和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

ローマを見ずに結構と言うなかれ

2012年02月12日 | Weblog
 毎年、年が明けると性懲りも無く今年の目標を幾つか決めたりするのですが、その一つにタイトルにある様に、一度ローマをこの目で見たいというのがありまして。「ナポリを見て死ね」と「日光を見ずに結構云々」というのを混ぜている訳ですが、個人的には風光明媚なナポリよりは、歴史が重層的に濃く存在するローマあるいはフィレンツェの方が訪れたいところです。
 ただ今年来年にイタリアに行く、という話では全く無くありませんので(そんな余裕はどこにも無い)、今年の目標とはちょっと違うのかもしれません。兎に角、ローマに立つその日が来ることを願って、先ずは歴史の勉強などをしていこうかなという意味です。 

 ローマの歴史は戦争の歴史といいます。
 そのローマにおいて、正式な手順をを踏んだ敵との戦闘に勝利し、戦争を終結させた場合、司令官は「インペラトール」の歓呼賛称を兵士から受け、勝利報告の使者をローマへ走らせます。それを受けて元老院が召集され、凱旋式を行うかの可否が審議されて、採択された場合は国費を使って盛大に凱旋式が執り行われるのです。
 勿論ロ-マの歴史は長く、王政から共和制の時代を経て、帝政期へと移るにつれ凱旋式の内容に変化が生じるのは当然なのでしょう。凱旋式自体が始まったのが共和制の時代と云われ、あのハンニバルを破ったスキピオ・アフリカヌスが最初と言う話や、もう少し古く共和制ごく初期のウァレリウス・ブプリコラがエトルリア人との戦いに勝利した時、戦車に乗ってカピトリウムの丘に登ったことが凱旋式の始まりという話もあります。
 面白いのは共和制初期、難攻不落といわれたエトルリアの主要都市ウェイイを陥落させたマルクス・フリウス・カミルスが、四頭立ての白馬に曳かれた戦車に乗って凱旋を行ったところ、神を冒涜する行為として人々の不興を買ったという話があることです。
 というのも白馬四頭立ての戦車は神にのみ許された行為だったからなのだそうですが、後の凱旋式では四頭立ての白馬は当たり前になっており、それどころか凱旋将軍はその顔を赤く塗って、ローマの主神ユーピテルの姿を真似るようになってさえいるのです。神と人の別がある時代と、自らを神と称した帝政期の違いが見て取れるのかも知れません。
 そのこともあって、ローマを追われたカミルスですが、アッリアの戦いに敗れ、建国以来初めてガリア人のブレンヌスの手にローマが落ちたその時、舞い戻ったカミルスによってかろうじて救われました。始祖王ロムルスと並び、第二の建国の祖と称されるのもその為なのです。

 もう一つ気になったことに、凱旋の行進はセルウィウス城壁の外、マルスの野、カンプス・マルティウスからカピトリウムの丘にあったユーピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿に向けて行われるのですが、その時戦車に乗った凱旋将軍を指差す従者、あるいは奴隷とも云われる人物がいます。彼は、列を成す民衆に讃えられ、絶頂の只中にある凱旋将軍を指差しながら「メメント・モリ」と叫び、英雄と称されるこの者もいずれ死を避けられないという警句で、栄華の内に潜む破滅をローマ市民の胸に刻ませたのだといいます。
 しかし、これは果たしてどの程度事実なのでしょうか?と言うのも、メメントモリが「汝の死を忘れるな」という生者の驕りを戒め、自省を促す警句の意味合いを持つのはキリスト教の影響からともいい、あるいはローマの伝染病による人口減少と社会不安がローマ人の意識を変え、それがキリスト教受容に繋がったのかも知れません。
 いずれにしろ、共和政期のメメントモリはどちらかと言うと「汝の死を忘れるな(だから今を楽しめ)」と言う意味合いの方が強く、その意味からすると「カルペ・ディエム」つまり今日を摘め、という成句に近いものになるようです。

 ですから警句としてのメメントモリは、少なくとも共和制期において成立しないのではないかとおもいますが、ゾシモスの「新しい歴史」の訳を載せる本では「後ろを見よ」となっています。現在の状況に驕ること無く将来に備えよという風に、これなら警句としての意味が通るのですが、果たしてどちらが正しいのか、どこかでメメントに変わったのかはわかりません。この部分が後ろを見よならば、ヴィダポストなのかも知れませんが格変化やらが全く分かって無いので適当です。

 それにしてもかつてバブル期だったか、ポストバブルだったかに、やたらとローマやカルタゴと日本が比較された時期がありました。寧ろ人口が減少に転じる今の方が、ローマを語るにふさわしい時代のような気もしますが、識者が「ローマに習え!」というのは北欧に学べというのと同じで、牽強付会の戯言に過ぎないと思います。
 あの頃は丁度、塩野七生の本が売れた時期でもあったのでしょう。一応それらに目を通したにも関わらず、ぜーんぶ綺麗さっぱり忘れてしまい、唯一、最後の著者紹介の「イタリアに遊びつつ学ぶ・・」という一文が妙に引っかかっているだけです。
 あの表現でこの人は何を言いたかったのでしょうか?留学ではなく遊学ということでしょうから、その時代からすれば大層なお金持ちのはずですが、そんな事を自慢したい訳ではないのでしょう。あるいは、ルネサンス期に周辺国がこぞってイタリアへ子女を送ったことになぞらえているのかも知れません。