和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

纏向遺跡

2010年03月28日 | 和州独案内
 今更ですが、昨年末にあった纏向遺跡の説明会には一応参加してきました。

  

 大勢の中に刈谷氏の姿もありました。
  

 自分は車組だったので、全く待たされずに現地に行くことができました。説明が終わって駅のほうを見てみると凄い数の人たちが道の途中で待たされているのが見えたのには驚き、別にズルをした訳でもないのにちょっと心が痛んだ瞬間でした。

 弥生時代の遺跡の中でも最も広い空間を持つ、将に正殿にふさわしい建物が、東西軸に軸線を付属施設と一致させながら建てられたという、明確なプランに基づいて構成された遺跡群の画期的な発掘であった事は良く分かりました。
 しかし、唐古・鍵遺跡のような弥生期を代表する遺跡の整備すら十分に出来ない現状では、更に規模が大きく一キロ超四方にも及ぶとされる纏向遺跡をどうにもやりようが無いのは明らかです。数百戸の実際生活されている方々がその範囲にいて、この遺跡も民家に隣接した狭い区画を何とか発掘できたものなのでしょう。当地の所有者が自然農法で有名な川口氏だったのには、テレビで見ていてリアルに噴いてしまい、完全に仙人然とした見た目にも俗人としては笑ってしまいました。いずれにせよこの遺跡の行く末はどのようなものになるのでしょうか?
 真西にある纏向石塚古墳、勝山、矢塚等々他に見るべきものは多いのですが、ウォークラリーでもない限り日に、二、三組の旅行者を見る位でほとんど見向きもされません。吉野ヶ里遺跡程まで整備してようやく一般の観光客が足を止めるのでしょうが、考古学と観光振興そして日常の生活の折り合いみたいなものは難しいものです。


 それにしても、弥生時代を学ぶ上での最大の鬼門は何といっても時代区分に尽きます。土器形式の編年に地域差があることは当然ですし、学者間の見解の相違により時代区分に違いが生じるのも致し方無いにしろ、我々素人は黙って受け入れるしかなく、それでも理解が追いつかない頭の痛い話です。
 加え03年に公表されたAMS炭素14年代測定法の新しい結果により、弥生時代は一気に500年ほども遡ってしまいました、呆然・・・。なので03年以前に書かれた本は脳内で補正の必要がありますし、以降のものでも反対の立場を取る著書があるので同様に注意が必要です。
 
 だが、これはもしかしたら弥生時代を学ぶ上で良い機会になるのかもしれません。これまでの土器様式はその前後の相対的関係を知る事は出来ても、個々の様式の年代幅を決定する事は出来ず、どこかもやもやしたものが残りました。
 炭素14年代測定法の結果500年近く全体の幅が(特に前期が)引き伸ばされる事になりましたが、土器編年の時間順序を乱すことはありませんでした。結果的に、今までの土器編年研究の正しさ証明することにもなり、更に近年脚光を浴びる年輪年代測定法の分析結果とも年代が合致する事からも、お互いの年代測定の確かさを担保しあっています。
 AMS炭素14年代測定法により出された実年代の物指しでは、北部九州においてBC950年代が弥生時代の早期の始まりとしており、これまで縄文後期とされた山の寺式(曲り田式)とそれに続く縄文晩期あるいは弥生早期とされていた夜臼Ⅰ式土器がそれぞれ弥生早期の前期、後期に充てられています。
 弥生時代前期の実年代はBC810年あるいはBC780年(板付Ⅰ式)に、中期の実年代はBC350年より開始されるとしています。

 これまで縄文時代に充てられた土器編年の夜臼式のみならず山の寺式までもが弥生期に組み込まれたことは、それじゃあ縄文や弥生ってのは何を持って言っているのか?という素朴な疑問に繋がります。かつて言われた「稲作の伝播と受容、定着による文化様式の変化と鉄器の利用」といったものも、鉄器の列島における利用が弥生中期以降遡らないことが判り、残すは水田稲作の開始と受容の方を如何に考えるかになりそうです。
 しかし、それじゃあ水田稲作の伝播と受容とは何なのか?という次の素朴な疑問に答えなければなりません。水田遺構の出土は勿論、灌漑施設の有無や稲花粉の増加にプラントオパール、炭化米の出土など佐賀県の菜畑遺跡を考えると見えてくるものはありますが、これまで言われてきたように稲作が日本列島を席巻し、大きく社会や文化を変えたという論はもはや成り立たないものになっています。という話はまた別の機会に置いて纏向遺跡の話に戻りましょう。

 纏向遺跡における実年代の資料は、石塚古墳周濠部から出土したヒノキの木製品がAD177年プラス辺材部18年のAD195年となります。辺材部の年代の加算に議論の余地はありますが、勝山古墳でもAD210年を降らない資料が出土しており三世紀初に集中しています。
 
  
                          纏向石塚古墳

 
 邪馬台国の畿内説、九州説って何なのでしょうね。流石に法隆寺再建・非再建論争のように学閥やら感情論で擁護反論することは無いのでしょうが、マスメディアひいては私たち素人が騒ぎすぎているのかも知れません。
 卑弥呼の女王共立が183か4年に、そして247年に狗奴国との戦争状態に陥り魏朝に救援を訴えた後直ぐに亡くなります。邪馬台国が何処にあるかは別にして、卑弥呼の時代は弥生時代というよりも古墳時代といったほうが良いように思えます。

何か来た

2010年03月12日 | Weblog
 今回、奈良検定事務局より送られてきたものは、ピンバッジと何とソムリエ合格者に社寺拝観料免除の検討をしているとのお知らせでした。バッジもうれしいのですが拝観料免除の特典はうれし過ぎます。余り期待はし過ぎないほうがいいのかもしれませんが、期待してしまう。もっと早くこれを知らせてくれればより本気を出したのに(笑)

  

スモークサーモン

2010年03月06日 | 菓子作り、料理作り
 スモークサーモンは混乱している。というか私が混乱している。スモークサーモンの基本は冷燻のはずなのに、温燻やら熱燻が混在して訳がわからない、まあ自分は冷燻しかしないのですが、いずれきちんと作り方をまとめてみたくもあります。それにしても何だか食べ物の話ばかり書いている気がしないでもないが、料理でお茶を濁しているのは明らかですね  それではどうぞ

 ソミュール液に一日漬け込み、数時間水で塩抜きする。冷蔵庫で水気を切り、翌日の燻に備える。




三時間を1セットで冷却して終了。もうワンセット翌日してみるのも今後の課題に


 味は売ってるやつとホントに変わらないので一応正解なのでしょうか、一部生臭さが残る感じがするのはマイナスとしても本当に普通なんです。ベーコンは利用頻度が高いのもあってずっと作り続けたい感じですが、サーモンは少し考えますね。少なくとも現状では人に食べさせるレベルにはなってない気がします。と言って独り占めしている訳ではありません。でもまあ、スモークサーモンがこんなに長く食べられるのは自家製だからかも知れませんからありがたい話です。

 そんなスモークサーモンを一番簡単においしく食べられるのは、やはりベーグルアンドロックスでしょう。ここのところベーグルをせっせと作っていたのでもう手馴れたものです。クリームチーズは重いので無しという事でマーガリンだけ塗って、そのほかの具も何も無しですが十分なんです。感動するものではないが普通に美味しいと言っておきましょう。

 
プレーンベーグル基本の分量
 強力粉 250グラム
 薄力粉  50グラム
 牛乳  200㏄以下(季節による)
 砂糖  小さじ2
 塩   小さじ1
 ドライイースト 3グラム
 
 それにしてもベーグルを作り始めると他のパンが食べられなくなる。出来立ての熱々の美味しさは勿論、冷めてからはそれ程美味しいと言う訳では無いのに妙にクセになります。何より、ベーグルには甘いものが全く合わないのがいいですね。その代わり油っこい重いものと合い過ぎるので結局同じようなものですが