今更ですが、昨年末にあった纏向遺跡の説明会には一応参加してきました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/1e/887ef4379ab94b40f38eae738d5b504b.jpg)
大勢の中に刈谷氏の姿もありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/b7/64d7d5fda19867220aa2fedd9322d251.jpg)
自分は車組だったので、全く待たされずに現地に行くことができました。説明が終わって駅のほうを見てみると凄い数の人たちが道の途中で待たされているのが見えたのには驚き、別にズルをした訳でもないのにちょっと心が痛んだ瞬間でした。
弥生時代の遺跡の中でも最も広い空間を持つ、将に正殿にふさわしい建物が、東西軸に軸線を付属施設と一致させながら建てられたという、明確なプランに基づいて構成された遺跡群の画期的な発掘であった事は良く分かりました。
しかし、唐古・鍵遺跡のような弥生期を代表する遺跡の整備すら十分に出来ない現状では、更に規模が大きく一キロ超四方にも及ぶとされる纏向遺跡をどうにもやりようが無いのは明らかです。数百戸の実際生活されている方々がその範囲にいて、この遺跡も民家に隣接した狭い区画を何とか発掘できたものなのでしょう。当地の所有者が自然農法で有名な川口氏だったのには、テレビで見ていてリアルに噴いてしまい、完全に仙人然とした見た目にも俗人としては笑ってしまいました。いずれにせよこの遺跡の行く末はどのようなものになるのでしょうか?
真西にある纏向石塚古墳、勝山、矢塚等々他に見るべきものは多いのですが、ウォークラリーでもない限り日に、二、三組の旅行者を見る位でほとんど見向きもされません。吉野ヶ里遺跡程まで整備してようやく一般の観光客が足を止めるのでしょうが、考古学と観光振興そして日常の生活の折り合いみたいなものは難しいものです。
それにしても、弥生時代を学ぶ上での最大の鬼門は何といっても時代区分に尽きます。土器形式の編年に地域差があることは当然ですし、学者間の見解の相違により時代区分に違いが生じるのも致し方無いにしろ、我々素人は黙って受け入れるしかなく、それでも理解が追いつかない頭の痛い話です。
加え03年に公表されたAMS炭素14年代測定法の新しい結果により、弥生時代は一気に500年ほども遡ってしまいました、呆然・・・。なので03年以前に書かれた本は脳内で補正の必要がありますし、以降のものでも反対の立場を取る著書があるので同様に注意が必要です。
だが、これはもしかしたら弥生時代を学ぶ上で良い機会になるのかもしれません。これまでの土器様式はその前後の相対的関係を知る事は出来ても、個々の様式の年代幅を決定する事は出来ず、どこかもやもやしたものが残りました。
炭素14年代測定法の結果500年近く全体の幅が(特に前期が)引き伸ばされる事になりましたが、土器編年の時間順序を乱すことはありませんでした。結果的に、今までの土器編年研究の正しさ証明することにもなり、更に近年脚光を浴びる年輪年代測定法の分析結果とも年代が合致する事からも、お互いの年代測定の確かさを担保しあっています。
AMS炭素14年代測定法により出された実年代の物指しでは、北部九州においてBC950年代が弥生時代の早期の始まりとしており、これまで縄文後期とされた山の寺式(曲り田式)とそれに続く縄文晩期あるいは弥生早期とされていた夜臼Ⅰ式土器がそれぞれ弥生早期の前期、後期に充てられています。
弥生時代前期の実年代はBC810年あるいはBC780年(板付Ⅰ式)に、中期の実年代はBC350年より開始されるとしています。
これまで縄文時代に充てられた土器編年の夜臼式のみならず山の寺式までもが弥生期に組み込まれたことは、それじゃあ縄文や弥生ってのは何を持って言っているのか?という素朴な疑問に繋がります。かつて言われた「稲作の伝播と受容、定着による文化様式の変化と鉄器の利用」といったものも、鉄器の列島における利用が弥生中期以降遡らないことが判り、残すは水田稲作の開始と受容の方を如何に考えるかになりそうです。
しかし、それじゃあ水田稲作の伝播と受容とは何なのか?という次の素朴な疑問に答えなければなりません。水田遺構の出土は勿論、灌漑施設の有無や稲花粉の増加にプラントオパール、炭化米の出土など佐賀県の菜畑遺跡を考えると見えてくるものはありますが、これまで言われてきたように稲作が日本列島を席巻し、大きく社会や文化を変えたという論はもはや成り立たないものになっています。という話はまた別の機会に置いて纏向遺跡の話に戻りましょう。
纏向遺跡における実年代の資料は、石塚古墳周濠部から出土したヒノキの木製品がAD177年プラス辺材部18年のAD195年となります。辺材部の年代の加算に議論の余地はありますが、勝山古墳でもAD210年を降らない資料が出土しており三世紀初に集中しています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/66/4ad8a9442dfbee8262c429470ba07a2b.jpg)
纏向石塚古墳
邪馬台国の畿内説、九州説って何なのでしょうね。流石に法隆寺再建・非再建論争のように学閥やら感情論で擁護反論することは無いのでしょうが、マスメディアひいては私たち素人が騒ぎすぎているのかも知れません。
卑弥呼の女王共立が183か4年に、そして247年に狗奴国との戦争状態に陥り魏朝に救援を訴えた後直ぐに亡くなります。邪馬台国が何処にあるかは別にして、卑弥呼の時代は弥生時代というよりも古墳時代といったほうが良いように思えます。
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大勢の中に刈谷氏の姿もありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/b7/64d7d5fda19867220aa2fedd9322d251.jpg)
自分は車組だったので、全く待たされずに現地に行くことができました。説明が終わって駅のほうを見てみると凄い数の人たちが道の途中で待たされているのが見えたのには驚き、別にズルをした訳でもないのにちょっと心が痛んだ瞬間でした。
弥生時代の遺跡の中でも最も広い空間を持つ、将に正殿にふさわしい建物が、東西軸に軸線を付属施設と一致させながら建てられたという、明確なプランに基づいて構成された遺跡群の画期的な発掘であった事は良く分かりました。
しかし、唐古・鍵遺跡のような弥生期を代表する遺跡の整備すら十分に出来ない現状では、更に規模が大きく一キロ超四方にも及ぶとされる纏向遺跡をどうにもやりようが無いのは明らかです。数百戸の実際生活されている方々がその範囲にいて、この遺跡も民家に隣接した狭い区画を何とか発掘できたものなのでしょう。当地の所有者が自然農法で有名な川口氏だったのには、テレビで見ていてリアルに噴いてしまい、完全に仙人然とした見た目にも俗人としては笑ってしまいました。いずれにせよこの遺跡の行く末はどのようなものになるのでしょうか?
真西にある纏向石塚古墳、勝山、矢塚等々他に見るべきものは多いのですが、ウォークラリーでもない限り日に、二、三組の旅行者を見る位でほとんど見向きもされません。吉野ヶ里遺跡程まで整備してようやく一般の観光客が足を止めるのでしょうが、考古学と観光振興そして日常の生活の折り合いみたいなものは難しいものです。
それにしても、弥生時代を学ぶ上での最大の鬼門は何といっても時代区分に尽きます。土器形式の編年に地域差があることは当然ですし、学者間の見解の相違により時代区分に違いが生じるのも致し方無いにしろ、我々素人は黙って受け入れるしかなく、それでも理解が追いつかない頭の痛い話です。
加え03年に公表されたAMS炭素14年代測定法の新しい結果により、弥生時代は一気に500年ほども遡ってしまいました、呆然・・・。なので03年以前に書かれた本は脳内で補正の必要がありますし、以降のものでも反対の立場を取る著書があるので同様に注意が必要です。
だが、これはもしかしたら弥生時代を学ぶ上で良い機会になるのかもしれません。これまでの土器様式はその前後の相対的関係を知る事は出来ても、個々の様式の年代幅を決定する事は出来ず、どこかもやもやしたものが残りました。
炭素14年代測定法の結果500年近く全体の幅が(特に前期が)引き伸ばされる事になりましたが、土器編年の時間順序を乱すことはありませんでした。結果的に、今までの土器編年研究の正しさ証明することにもなり、更に近年脚光を浴びる年輪年代測定法の分析結果とも年代が合致する事からも、お互いの年代測定の確かさを担保しあっています。
AMS炭素14年代測定法により出された実年代の物指しでは、北部九州においてBC950年代が弥生時代の早期の始まりとしており、これまで縄文後期とされた山の寺式(曲り田式)とそれに続く縄文晩期あるいは弥生早期とされていた夜臼Ⅰ式土器がそれぞれ弥生早期の前期、後期に充てられています。
弥生時代前期の実年代はBC810年あるいはBC780年(板付Ⅰ式)に、中期の実年代はBC350年より開始されるとしています。
これまで縄文時代に充てられた土器編年の夜臼式のみならず山の寺式までもが弥生期に組み込まれたことは、それじゃあ縄文や弥生ってのは何を持って言っているのか?という素朴な疑問に繋がります。かつて言われた「稲作の伝播と受容、定着による文化様式の変化と鉄器の利用」といったものも、鉄器の列島における利用が弥生中期以降遡らないことが判り、残すは水田稲作の開始と受容の方を如何に考えるかになりそうです。
しかし、それじゃあ水田稲作の伝播と受容とは何なのか?という次の素朴な疑問に答えなければなりません。水田遺構の出土は勿論、灌漑施設の有無や稲花粉の増加にプラントオパール、炭化米の出土など佐賀県の菜畑遺跡を考えると見えてくるものはありますが、これまで言われてきたように稲作が日本列島を席巻し、大きく社会や文化を変えたという論はもはや成り立たないものになっています。という話はまた別の機会に置いて纏向遺跡の話に戻りましょう。
纏向遺跡における実年代の資料は、石塚古墳周濠部から出土したヒノキの木製品がAD177年プラス辺材部18年のAD195年となります。辺材部の年代の加算に議論の余地はありますが、勝山古墳でもAD210年を降らない資料が出土しており三世紀初に集中しています。
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纏向石塚古墳
邪馬台国の畿内説、九州説って何なのでしょうね。流石に法隆寺再建・非再建論争のように学閥やら感情論で擁護反論することは無いのでしょうが、マスメディアひいては私たち素人が騒ぎすぎているのかも知れません。
卑弥呼の女王共立が183か4年に、そして247年に狗奴国との戦争状態に陥り魏朝に救援を訴えた後直ぐに亡くなります。邪馬台国が何処にあるかは別にして、卑弥呼の時代は弥生時代というよりも古墳時代といったほうが良いように思えます。