことは、正倉院の赤漆文欟木御厨子の由緒を知れば理解できると思います。天武の持ち物だった一見地味な厨子は、その後持統から文武へ、そして譜外の元明には渡らずに元正と伝えられ、聖武から孝謙女帝へ渡り正倉院に入って今に伝えられたのです。その系譜への固執が娘の阿倍内親王を女性でありながら立太子させるという異例の事態を招き、後継問題の後戻りできぬ袋小路へ進まざるを得なくさせたといえるのでしょう。