和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

地獄谷へ

2011年03月19日 | 和州独案内
 少しばかり雪が残る春日山遊歩道、木々に残った雪が陽に溶かされて大粒の雨のように降り注ぐ中、地獄谷石窟仏を目指してみました。が、途中時間切れで断念、違う日に改めて行ったりしたので、画像の様子が変わるかもしれませんが気にしないで見て下さい。

 
 春日原始林遊歩道をこちらから登るのは記憶に無いほどに久しぶりなので、中々新鮮な感じがする。
 
 「五色の紅葉」とは初耳ですが、反対の「洞の紅葉」と丁度対になっているのでしょう。しばらく歩くと詰所のある広場に出て、そこを過ぎると御神山の御蓋山への分岐に差し掛かる。
 
 妙見宮は余り足が向かない場所で、中に入った記憶が無い。
 
 今回は雨垂れをしのぐ為に堂の軒を借りて、少しばかりの休憩を取ることに。お礼に賽銭を入れておく。
 この分岐でそのまま道なりに進むか、あるいは谷筋に下まで降ると滝坂道の入り口付近まで戻ってしまいます。かなり歩いたはずなのに、殆ど入り口の場所に戻るのは余り考えたくないですが、山房道いわゆる滝坂の道から朝日観音等を見る場合は降ると良いかも。
 
 首切り地蔵で小休止をする。トイレと東屋があるので助かります。
 
 今回はこの高山神社(コウゼン)を見ておきたかったので、遊歩道のルートを選びました。この辺りは能登川と佐保川の水源に当たり、「延喜式」神名帳にある鳴雷神社(ナルイカヅチ)に比定される春日地方の水神信仰の中心地がここです。社から山に分け入った所には、天平勝宝年間に既に記された山房の香山堂跡があり、のちに山腹を五段に整地して堂宇を並べるまでに隆盛しますが廃絶してしまいました。これを早世した聖武天皇長子の基王の菩提を弔うために神亀五年建立した山房に充て、薪薬師寺が高薬寺とも呼ばれたように香山薬師堂との関係を重視するのか、あるいは神亀五年の山房を金鍾山房に充て、それが東院地区に発展する東大寺との関連付けをするのか議論があるところです。
 ここから花山詰所→石切峠茶屋手前→地獄谷石窟→ドライブウェイ→春日山石窟→ドライブウェイ北行と無駄に体力を削がれました。地獄谷石窟を目指す場合は、一番南よりの地獄谷池のルートを標識どおりに選択するのが余計な体力を使わずにすむのだと思います。春日山石窟も地獄谷を回った後、奥山ドライブウェイに復帰してから直ぐに立ち寄ることができます。
 
 地獄谷というのはこの辺りの事を指して呼ぶのでしょう、尾根から急降下した谷底は赤錆びた土肌が露出しており、何とも不気味な感じがします。石窟はと言うと、この数分で通り過ぎる谷底から随分上がった山の西面にあるので、地獄谷石窟という名前はどうも勘違いをしてしまいます。
 
 ようやくと着いた石窟は、ドライブウェイからはかなり近いのでそちらからのルートが望ましい。見ての通り応急処置的ではありますが、春日山石窟同様に隔離の処置がなされているのは、侵入して傷つける輩を防ぐためなのでしょう。
 
 表面の彩色は本当に作成当時のものなのか、単に鉄の成分が沁み出し苔むしているようにも見えますが、頭の螺髪部や体部の色分けはやはり彩色が残っているのだと思います。
 中央に阿弥陀あるいは舎那仏が蓮華座に座り、向かって右側に十一面観音、左に薬師如来が線刻されている。
  
 地獄谷石窟は俗に聖人窟と呼ばれ、西面した山腹の凝灰岩を繰りぬいて造られている。南窟は何が刻まれているのかの判別も出来そうに無い。
 次に続くかも



 
 少し気になった事に、ドライブウェイと周遊道の修繕のために入れられている砂利に、ブルーシート切れが大量に混入している事です。どう考えても悪意を持ってのこととしか思えません。安く上げるためなのか、ゴミ混じりのガラ砂利をこの自然豊かな聖地に入れるなど許されるものではありません。こんなモラルの低い事をするなんて、一定期間入札停止等の措置をとるべきじゃないかと思います。

 それと無意味かも知れませんが この度の地震と津波で亡くなられた方々のご冥福と、被災した人達の早い救出と復興を石仏たちに祈ってきました。
 そして福島原発が少しでも早く安定するように、今も懸命の作業をされているであろう現場職員や自衛隊員に心からの応援と感謝を致します。
 東電への批判や不信(もちろん現政権への批判も)、あるいは今後の原発のあり方についての議論は、事態が収束してからでも全然遅くないのではないでしょうか。今はただ一刻も早く事態が収束する事を心より願うばかりです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。