和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

スイートコーンとアブラムシ

2010年07月24日 | 野菜大全
 世界中に約四千種が居るというとても身近なアブラムシについて非常に面白い本を読んだのですが、専門的なところは理解が追いつかないにしろ眼からうろこが落ちる事が多くありました。
 最も驚いた事は、こんなに身近なアブラムシが腸内に「ブフネラ」と呼ばれる細菌を飼っており、というか共生関係にあり糖質以外の栄養素アミノ酸やビタミンを生産してもらっているという事実です。普通に考えれば植物の浅い部分の樹液しか吸汁出来ないアブラムシが、その樹液の殆どを寒露として排泄しているにもかかわらず生存出来ているのは不思議な話なのですが、わずかな必須栄養素を得るために殆どの糖質を排泄してるんだろうくらいに思っていたのに腸内細菌との共生関係がその解というのは考えてもみない事でした。いや、シロアリなどを考えればそれ程珍しいものでもないのかもしれません。人と大腸菌と言う喩えも可能なのでしょう。あるいは、かつて寄生されたものが共生関係を築き、今や一器官として存在しているミトコンドリアにも喩えられるのかもしれませんがブフネラはその一歩手前辺りでしょうか。

 アブラムシのコーンへの取り付き方は大体パターン化しており、冬の間に葉物に発生したものが地面を移動して先ず第一節下の乳葉に取り付きます。初春の時期はまだ繁殖力も弱く、ここで叩ければ良いのですが緑色の体色のために見つけにくいのです。
 マルチ栽培をしている場合、マルチに付いた甘露のテカりで確認できますが、その状態はもはや定着寸前の危険水域というところでしょうか。不思議なことに初めのまま緑の体色をしていればコーンの葉色に紛れて見つかりにくいはずなのに、いつの間にかコロニー全体が黒色の体色に変化してしまうことです。これにどのような意味があるのか自分には分かりませんが、何か重要な意味があるように思えます。科目横断的で体色が変化するのはモモアカアブラムシの特徴ではありますが、栽培を始めて全ての年で緑から黒への変化をしているのには何か意味があると思われます。もしや黒マルチに反応しているのか?とも考えますが、樹上ではかなり目立つので生存を考えると明らかにマイナスなのです。あるいはコーンの樹液に独特のものがあるのかもしれません。この状態で蔓延ほぼ確定という感じで、保護色でいるよりも黒色で体温を上げて活発に動く方を選択しているのでしょうか、既にコーンの上部葉裏の飛び地にコロニーを作っていて、これから無農薬を通すには余りにも地味で不毛な作業、テデトールが必要です。

 下部の地面に近い葉裏から取り付き始め、各葉の基部にある鞘状の巻き込み部の見つかりにくく雨も当たらない所に拠点コロニーを築き、更にそこから上へ上へと登って雄穂にまで姿が見えるともはや手が付けられません。そうなると第四節辺りにある実を包む苞葉の内側や、実の基部にある空間に入り込んで大繁殖しており、寒露もそうですがそれだけではない恐らくコーンが分泌する粘液状のものとで、実を薄皮一枚まで剥かないといけなくなり商品価値は殆ど無くなります。
 雄穂にまで取り付くとあとは振動でポトリと落ちれば拡散できますし、有翅タイプも密度が高くなれば出現しており、風の吹くタイミングで更に遠くに拡散します。面白いのはコーン横にホウレンソウを栽培していると、直ぐ近くの条には殆ど有翅が付かないのに、コーンから遠い条には多く有翅アブラムシが付いていることで、彼等は一つの命題であるより遠くへを確実に実践しているのです。

 今年のコーンはゴールドラッシュ→おひさま7→味来390→サニーショコラ→おひさま7というラインナップで、食べ比べをしてみようかとも思ったのですが、わずかな違いはあれども言葉にするのはかなり難しかったのであきらめました。
 おひさま7の大きさは下手すると500グラムにもなるほどで、味来390はやはり美味しいしサニショコも捨て難い感じです。それよりも今年の遅霜はどうしたことでしょう。4月24日の強烈な遅霜は外の水が凍るくらいまで気温が下がり、二重トンネルの状態だったにも拘らず霜枯れしてしまいました。

 
 
 そして更なる問題、獣の類が食害をしている事です。姿を確認できてないので何かは分かりませんが、恐らくハクビシンかアライグマだと思います、まいったなあ。

ムースケーキ

2010年07月21日 | 菓子作り、料理作り
 フレジェの都合が付かなくなったため、急遽以前と似たようなしかしちょっと違う、いや本当の意味のムースケーキを作ってみることにしました。
卵を使わず生クリームだけで楽ちんなので幾つか試したものがありまして、ブルーべリーの使い勝手の良さは裏漉しの手間がいらないことと、いつでも安く手に入るのが良いというのは以前にも書きました。フランボワーズは探してみると200gで300円程の冷凍物が見つかったのですが、裏漉しを必ずやらないと食べれたものじゃないのは少し残念なところです。
 そこでさらに簡単で安上がりな白桃缶を使ったムースケーキを作ることにしました。黄桃は風味が乏しく食感も独特なために白桃に限定する事にしています。とは言え、白桃も缶詰には変わりないので風味は少ないことから桃のリキュールは加えた方が無難かと思います。桃のジュースを煮詰める方が風味はあるのかもしれませんが、実を潰した食感を楽しみたいので白桃缶にします。デコレーションしなければ缶一個で済みますし二缶使っても200円と言う安さです。

 それでは白桃のムースケーキつくってみますが、諸事情により分量に幅を持たせておきます。

 クリーム100~150ccを軽い八分までホイップして、冷蔵庫で冷やしておく。
 牛乳120~150ccとスキムミルクに砂糖40~50グラム位を加えて加熱する。砂糖が溶け始めたら白桃の缶詰をミキサーにかけたものを加え80度まで温める。

 火から下ろしたらふやかしておいたゼラチン一袋半くらいを加え、氷水に当てて冷やしていく。40度くらいまで下がったら桃のリキュール50~60ccとレモン汁、(ホワイトラム)を加え、20度以下まで下げてからホイップしたクリームを加えてよくかき混ぜる。

 (桃缶のシラップをレンチンして煮詰めたものに洋酒を加え、それを型に敷いた生地に打ってから)上記のムースを流し入れ、冷蔵庫で冷やし固める。


 一晩置いて落ち着かせるとより美味しくなる不思議。白桃を潰しすぎないことが重要な点ですね。白桃の実をクラッシュする時に少し粒が残るくらいの感じで上手く潰すと、食べた時にプチプチした舌ざわりが美味しいんです。10回ほど作ってみてようやく納得できる味に近づきました。
 これに仕上げとしてデコレーションするわけですが、正直面倒くさがりな身としましては殆どしません。もしやるならば、薄切りにした実を上面に敷き詰めてナパージュ、あるいは小口切りした実をシラップとワインを合わせた汁に浸して煮詰めるかのどちらかにすると思います。

 更なる課題は土台のスポンジ生地の相性でしょうか。

狛峠越え

2010年07月04日 | 和州独案内
やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 京を置きて こもりくの 泊瀬の山は 真木立つ 荒き山道を 岩が根 禁樹押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 阿騎の大野に はたすすき 篠を押しなべ 草枕 旅宿りせす 古思ひて
           (巻一 45)
 
 一番奥に見える山々が三輪山から巻向山の山列で、その麓に初瀬谷が長く伸びています。谷筋の道から狛の集落の果てまで長い登り続きのうえ、この先は本格的な山道になります。と言っても距離にしても高々500m程でしょうか。
 
 狛峠の暗く険しい山坂道を抜けると、視界が開けてはるか遠くに烏ノ塒屋山の尖った山頂がかすかに見える。可瑠皇子一行がもしこの峠を越えて阿騎野を目指したとすれば塒屋山は格好の目印になり、目的地の阿騎野まで視界に入り続けます。

 手元にある「日本古典文学全集」のように通った道が狛坂越えでは無いとすると、忍坂を通る半坂峠、あるいは谷を挟んだ女寄峠位しか考えられません。狛坂越えは結構距離がかさむルートなのは間違いなく、阿騎野まで歩けといわれれば宇陀ヶ辻で初瀬と忍坂のどちらかを選ぶとしたら間違いなく忍坂を選びますね。
 それにしても、詳しくは別の機会に書くにしろ、記紀の伝承にある女坂が大峠越えだなんていうのは幾らなんでも無茶過ぎます。女坂は男坂の対に在り、男坂より緩いものに付けられるはずですから、大宇陀町史にあるように男坂→ナンサカ→ハンサカ→半坂と転嫁したと考えられる半坂峠を男坂にあてて、谷を挟んである女寄峠が女坂にふさわしいと思うのですが。ただし、半坂峠を小峠とも呼ぶことから大峠との対比で女坂にあてる文献もあるように推測の域を出ない話ではあります。
 現在の女寄峠の元は明治期に開通したもので、更に最近トンネルが貫通して広い直線の車道がはるか下まで伸びています。昔の道をトレ-スすることは難しいですが、花山塚古墳が存在する事からも古くからある峠道なのは間違いないのでしょう。面白いのは榛原方面に抜ける丁度その場所から額井岳の山頂が綺麗に見える事です。
 
 今歩いてきた道を振り返ると、峠のたわみが見て取れる。細い道がゆるゆると曲がっていい味を出しています。何の変哲も無い農道ですが、美しさを感じるのは余計なものが何も無いからでしょうか。こんな風景もいつまで見られるのやら、もし農業用ハウス等が建ってたらごめんなさい、でも農業はハウス無しではやってけないんです。

 農道を下ると車道に合流して、そこからはどの道を行ったものやら分からなくなります。何故か狛坂を越えてから、更に女寄峠を越えて麻生田に山道を分け入るルートを想定するものもありますが、それなら元より半坂峠を越えた方が素直だと思います。

 狛坂を越えた笠間郷は正倉院文書にも現われる古くから開かれた集落です。ここから大宇陀方面に抜ける道は現在二つ、どちらも榛原の町の方面に少し歩いてから東西に伸びる丘陵を南に抜けます。一帯には古墳が点在しており、道の一つは行者塚古墳群や澤ノ坊2号墳の間を抜ける道です。ただし澤ノ坊2号墳は件のパイロット整備事業で破壊され墳石だけが何とも知れぬままに集められて残っています。
 もう一つはダケ古墳の横を抜ける道ですが、狛坂に近い行者塚を横目に通るルートが地道になっており雰囲気的にこちらがいい感じです。が、このルートも右手のハウスが目印で墓に向かって山に道が続いていますね、すいません。
 丘陵を越えると、宇陀川に沿って遡上するルートが分かり易く、爾来旧の街道として利用されていますのでここを歩くと、やはり烏ノ塒屋山の尖った山頂が目印になってくれます。 
 
阿騎の野に 宿る旅人 うちなびき 眼も寝らめやも 古思ふに

ま草刈る 荒野にはあれど もみち葉の 過ぎにし君の 形見とそ来し

東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ

日並の 皇子の尊の 馬並めて み狩立たしし 時は来向かふ

 長歌に続く四首の短歌は時間の推移を折り込みながら歌われており、かぎろひの歌はもちろんのこと最後の歌は「阿騎野の朝」の絵の記憶と合わさって躍動感みたいなものが半端なく感じられる。この四首の短歌は出典も早めでかなり好きな歌です。