和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

法隆寺金堂四天王像について

2009年04月17日 | 和州独案内
 現存する最古の四天王像である法隆寺金堂の四天王像はそれ以降の四天王像とは明らかに一線を画しているように思います。良質の楠を内刳り無しで頭から足ホゾまで一材で仕上げ、臂先や天衣は同じく樟材を矧ぎ付け、宝冠や衣の端は金銅の透かし彫り金具で装飾される。持物も凝ったもので、特に寺伝で持国天が持っていたとされる銅剣はその刀身に刻まれた星型から「七星剣」と呼ばれ、聖徳太子の御守刀の伝承を持つ。その為か明治期には皇室献納物の一つに選ばれたが後に寺に返納されました。足元の邪鬼と岩座もそれぞれ樟の一材で彫り出され全体で2m近くになり重さも百キロを超えるものになっている。動きが乏しく腹を前に出した寸胴の造形と、彩色が剥落している事もあるが杏仁形の眼が不思議な雰囲気を醸し出している。

 昨年の展覧会で諸像を目近にじっくり見る機会を得て、四天王もさることながら一番奇妙に感じたのは邪鬼です。これを果たして邪鬼と呼んで良いのかはなはだ疑問ですが、それもその筈で法隆寺四天王像以降のほぼ全ての四天王像が、邪鬼といえば護法神たる四天王に踏みつけられ教化される化外の物の姿に造形されているからです。比べて法隆寺のそれは持国天が双角の牛の様な、増長天は一角の、広目天・多聞天は猿の様な化け物ですが後の邪鬼とは明らかに異なり、踏みつけられるというよりは梵天ブラフマーの鵞鳥座のような乗座・獣座(ヴァーハナ)のようです。天平期の像になると既に邪鬼はユーモラスで何処と無く悲哀に満ちたいわゆる邪鬼の造形に固定化されますが、法隆寺のそれは以降のものとは異なります。法隆寺のものに次ぐ古さの当麻寺四天王像の四天王はまるで胡人を思わせる異国情緒溢れる相貌をしており他に無い一味違った印象を受けますが、足元の邪鬼は法隆寺像とそれ以降の像との間を繋ぐ所に位置しているように思えます。

 少し調べると分かりますが、邪鬼は本来夜叉(ヤクシャ)であり夜叉は特に多聞天の眷属、従者です。ですから二者の関係性から言うと法隆寺の像のほうがより本義を酌んでいる事になります。そもそも四天王はインドにおいて四方・四維・上下の十方位のうちの四方を表わす土着の神です。古くバラモンでは東西南北もインドラ・ヤマ・ヴァルナ・クベーラであったりインドラ・アグニ・ソーマ・クベーラであったりと様々ですが仏教においてはドリタラーシュトラ・ヴィルーダカ・ヴィルパークシャ・ヴァイシュラヴァナが採用されます。ただバールフットに残る欄楯の多聞天に当たるレリーフにはクベーラヤクシャの尊名が刻まれ、ヴァイシュラヴァナとクベーラが同一視されている。それだけでなくクベーラはヤクシャの一人、但しヤクシャの大将の一人として表わされています。バールフットの足元で支えるヤクシャはやはり自分たちの大将を支え奉じている眷属であり従者な訳です。

 法隆寺四天王像と邪鬼の関係性が古代インドの土着の方位神にまでもし遡れたらと想像すると魅力的な話ですが、基本的に四天王像の直接の影響が支那にあるのは四天王の服制が盛唐前代のものであることから見ても当然の事だと思います。法隆寺の邪鬼には乳房らしき膨らみがあることも支那の鬼神像を想定する向きがあり、それを否定するつもりは有りません。山口大口費や薬師徳保がインドのクベーラヤクシャの事など知るはずも有りません。だからこそクベーラ、ヴァイシュラヴァナとヤクシャの関係や、ヤクシャが本来財宝神で豊饒神であり太鼓腹や夫婦神として描かれた影響が、この遠い日本の仏像に残っているのならば陳腐ですがロマンを感じざるを得ません。
 まあ専門家からすればこの程度の話は想定済みでしょうし少し調べれば見つかる話です。素人ゆえの性急な結論付けは避けたいのですがやっぱり法隆寺四天王像の邪鬼はインドの痕跡を残すと考えてみたい。但し邪鬼に絡みつく紐がまるで邪鬼を捕縛しがんじがらめにする様に巻かれているという指摘が古くからあることは最後に書いておいたほうがいいのかもしれません。

  
                        盛りを過ぎた千年桜

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