和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

その四のつづき

2011年06月04日 | 農と歴史のはなし
コメについてもう一度考える

 件の1993年の大凶作におけるタイ米への反応を見ても、日本人が(もちろん自分も含めて)如何にコメというものに対して無知無識であるかが分かったのではないでしょうか?およそ日本国内で栽培されているコメの9割以上がジャポニカ米の短粒種であり、コシヒカリが良いとなれば猫も杓子もコシヒカリ、魚沼産が良いとなればまたぞろそればかりが持て囃されるという風に。でも実は奈良県などではヒノヒカリが作付面積で一位の約7割も作られていたりする事は余り知られていません。県の推奨米なので作付けが多いのはある意味当たり前で、西日本のしかも盆地の登熟期に高温が続く栽培環境では理に適った選択です。とは言え、このヒノヒカリもコシヒカリの系統であることは違いないのですが。 

 ここから少し、いやかなり話が変わりますが、稲作や米に関する共通認識を持つためにも基礎的な事項を整理しておいたほうが良いのだと思います。詳しくは佐藤洋一郎氏等の本を見てもらえば大体済む話ではありますが、ここは自分自身の認識を確認するためにも書いておきたいと思います。
 あの時輸入されたタイ米がインディカ米だったと言うことはもはや多くの人が知っていることで、自分の口には入りませんでしたが、初めてインディカ米というものを食べたという方も多かったと思います。パサパサして変な臭いがするというのが敬遠された主な理由ですが、全世界での流通量を考えるとインディカ種のほうが多く流通しており、ジャポニカ米の短粒種を好む日本人は相対的にマイナーな存在になります。匂いに関してもインディカ種の「香り米」と呼ばれる品種群は世界的に有名で、インドのバスマティーやタイのカオホムマリは最高級のインディカ米として例えばコシヒカリよりも世界に名を知られています。

 では、日本人はインディカ米にあの時初めて出会ったのでしょうか?答えはもちろん違い、比較的近い過去に忘れてしまったのです。
 近い過去とはやはり明治時代になります。それまではごく当たり前に一定の割合でインディカ米も作付けされていたことが知られ、特に長粒種の「大唐米」と呼ばれた「赤米」はその代表的のものでした。耐寒性の強い大唐米は容易に越冬して、野良稲、雑草化してしまうために徹底して駆逐されましたと言いたいところですが、一部地域では今も雑草化して残っているそうです。
 そもそもこの「大唐米」あるいは占城(チャンパ)米と呼ばれたコメは、中国大陸から十二、三世紀頃に請来され、以降、日本列島において一定の割合で作られるようになります。その特徴は寒さにも暑さや旱害にも強い、しかし味は悪く脱粒性も強くて風が吹いただけでも種が落ちるというものでした。
 つまり、味やらはさて置いて、旱害や冷害、虫害などの不良環境には滅法強い品種であった事が受容された一番の理由で、謂わば飢饉の予防装置としての役割を果たしたのです。
 中国大陸からもたらされた為に大唐米と呼ばれたのですが、もとより中国大陸では十一世紀、北宋の時代に頻繁した飢饉に対応する為に、皇帝自らの命で主に占城(チャンパ今のベトナムに位置する)で栽培されていた早生のインディカ米を導入させた事に始まります。それが占城米と呼ばれる所以で、中国大陸ではそれまでの主流の短粒種を禾更(コウ)、それと区別して禾山(セン、文字化けするのでこのようにしています)と呼ぶようになりました。
 そんな大唐米は籾に芒(ノギ)の無い姿からボウズ頭を連想して唐法師(トウボウシ)とも呼ばれ、あるいは短化してトウボシやトボシ等と呼び習わされました。この大唐米=トウボシの一群は様々な亜流があり、それらが必ずしも遺伝的に同一のグループに収まる訳ではないのは品種の概念の乏しい時代なので仕方ないとしても、大きな一群を形成して中、近世の田んぼに存在しました。
 トウボシは不良環境には強くても味は劣るため、当然のことながら支配層から嫌われ、下米や不良米のレッテルを貼られました。大事な租税として徴収する米の中に下米のしかも赤米が混入するのはやはり都合の悪い事でしたが、完全に駆逐出来なかったのかあるいはしなかったのか、品種の選択権は百姓にあったのかもしれませんし、万一の天候不順に備えての農家の自給米としてある程度の許容をしていたのかも知れません。
 稲は基本的に自家受粉をするものですが、風媒花でもあるので約一%は自然交配によって他家受粉をするものだといわれています。つまり、当時の上田一反の田んぼで三百キロの収量があったようで、一籾を仮に0、2グラムだとすると1万5千粒の雑種が混入する事になります。トウボシはインディカ米なので他のジャポニカ種と交配した時には強度の雑種不稔になります。これはインディカ種とジャポニカ種が遺伝的に遠い存在である事を示しているのですがここでは置いておいて、不稔ですからシイナになるというのは非常に好ましく無いことです。そこで、トウボシが早生である事を利用して晩生品種と混植し開花時期をずらすことで交配を防いでいました。
 混植といっても適当にばらばらに植えた訳ではなく、「ぐるり植え」や「大唐さし」といったように田面の畦周りに数条ぐるりとトウボシを植えました。早生の性質を生かすだけでなく、虫害に強い性質を利用して畔から害虫の侵入を防ぐという賢い方法でした。
 (ここに書いたことは「赤米の博物誌」を読めば既出で、更により詳しく理解できると思います。)

 「赤米」と言えばインディカのトウボシ以前にもジャポニカ種が列島には存在したことはよく知られています。奈良の平城宮跡を訪れた方ならお気づきかも知れませんが、遷都1300年祭で賑わったきらびやかな大極殿と対を成すように東隣に作られた掘立柱建物の「大安殿」、その奥に位置する内裏の更に東側、柵と排水路で隔たれた所にあったのが造酒司です。
 造酒司は国家の祭祀に関わるような酒や酢の醸造を一手に荷っており、醸造で使用する水を井戸で賄っていたようです。調査の結果三つの巨大な井戸が発掘され、そのうちの一つは役所の中心部に位置し、直径1,4メートルの丸太をくりぬいて作られた井戸枠の周りを石で葺き、全体を六角形の覆い屋で覆うという何とも奇妙で特殊な用途が想定されるもので、現在はその井戸の復元遺構を見ることが出来ます。

朱雀門や大極殿のような壮麗な建物からは随分離れたところにあり、一見何か分からない

復元遺構の中もゴミが散乱していて残念ですが、この井戸の特殊さが窺えます。

説明板

 その造酒司に納入された酒用の年料舂米は出土した荷札木簡から見るとおよそ4割が赤米のものだったことが分かっています。当時の酒づくりにおいて赤米が何かしら特別な意味を持っていたであろう事は推察できそうで、ピンク色に染まった濁酒が儀式に供されたのかも知れません。
 ただ、それでも酒米の五割以上は白米であり、酒米を除く全体では圧倒的に白米が流通していたのも事実なのです。だからもし赤米を「古代米」と呼ぶのであれば白米も古代米だろうと言う少々意地悪な事も確かに言えるわけです。

 赤米が祀り上げられている昨今の状況に水を差す気はありません。明治期には政府主導で赤米駆逐策が採られ、徹底的に排除されたモノの復権と見れば感慨深くも有ります。でも赤米を古代米と呼ぶのは赤飯の由来が赤米にあるという話と同じで、根拠の薄い常識になっています。思いつきの発言とはとても考えられないのが赤飯の赤米由来説の凄いところで(もちろん説が間違いと言っている訳ではありません)、稲の南方海上渡来説ともども柳田國男という人の底知れなさを感じさせられるものです。
 赤飯は赤いと云う点と糯(モチ)米を使うという二つの特徴が有るのは言うまでもないのですが、例えば赤いと言うのは赤米が由来なのか、そもそも赤い色に邪を祓う僻邪の思想があったからでは、いやそれならば辰砂や鉛丹といった鉱物の神秘的な効能が、というような卵が先かニワトリが先かの議論になってしまいます。あるいは単に小豆という縄文遺跡からも多く出土し、五穀の一つに数えられるものを使うことに意味があったのかもしれません。
 糯米は数百万本に一本の奇跡、うるち米の突然変異から生まれたと考えられています。アミロースを持たず多節状のアミロペクチンのみが有る為にあの独特の粘りが生まれ、その特性を活かす為にもうるち米との交配を避けねばなりませんし、収穫後の混雑を防ぐためにも隔離して栽培、保存をするものです。
 苗族などの雲南や東南アジアのいわゆる照葉樹林帯の文化がネバネバを好み、日本もその影響を受けたというのはよく言われることで、苗族では糯米はうるち米の上位という位置付けにあります。日本でもモチはハレの日の食事で、神に奉げる神聖なものです。寺においても例外でなく、寺々の大山立や例えば二月堂のお水取りでは須彌壇に積み上げられ、唐招提寺では正月に餅談義などと言う行事もあります。何故モチがハレの食事になったのか明確な答えを持ち合わせませんが、成型すれば扱い易く、ある程度保存が利くという実利的な部分にも意味があるのだと思います。

 本当の意味での古代米は実は各地の弥生遺跡から多数出土しています。大和で言えば「唐古鍵遺跡」から出土した炭化米があり、ここから出土した古代の米の特徴は幾つかあります。その一つは「長護頴種」と呼ばれる、籾の更に外側に護頴(ごえい)と呼ばれる外皮が籾を覆うように長く伸びたものがあったことです。この護頴は種子を守る為のものですが、稲が栽培種として改良される歴史の中で徐々に失くしてきた器官のひとつで、今の米にはほぼ見られないものです。
 弥生の米が稲の古い形を残していると考えられるのと、この護頴は現在でも中国大陸の「禾更」の在来水稲品種の一群に見られ、更に台湾島の陸稲品種に長護頴を持つ在来品種が今も存在するといい、それらとの関わりを考えずにはいられません。
 そしてもう一つ、出土した炭化米のおよそ2,3割が熱帯ジャポニカ種だったということです。ジャポニカ種は温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャワニカあるいはジャバニカともJAVANICA)に大別され、両者は三つの遺伝的形質によって区別され、現在では遺伝子レベルで違いが認められています。そのややこしいところは置いておくとして、現在の日本の水田にはごく一部の在来種を除いては熱帯ジャポニカ種はありません。99%以上が温帯ジャポニカの短粒種で占めている今と違い、各地の弥生遺跡から出土する炭化米は滋賀の下之郷遺跡の四割を最大に、軒並み熱帯ジャポニカを検出しています。
 1970年代までに日本列島に残っていた稲の在来品種のうち、およそ7パーセントが熱帯ジャポニカに特有の遺伝子を持ち、先の護頴を伸ばす遺伝子である「g」と名付けられたものもそれにあたるといいます。ただ、これも先ほどの中国大陸の禾更や台湾在来は紛れも無い温帯ジャポニカ種であり、熱帯ジャポニカ特有の遺伝子を持つからと言ってそれが熱帯ジャポニカ種であるとは限らないようです。
 個人的には熱帯ジャポニカという稲がこれ程までに存在したという驚きもさることながら、何故四割を超えて五割以上で検出されないのかの方が逆に不思議でなりません。母数が違うので比較し難いですが造酒司に納入された赤米と同じ様に半分を超えないのが気になるのです。いやもしかしたら五割をける遺跡が有るのかも知れませんが、こちらの情報が古いので御了承下さい。それはともかくこれらの炭化米が混在して検出されたのか、果たしてどの様に栽培されたのかなど興味は尽きません。
 そして唐古鍵遺跡の上流に出現した巨大な都市のような空間、纒向遺跡の土廣から最近見つかった桃の種も大事ですが、米の遺物が果たして熱帯ジャポニカなのか温帯ジャポニカなのか、唐古出土の炭化米とDNAレベルでの関係があるのか無いのかなど知りたいことは沢山あります。

 

その四 訂正

2011年06月03日 | 農と歴史のはなし
  
      田原本の二毛作圃場(正確には米・麦・大豆の田畑輪換か)の麦秋

訂正

 もはや随分前の一年より以前のはなしになってしまいましたが訂正をしておきたいと思います。それと、次回の予告めいた事を文の最後にいつも書いていましたが、その通りに成ったことが一度も無かったのは、何と言うか出来もしないことを書いて適当すぎてすみません。
 現代の稲の特徴を株張型稲(穂数型)という風に書いてしまいましたが、これは大きなそして初歩的な間違いで、現代の稲は穂重型稲と株張型稲の中間種です。考えれば当然のことで、安定して最大収量を目指すと行き着くところはココになるわけです。
 理論上、穂に付く籾粒数を多くして一粒の重量も多くし、そんな穂の付く株数も増やせれば最大の収量を得られるわけですが、実際には穂重が重くなれば倒伏し易くなり収穫が恐ろしく大変になりますし、株数が増えすぎると互いに栄養条件や光合成に競合を起こしてしまうため、逆に収量を落としてしまいかねませんから、最大収量を求めるとなると自ずと穂重、株数共に限界点が見えてくるわけです。
 確か最近、遺伝子組み換え技術でスーパーライスを作出する計画があり、その中に一粒の籾重を大きくするというような話があったと記憶していますが、それを実現するには桿つまりストローの強靭さと柔軟さが求められるのは当然なのだと思います。

 現代の稲作の基本的な考え方は、株数を増やす、つまり分げつを増やす、それも「有効分げつ」と言う実際に実が付く分げつ数を如何に効率的に適正な数まで増やすか、その為に必要な栄養素を最適時に最適量を施肥するかということにあるのではないでしょうか。その為にも、生育途中の栄養成長から生殖成長への切り替えを、水管理や肥培管理でもってスムースに行なう必要があります。水管理は少し横に置いておいて、肥培管理でのそのような細やかな対応は近代以前の栽培方法では叶わず、化学肥料の登場後でなければ出来ませんでした。
 今では科学的に有機質肥料の無機化の数値化、グラフ化がなされたり、植物がタンパク態窒素の状態でも直接根から吸収すると言った新事実も研究されており、無機栄養説が崩れる可能性が有るなど、有機質肥料だけを利用してもある程度肥培管理が可能になりましたが、それでも実際の圃場においては勘と経験に大きく頼るのが実状です。ましてや明治以前には穂肥や実肥あるいは葉肥と言った認識はあったにしても科学的とは言い難くやはり勘に頼るものでした。花咲か爺さんが灰を撒いたら花が咲いた。でも理由は判らずあの犬のお爺さんを思う気持ちが・・みたいな感じでしょうか。
 そもそも窒素、燐酸、カリという植物の必須三要素説と、その最小率に関する理論をユーストス・リービッヒが提唱したのは1841年で、リービッヒはそれを実践するための化学肥料の合成にも力を注ぎます。既に1821年にフリードリヒ・ヴェラーによって尿素の化学合成は成功しており、明治時代を前にして海の向こうでは近代農法の幕開けが始まっていました。

 明治政府は富国強兵、殖産興業という表裏一体の国是を掲げ、その為にも農業生産の安定的拡大を、農業の近代化を国策として推進します。国民国家として新しく始まった日本はようやく日本列島の北から南まで隈なく国の政策を施行できる体制に体裁上はなりました。
 それまで藩という200以上のばらばらな統治機構に分かれていたわけで、江戸時代にあった飢饉のうち、特に東北地方で起こったものは冷害によるものが多かったようですが、一方の西日本では逆に豊作だったということがあったりと、流通の発達していない中で諸藩に分かれていたことによるある意味構造的災害、人災だとも言えたようです。
 勿論、冷害という根本原因があってのことで、比較的寒さには強いにしても本来短日性のジャポニカ稲が、冷涼で緯度の高い東北地方で安定的に栽培を続けるという事は至難の事であるのは、昭和に入ってからも東北地方では度々冷害に遭い、その度に娘子の身売りが相次いだ事が新聞記事などで残っていることからも窺えます。東北地方の飢饉は二・二六事件の遠因とも言われるなど社会不安の温床として克服するべき大きな課題だったはずです。
 近年でも記憶に新しいのは、1993年(平成五年)に発生した東日本大凶作です。特に東北地方での冷害が酷かったもので、西日本の特に九州ではそれ程の不作ではなく平年作だったと記憶しています。現代の米所、東北地方での不作は大きな影響があり、スーパーからお米が消えるという事態に陥りました。その為に緊急輸入したタイ米を多くの人が不味いと敬遠するなど、改めて日本人とコメについて考えさせられる事件だった気がします。
 話は少しずれますが、近頃のアイスランドの噴火の影響で来年以降、1993年のような冷夏での大凶作が有るんじゃないかと真剣に考えています。

 と余りにも長くなったのでここで一度切りたいと思います。続きは明日。


番外 農と森と

2010年10月03日 | 農と歴史のはなし
 
 割と昔から樹や森について関心が深く、公園や山をそぞろ歩くことも多かったこともあり雑木林や里山という単語には殊更惹かれるものがありました。
 国土の約七割を森林に覆われた木の国、緑の国の日本といのは改めて不思議な国だと思うものです。新幹線が列島を数分おきに縦断して、その車窓から見える景色はどんな場所にも人家が点在しておりおよそ秘境とは縁遠いのですが、人の営みと森や林が非常に近くにあり、生態系の多様性も非常に豊かである。中国大陸や半島が森林をほぼ失い潅木が疎らに点在する乾燥した風景なのとは余りにも対照的な艶やかで瑞々しい景色です。
 ただ、日本人の持つ独特の精神性が森や緑を慈しみ育んできたという論調には賛成できません。その逆の、気候風土や環境によって特有の精神性が醸成されるというならばうなずけますが、何か日本人が特別な森の民のような話はそれこそ木を見て森を見ない話でないでしょうか。
 それどころか現在の日本の森林が危機的状況にあるのは間違いなく、それは農業と重なるものがあります。農林業と呼ばれる農業と林業はかつて非常に近い存在で、不離即の関係であったものがそれぞれが合理化、機械化をする中で片手間で携わるのは難しくなってしまいました。とは言え、もはや一般の人は森を見ても木を見ないという関心の埒外に置かれてしまっているという点では農業と林業はやはり同じなのかも知れません。

 そんな中で、里山だけは過大な評価を得て、自分のようにミーハーな連中を惹きつけています。共生や生物多様性という言葉で語られることが多いですが、ここで言う共生とは現代的な意味であって本来の、あるいは過去の里山の共生は生物学的な意味においてのそれであると思います。つまり、人と自然が互いを利用し折り合いを付けて均衡を保っているギリギリの状態で、そこに至るまでには長い試行錯誤の時間が必要だったはずです。
 そんな歴史の一端を見つめて、改めて森とのかかわりを考えてみたいと思います。
 
 大和が歴史の表舞台であった古代において、飛鳥から藤原京、平城京と宮や京が次々と作られ、更に仏教の伝来による寺や神社などの巨大構造物の建設ラッシュが重なって、その資材となる木々は次々と切り倒され、目ぼしい大きさの原木は奈良盆地の四周には無くなってしまうという大規模な人為的自然破壊が古代において初めて引き起こされます。はげ山然と化した山々は保水力を失い、ある時洪水という手痛いしっぺ返しを食らわされるに至って朝廷は重い腰を上げるのです。
 天武五年五月条に「南淵山・細川山を禁めて、並に草刈り薪ることなかれ。また、畿内の山野の、元より禁むる限り、みだりに焼き折ることなかれ」とあるようにこの頃はまだ秣(まぐさ)での使用というより刈敷などに使ったであろう下草や日々の煮炊きに使用する薪材を採る事を禁じ、続く次の文はとても興味深い事に焼畑を禁じた文言であるらしいのです。
 いずれにしろ民衆が飛鳥川上流の山に分け入りみだりに木材を切り出すことを停止したのですが、煮炊きの手段が薪なのは民衆に限らず、天武四年「百寮の諸人、初位より以上、薪を進る」とあるように宮廷所用の薪を百官らが奉ったように朝廷や貴族といった上流階級で炭が使われるのが常態化するのはもう少しあとのことです。

 炭と違って薪材で煮炊きすれば当然ですが煙が出ます。朝日が昇って人々が一日の活動を開始するその最初が火を熾すことで、朝凪の中で奈良盆地の各所からは白い煙が一斉に立ち上ったことでしょう。仁徳天皇四年条には、高殿に登って眺めると、人家の煙があたりに見られないのは人民が貧しくて炊く人がいないからだろうと三年間全ての課税を止めたという話があります。また、万葉集に採録されている舒明天皇の謹歌にも「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原に 煙立ちたつ・・・」というように国見という行為の一端が窺え、竈の煙は国が富む象徴のように語られています。
 
         大和の夜明け
 
 為政者による山林の保護政策は入山を禁じる消極的なものでしかなかったのでしょうか?厳密な意味での保護育成林業は近世まで待たなければなりませんが、植林という行為の認識は既にあったはずで日本神話にもその辺りが垣間見えるのです。
 一書(第五)にいう。スサノオ尊が言われるには「韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、船が無かったらよくないだろう」と。そこで髯を抜いて放つと杉の木になった。胸の毛を抜いて放つと桧になった。尻の毛は槙の木になった。眉の毛は楠になった。そしてその用途を決められていわれるのに「杉と樟、この二つは船を作るのによい。桧は宮を作る木によい。槙は現世の民の寝棺をつくる木によい。そのために沢山の木の種子を蒔こう」と
 この話をして杉桧槙樟の発生譚として読むならば、古事記のオオゲツヒメや書紀の保食神(ウケモチノカミ)のような食物起源譚の傍流と捉えることが出来ないでしょうか。死んだあるいは殺された女神の体から人類に不可欠の食料が生えてくるという、いわゆるハイヌウェレ型神話として有名な保食神のくだりはまた、昔話に出てくる山姥との共通性を持っており、山姥も死体から穀物あるいは財宝を生じます。
 それだけでは無く山姥の話の中には呪的逃走と呼ばれるパタンもあり、それは日本神話においてイザナギがヨモツヘグイをして黄泉の国の住人になってしまったイザナミの醜い姿を約束を違えて見てしまい、イザナミに追いかけられるという話と重なり、山姥の物語は明らかに神話のイザナミの話を踏襲してもいるのです。
 柳田國男は山姥の正体を祀られなくなり、落ちぶれた山の神の姿であると看破しました。確かにかつて信仰の中心であった地母神が新しい神の登場によりその地位を譲るというのが普遍的パタンであり、イザナミも古い神、地母神の系譜であると考えられます。
 スサノオはそんなイザナミを母として誰よりも慕い、半ば天上界を追放される形でイザナミの居る根の国に向かい、途中立ち寄った地上で八岐大蛇を退治して助け出した奇稲田姫を娶ります。
 アンドロメダ型神話の典型であるこの話は英雄譚そのものであり、五月蝿えなす荒ぶる神スサノオの変容には目を見張るものがありますが、ふと思うことにイザナミとスサノオの関係と行動が金太郎と母のそれと似ている気がするのですがどうでしょうか?金太郎説話と坂田金時伝説がごっちゃになっているので少々説得力に欠けますが、スサノオが古い神の系譜なのは間違いないと思います。
 木々を生み出し、そればかりかそれらの用途を明確に指示したこのくだりは非常に興味深く、特に槙、コウヤマキを死者を葬る棺に使うように指示したことは考古学的にも合致するところですが、民草が利用する様な物では無かったようです。昨年、再調査された桜井茶臼山古墳の木棺も樹齢千年以上のコウヤマキである事が再確認されたのは記憶に新しい話で、一面に水銀朱を施された長大な竪穴式石室に丁重に埋納された棺は底部と側の一部を残すのみですが、千七百年余りの長きに渡って残存しえたのは最高級のコウヤマキ材を使ったからなのでしょう。
 ちなみにコウヤマキは日本に固有の品種で、楠も半島には殆ど分布しない樹種です。

イザナギを古い系譜の神とするならばアマテラスはその後を継ぐ新しい神の系譜と言えます。そんなアマテラスも女性神だからでしょうか、保食神の眉から生じた蚕の繭を口に含み、絹の糸を紡ぐという養蚕の始原に関わっています。高天原には機殿があり、日々神衣を織っていたのです。
 この話を受けての事ではありませんが、皇后さまが廃れかけた蚕の品種「小石丸」を残すように求められた話は感慨深いものがあります。

 少し切りが悪いですが、今回はここまでとします。

 

その三 まわり道

2010年04月27日 | 農と歴史のはなし
  
その一で法隆寺の画像を使ったその流れに沿っているだけで本文とは何ら関係ありません


 江戸末期に伊勢国の岡山友清が作出した「伊勢錦」の評判を聞きつけた宇陀郡萩原村の山根兵衛は、その種籾を手に入れて、後に明治の三老農と讃えられる中村直三の元にそれを贈りました。直三は伊勢錦の試験栽培を経てこの稲の性質の良さに自信を深め、大和国内の石門心学講舎の助力を受けて種籾の頒布を始めます。
 伊勢錦は籾が一穂に350から420粒も付く典型的な穂重型品種で、その元は「大和(錦)」つまりは大和地方で栽培されていたであろうものが伊勢に渡り、岡山友清が十年以上もの歳月をかけて伊勢錦を作出し、こうしてまた大和に出戻ったものと考えられます。
 中村直三の尽力もあって伊勢錦の普及はまずまずのようでしたが、席巻すると言うまでは行かず、かえって大和錦の方が明治期に入っても栽培が続けられるという結果になります。何より神力という革新的稲とほぼ同時期で株重型稲への転換期だった事は、不運だったのかも知れません。

 船津伝次平、奈良専二と並んで明治の三老農の一人として名を馳せた中村直三は、天理の永原村に没落農家の子として生まれ、村抱えの治安維持要員として藩と村、農民の間に立って軋轢の解消に腐心しました。
父や祖父が篤志家とも言える人物で、農事改良に努めるなど没落してもその志は高く、農家でない事でかえってより広い視野で農業を見つめる事が出来たのかも知れません。
 自著の「勧農徴志」では、京女郎や河内麦と言った具体的な品種を挙げて麦作を勧めています。また、稲の品種を相撲番付の形を借りて判り易く解説するなど、品種の選定は収量を左右する大事な要因として重要視していたようです。父の善五郎が作出した稲に善五郎穂と名付けて周囲に配ったことからもそれを伺わせ、農業の安定が社会の安定につながるという信念で行動したのでしょう。
 またプラウの改良など新しい技術の導入にも熱心で、大和という地域を越えて農事改良の活動を全国に広げて行きました。
  
                       中村直三頌徳碑 (三昧田)
 
 明治という新しい時代、新政府は他産業と同じように農業にも西洋の近代農法を導入しようとお雇い外国人を招聘し、有名なアメリカ人のクラークやドイツ人のマックス・フェスカが来日します。 特にフェスカは日本列島の土質をつぶさに観察した結果、日本の農業とその土台となる気候風土が西洋のそれとは大きく違う事から、いきなり西洋近代農法を導入することを断念します。気候風土の大きな違いとは、日本が酸性土壌で夏季に多雨多湿なのに対してヨーロッパはアルカリ性土壌で、夏季は乾燥し冬季に雨が降るというものです。
 その結果この地では米作が、かの地では麦作が主要作物となったわけですが、米作りの現場は労働集約的で人海戦術のようなもので農繁期を凌いでいました。家畜による畜耕も地域差が大きく、多くの地域では家畜を使わず人力で耕作するために小肥、浅耕での栽培というのが当時の現状でした。
 それに加えて、灌漑施設が十分でない状況下では何より水の確保が最重要課題であり、水田は今のような乾田ではなく湿田あるいは半湿田が普通でした。特に関東以北は強弱あれど殆どが湿田であったといわれています。
 「乾田馬耕」という言葉があります。水田の乾田化には牛馬と犂(プラウ)を使った畜耕が欠かせませんでしたが、関が原以北は明治初年でも牛馬耕が普及しておらず、老農の一人である林遠圃が設立した勧農社による巡回普及まで待たなければなりません。フェスカも人力に依存した省力の小農からの脱却が必要と考えますが、それは農業のみならず日本の社会や文化とも密接に絡む問題だったのです。
 そこで明治政府は改めて地域に伝えられた在来の農法を見直す事から始めます。全国の篤農家を集め、近代西洋農法とは異なる知識知恵を持つ農業指導者を「老農」と呼んで全国で農談会を開きました。老農達は在来農法の知恵に長けた傾聴に値する反面、必ずしも理論的ではない場合もあり近代農法との軋轢に晒されたり、地域に特化した狭い知識もありました。お雇い外国人によって蒔かれた近代農法の種が花開く為には、こういった在来農法をいかに相克するかが必然だったようにも思えます。

 湿田はおろか半湿田すら見た事がない身としては、写真で見る腰まで泥田に浸かって田植えをする光景は、何でこんな辛い事をしてるのかが全く理解できないものでした。しかし、それはひとえに水の確保を最優先した結果に他ありません。水田の代かき用水量は湿田で80~120ミリ、乾田で100~180ミリとかなりの差があり、積極的な選択の結果ではないかも知れませんが非合理的なものでは決して無かったのです。
 最近、越冬水鳥のために冬季湛水という、冬の間も田の水を落水せずに溜めたままにする方法が見られます。「田冬水」と呼ばれたこの方法も当然その昔は野鳥の為などでは決して無く、田水を確保するためであったのは言うまでもありません。
 新田開発などで尾根間に侵食したいわゆる「谷津田」などはたいてい半湿田の状態で、現在も基盤整備が行き届かず補助輪を付けないと耕運機やトラクターがはまってしまいます。両尾根に挟まれた谷津田は尾根からの水が集まるために湿田化するのですが、灌漑が期待できない谷津田はそれでも良かったのです。
 奈良盆地を空から俯瞰してみるとまるで大きな谷津田とも見て取れます。そんな奈良盆地が湿田、半湿田から乾田化していく過程などを以降考えていければと思います。あと訂正入ります。


その二
http://blog.goo.ne.jp/primeurs-4/e/88f93b520dcde87befd117baec82fad1
その一
http://blog.goo.ne.jp/primeurs-4/e/932b67183268d86b7808a40e84f17c3d


その二 一粒万倍穂に穂

2010年01月31日 | 農と歴史のはなし
  

 江戸期の農書に「一粒万倍穂に穂」というものがあります。現在の岡山県にあたる備中国小田郡の河合忠蔵が記したものですが、その直截的な事この上ないタイトルに込められた豊穣への思いは、今の人にも十分に伝わるものです。しかし、その具体的なイメージは当時の人々と私達では違うのではないでしょうか。穂重型稲が主流だった時代の稔りの姿のイメージは現在とは微妙に違っていたと思われ、その微妙なずれは過去の稲作ひいては過去の農業に対する認識を誤らせていくように思えます。


 前回述べたように、穂重型品種から株張型品種への転換はスムースになされましたが、「神力」が稲の品種として画期であったことは確かな事で、後世にミラクルライスとも呼ばれ、あるいは「神力以前、以後」という用法が使われる所からもそれは窺えます。
 しかし、当時の現場においてはその様な認識は薄かったように思えます。そもそも品種の概念が明確ではなく、穂重型、株張型のどちらにしてもアジアイネのオリザサティバ、ジャポニカ種のうるち米である事には変わりない、現在のように主要稲品種の上位三品種で全国の作付面積の半分近くになるなんてことも無く、地域によって田んぼによって多種多様な品種で溢れていました。
 昔は一枚の田んぼに複数の品種を植える事もあれば、早生から晩生の品種を時期をずらしながら栽培することが一般的でした。これは単品種、モノカルチャのリスクを分散するためにも、季節性のリスクを回避するためにも意味があり、さらに早晩のずらしは作業上の労働力を集中させないためにも合理的な方法でした。何より品種としての固定化、純系淘汰が十分になされていない当時としては、一つの稲の性質が年々変化する事がごく当たり前でもあり、株張型稲もそんな多くの品種の一つと言う認識程度しかなかったのかも知れません。

 何故、株張型稲が優勢になったかより、むしろ何故、近代以前に穂重型稲が優勢であったのかを考える方が非常にわかりやすい。それは、稲穂に籾粒がびっしりと付いて首を垂れる、それこそ一粒万倍の豊穣のイメージを想像してみるならば、将にそれが穂重型稲の姿そのものになるからです。
 明治時代に入ってから導入された近代育種ですが、それ以前も以降もしばらくは、民間の篤農家や有徳者によって稲の育種が先導的になされ、その方法は「抜き穂」と呼ばれる極めて単純な方法でした。
 つまり、田んぼに生えている稲の中で、変異したりあるいは混入なども有り得るが、特徴的なものを選んで抜き取り、翌年に播種するというやり方がごく一般的でした。その選抜は一本だけ飛び出たような稈の長いものや、登熟に違いが有ったり、籾粒の見るからに多いものが選ばれる事が多かったようです。要は、明らかに周りの稲と姿かたちの異なる稲が選ばれるということで、それと当時の選抜者がイメージする良稲の姿が重なったものが更に選抜されていった訳です。

 幕末、伊勢国多紀郡勢和村の岡山友清によって生み出された「伊勢錦」などは、当地で栽培されていた「大和錦」の圃場で見つけた人一倍籾粒の多い一本を抜き穂したものであり、穂重型稲が選抜される過程をはっきりと物語っています。
 その後「伊勢錦」は評判も上々であったことから、友清はお伊勢参りの参道途中に籾種の普及所を設けて、広くこの種の普及に務めます。そんな「伊勢錦」の評判を聞きつけて人を介して手に入れたのが、明治の三老農の一人、中村直三その人でした。


(やはり実力が伴わないうちに書くとダメで、何が言いたいのか分からなくなってきました。十年くらいロムってろという感じですね)

覚書 稲について その一

2010年01月12日 | 農と歴史のはなし
  
         気が付いたら年が明けていました それから奈良検定おつかれさまでした



はじめに

 突然ですが、お米について、もしくは稲作についてどれ位知っているのか、尋ねられたらどう答えるでしょうか?コシヒカリとその他の銘柄米の食味の違いや、新米の美味しさについて答えられても、それ以上に知っている人は少ないのではないでしょうか。いや、実家が農家であったり、水稲兼業農家の方も多いはずですから一連の作業についても私よりも良く知ってる方のほうが多いのかも知れません。ただ、現代人の興味の先が既にお米や稲作には、それ以上に農業には無いと言う事なのでしょう。
 しかし、興味の対象から外れたとは言えども食の不安は年々増大し、消費者は食の安心や安全を求め右往左往しています。よく「食の安心と安全」と一纏めに語られますが、本来これらは別々に考えたほうがいいのでしょう。
 安心とは心理的情緒的なもので、安全は科学的根拠に基づく物です。その科学性に誤謬が無ければ科学に裏打ちされた安全性を元に安心を得るというのが理想なのですが、残念ながら人間は論理的とは言い難いのが真実です。情緒的に醸成されたふわふわとしたイメージに、人が如何に飛びつき易いかは「エコ」や「マクロビ」「ロハス」の例を出すまでも無いのでしょう。
 安心を脅かす不安を取り除くには、その不安の原因が何なのか、その対象物を見極める事が大事なのに、「食の不安」を口にしながらも人はそれ以上能動的に動こうとはしません。にも拘らず、消費者の権利という免罪符を振り回して混乱を加速させ、更なる不安と不信の種をばら撒いているようにも思えます。

 またぞろ話が脱線しているので元に戻すと、私達は稲作の何を知っているのか、百年前、千年前の稲作はどんなだったのか、知的好奇心は已む所を知りませんが、それらの何を知っているのかと尋ねられたならば黙るしかありません。
 奇しくも昨年末、横浜市の鶴見区内にある遺跡から発掘された米の塊が、X線CTスキャンの結果、約1400年前の古墳時代後期に作られた、八個入りのおにぎり弁当だったという記事がありました。これを聞いての第一印象は、現代と変わらずというか、1400年前の昔と変わらず日本人はおにぎりを好んで食べていることに感慨深いものがありましたが、果たして本当でしょうか?
 食文化の保守性は、今の日本人には当てはまらないでしょうが、基本的に食は保守的なものです。おにぎりほどシンプルで美味しいものはありませんから、これ程の長きに渡って愛されたのも肯ける、将に日本人のソウルフードと言えるのでしょう。
 遺物のおにぎりは雑穀が混ざったものではなく白米だけで握られ、中の具も無かったそうです。何分搗きかまではわかりませんが、白米だけであったのは正直意外過ぎるものでした。「古代人は雑穀米を主に食べていただろう」という、知らずの内に刷り込まれた既成概念が意外性を感じた原因でしょうが、これに限らず様々な既成概念に縛られ、米や稲作を見ていることに気が付きます。
 この遺物からは現代との共通性を感じさせる調査結果が得られた訳ですが、人には共通項に反応するという性質がありますので(その結果、人麻呂の暗号のようなトンデモ本が流行った)、逆に現代の稲作と過去の稲作の違いを考えながら、特に大和における農を軸にして少しずつ過去の稲作を紐解いて行ければと思います。
 (言うまでも無いことですが、ここに書かれてあることは既に語られている事が殆どで、視点を少し変えているに過ぎませんが、引用参考に関しては割愛します)


稲の違いについて
 稲の性質の違い 「穂重型」と「株重型」

 過去というのを何処に設定するのかが難しいですが、昔の稲と現代の稲は同じではありません。最も違うのは、稲の品種、性質の違いです、それもコシヒカリとササニシキの様な違い以上に、基本的な性質が現代のものと大きく異なる点です。
 基本的な性質での異なる点は幾つかあるのですが、先ず何より最大の違いは、昔の稲の性質は「穂重型」だということです。対して現代の稲の性質は「株重型、株張型」になります。「穂重型」とはどういうものかと言うと、一株が少ない分げつで稈部は比較的長く、穂先に大粒で多くの籾を着けるものを云います。比べて「株重型」は一株からより多くの分げつをして、株数を増やすような品種になります。稈部は短く、一穂が付ける粒数も米粒の大きさも左程ではありませんが、株全体で収量を稼ぐようなものな訳です。「穂重型」品種は現代では「山田錦」のような酒造好適米にその性質が残されていますが、飯米には全くと言っていいほどに見かけません。酒造好適米の性質である稈が長く、粒が大きくて千粒重が多いなどは「穂重型」の性質を残していると言えます。

 この「株重型」または「株張り型」の品種は江戸時代などにも見かけはしますが、全くマイナーな扱いで世は「穂重型」全盛の時代でした。「株重型」の稲が世に広まるのは遅れて明治大正時代になってようやくのことです。
 大正の時代に米の日本三大品種と世に謳われたものが「亀ノ尾」「愛国」「神力」です。このうちの「神力」は西日本を中心に50万ヘクタールにも上り、盛んに作られるようになります。この神力が広く普及した株重型稲のハシリともいえる品種であり、以後穂重型品種から株重型品種へ、稲の基本性質が大きく転換していくのです。

 「神力」は兵庫県揖保郡に住む丸尾重次郎が、有芒つまりノゲの有る「程善」という品種から無芒のものを抜き穂選抜したものに「器量善」と名付けて近在に広まったもので、それを「神力」と改称したものが、明治20年以降急速に西日本を中心にその作付面積を広げました。
 「神力」の品種的特徴を見てみると、先ず述べたように株重型であり、稈が短く籾粒は小さいが多収の晩生の品種で、食味はあまり良くなかったようです。現代の我々からすると食味の良くないものが普及することに違和感を感じます。食味が無視されたとは言いませんが、当時は如何に安定収量を確保するかにこそ重きが置かれました。小作農が地主に現物納するにしろ、納税するために米を現金化する上でも、食味より収量の上がる品種を選択するのは自然な事でした。それに当時は収穫された米が「神力」の名で売られていた訳でもありません。銘柄米として米が販売されるのはずっと後であって、その頃はせいぜいが江州米や吐田米のような、産地米の区別がかろうじてあったに過ぎません。米の品種、銘柄は農業関係者のテクニカルタームだった訳です。
 晩生品種は総じて収量が上がるものが多いのですが、栽培期間が遅くなるほどに風水害の影響を受け易くもなります。その為に近世以前の支配者層もそうでしたが、地主などは晩生品種の作付けを多くしないように求めます。しかし小作農に押し切られる形で稲作の晩生化は進むなど、「神力」の導入も下層民程積極的であった事もふまえると、単純な支配・被支配の関係では割り切れないものがそこに有る様に思えます。
 
 穂重型品種から株重型品種への転換は意外なほどにあっさりと為されました。「神力」に続く「旭」も株重型品種としての特性を有しており、これまた晩生の品種でした。次回は株重型品種への流れの理由と、晩生化についてゆっくり語っていきたいと思います。