和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

ショコラブランとフランボワーズのお菓子

2012年04月20日 | 菓子作り、料理作り
 お菓子作りについてはブログ記事として上げるのは、メディアについてのある理由から取り止めていたのですが、久しぶりに作ったのはこちらのお菓子。とは言え、画像がありません。画像も無いのにアップするとは何と言う手抜きと言われても仕方ありませんねえ。
 製菓の専門的な材料を紹介している本を読んでいて見つけたプロのレシピですが、一部を変更しました。自分のような素人でも十分に製作可能なものになっていますので、やる気さえあれば誰でも作れると思います。

 それにしても人の味覚というのは不思議なもので、夏の間あれほどハマっていた軽いムースやババロア、ゼリーなどが、少し寒くなるともう全然欲しくなくなり、チョコとか何かもっと濃厚なものを求めるようになるのですから。
洋菓子の本場のあちらの方々が、かなり甘ったるいものを好むのも気候が関係しているのでしょうか。オペラなどで使われるバタークリームは、日本人にはどうも合わないようです。というか、個人的には子供の頃の嫌な思い出で、ケーキの生クリームの部分に比べてバタークリームの部分はくどくて美味しくなく、どうしても好きになれませんでした。しかし今思うと、あれは本物の材料、つまり良いバターを使った良いモノを食べてなかっただけで、もしかしたらバターでさえ無いマーガリンのクリームだったのかも知れません。

 多くのプロパティシエが本場フランスの材料に比べ、日本のものは風味やコクに欠けるという指摘をされます。特に生クリームの性質の違いは特筆するものがあるようで、日本のシャンティイがデリケートな扱いに気を使うものであるのに対し、フランスのそれは野性味溢れ力強い、喩えではなく非常にクリームの持ちがよいものなのだと指摘しています。
 私は勿論、本場の物など知る由も無いのですが、製菓材料に限らず普通の食材にも違いが表れるのは、風土の主に土の性質の違いが大きいのではと考えます。しかし、それが決して優劣の問題ではないはずなのですが、西洋菓子や西洋料理の本場がフランスである以上は、物足りなさを感じる事があるとしても仕方無しなのかも知れません。
 ところが、ある高名なパティシエがその著書に於いて、日本と本場の食材の違いに触れ、その理由を日本の農産物が化学肥料と化学農薬にまみれてるからだとでもいうような、何ともお粗末な論理を展開していたりするのです。その道のプロであっても道から外れるとやはり門外漢で、世間一般にまことしやかに語られる化学物質へのアレルギー的な感情論に流されるのはとても残念な事です。

 気候風土が異なる事による農産物の性質の違いは、水の差異を想像すれば分かり易いのかも知れません。雨として降り注いだ水は、大地という天然のフィルターを通るので、結局土の性質の違いになるのですが、ミネラル分豊富なアルカリ性土質のの欧州では硬質な水が多く、日本では軟水が一般的なのです。だからと言って誰も、硬水だから優れていて、軟水だから劣っているとは思いません。それは優劣ではなく、ただ性質の違いに過ぎない事を誰もが知っているからです。
 素材の味をいかに変えるかがフランス料理だと云われた時代から随分様変わりして、日本料理のうま味や出汁を参考にした新しい試みもなされている様に、時代により正解は違ってくるのでしょう。
 刺身や寿司といった鮮魚食も10年前とは隔世の感があり、世界中で食べられるようになりました。でも、どんな衛生状態で調理がなされているか分かったものではありませんから、個人的にはわざわざ海外でそれらを食べたいとは思いません。暗黙の信頼っていうのが如何に大事な事か、外に出てみると思い知らされます。自分としては一定の基準として、スシポリスが有っても良いと思っているのです。
 かつては生魚や、手で握ったモノを食べるなんてと馬鹿にしていた人達が、最近では海外の人気を受けてか、寿司の起源を主張しているのを聞くと、怒りを通り越して憐憫を感じさえします。ましてやおにぎりの起源などというのは、将に噴飯物の話ではないでしょうか。

 脱線はここまでにして、スポンジではなくパートシュクレのタルト生地を下焼きし、クーベルチュールのショコラアメールをフランボワーズピュレとあとで分離しないよう十分に合わせたガナッシュにして流し込み土台とします。
 そこに生クリームを泡立てて塗り、ピュレをくっ付き易くします。上に乗せるのは、ショコラブランのムースに変更しました。ピュレの中央にはあらかじめ作っておいたフランボワーズのジュレを押し込み、ナパージュするとほぼ完成です。本物はピストレをして更に綺麗に飾りますが、流石にそれは無理って話です。

 ここのところ、かなり立て込んでいて更新ができていませんでしたが、まあなんとか生きています。
 


歴史とは斯くも愉しき哉

2012年03月06日 | Weblog
 興味の無い方には残念ながら、凱旋式の警句について続きなのですが、これが中々に複雑で面白いものなのです。凱旋式にて凱旋将軍に対して、とここまでは共通する話なのですが、
 誰がは、使用人というものと、奴隷とするものがあり、その人物が、凱旋将軍の戦車に同乗するものと、そうでないものがあります。

 さてここからが問題で、何を言うかについては「メメント・モリ」を筆頭に「後ろを見よ」というものがあることは前回書いた通りなのですが、別の本では「貴方は神のごとき装束を纏っておられますが、死すべき身分のものでございますぞ」と囁き続けた、とあります。背後に控えた奴隷がとして、これが果たしてメメントモリを口語意訳したものに過ぎないのか、そうではなく将にこの科白そのものを吐いたのか、正直判断がつきかねる所なのです。

 更に混乱に拍車をかける事に、高名なローマの歴史家リウィウィスの言葉では「気をつけよ、タルペーイアの岩はカピトリヌスに近し」という風に言ったと書かれており、これは全く違った台詞になっています。警句であることは何と無く伺えるとしても、これを理解するにはタルペーイアとカピトリヌスの二つの語句についての更なる説明が必要になると思います。

 タルペーイアの岩とはローマ七丘の一つ、カピトリヌス丘(現カンピドーリオ)にある旧跡で、丘から突き出たこの岩から、古代に罪人を突き落として処刑をしていたという謂れのある場所です。(などと実際には行った事も見たことも無い奴が、知ったように説明してるのがこの文章の肝で、机上旅行に興じているのだと思ってください)
 タルペーイアは、ローマの始祖王ロームルスの時代まで遡る話なので、果たして何処まで真実を伝えるものか定かではありませんし、諸説あるものを取捨語って行きます。

 女性の割合が少なかった初期のローマにおいて、ロームルス達は近隣のサビニ人を騙してサビニの女達を手っ取り早く強奪しました。当然、サビニ人達と紛争に発展しますが、ローマ側の砦を守る司令官タルペーイウスの娘タルペーイアが、ローマを裏切ってサビニ人の王タティウスに砦に通じる道を内通したというのです。
 これは、タルペーイアがサビニ人の王タティウスに一目惚れをしたのが裏切りの理由とするものと、金や宝石に目が眩んで裏切った話などがあり、裏切りの報酬を求めたタルペーイアに対し、タティウスは持っていた腕輪を投げつけて彼女を気絶させます。それに続く兵士達が投げた腕輪や楯の山に押し潰され、タルペーイアは死んでしまいました。
 爾来、ローマではこの岩において国家犯罪者を処刑する様になったといいます。

 一方、カピトリヌスとは執政官を勤めたマルクス・マンリウス・カピトリヌスの事で、古代共和制ローマの転換点、BC390年にガリア人ブレンヌスによってローマが陥落させられた時、かろうじてカピトリヌス丘に残った防衛隊の一人でした。
 夜影に乗じて奇襲を仕掛け、一気に丘を奪おうとしたガリア人でしたが、カピトリヌス丘にあるユーノー神殿に飼われていた聖なるガチョウがその気配に驚いて騒ぎ出します。ローマ兵達も異変に気付いて目を覚まし、ガリア人を何とか撃退しました。
 それを讃えて、マンリウスはカピトリヌスの名で呼ばれるようになるのですが、その後に、王になろうとした廉でタルペーイアの岩から突き落とされてしまいました。この事を指すのが「気をつけよ、タルペーイアの岩はカピトリヌスに近し」という科白な訳で、確かに警句として成り立つものです。

 しかし、マンリウスが本当に王を目指したのかは分かりません。共和政下において独裁的な王制の復活は、ローマ市民の最も唾棄すべき事柄でしたし、権力闘争というか、足の引っ張り合いは日常茶飯事のローマ政界で、彼が元老院の不正を告発した事が議員の恨みを買い、嵌められただけだったのかもしれません。
 それにカピトリヌスの丘を死守したとは言え、結局ローマはブレンヌス率いるガリア人に賠償金を支払うことでローマを取り戻したのです。ブレンヌスが賠償金を量る天秤に不正な細工をしたのを知り、ローマは抗議をしますが「敗者に災いあれ」という侮蔑の言葉を投げつけられるのです。
 将にその時、颯爽と現れて、佩いていた剣を投げつけ「ローマは話し合いではなく、剣でお返しをする」と言ったのが、ローマを追放されていたマルクス・フリウス・カミルスなのですが、この話は「ローマ人の物語」には描かれていません。紙面を割けなかったのか、後世に潤色されたものと考えたのかも知れません。確かに余りにタイミングが良すぎる話で、名誉を何より重んじるローマ人にとってこの事件は酷い屈辱でしたから、歴史は勝者によって作られる典型と見ることも出来ます。

 最後に一つ、カピトリヌスのユーノー神殿は、ガリア人を退けたことでモネータ、警告するという意味の性質を付され、ユーノー・モネータ神殿と呼ばれるようになります。この神殿の隣にローマの造幣所が丁度あった事から、ローマでは貨幣の事をモネタと呼ぶようになるのですが、何と英語のマネーがこのモネータに由来するものなのだそうです。
 

ローマを見ずに結構と言うなかれ

2012年02月12日 | Weblog
 毎年、年が明けると性懲りも無く今年の目標を幾つか決めたりするのですが、その一つにタイトルにある様に、一度ローマをこの目で見たいというのがありまして。「ナポリを見て死ね」と「日光を見ずに結構云々」というのを混ぜている訳ですが、個人的には風光明媚なナポリよりは、歴史が重層的に濃く存在するローマあるいはフィレンツェの方が訪れたいところです。
 ただ今年来年にイタリアに行く、という話では全く無くありませんので(そんな余裕はどこにも無い)、今年の目標とはちょっと違うのかもしれません。兎に角、ローマに立つその日が来ることを願って、先ずは歴史の勉強などをしていこうかなという意味です。 

 ローマの歴史は戦争の歴史といいます。
 そのローマにおいて、正式な手順をを踏んだ敵との戦闘に勝利し、戦争を終結させた場合、司令官は「インペラトール」の歓呼賛称を兵士から受け、勝利報告の使者をローマへ走らせます。それを受けて元老院が召集され、凱旋式を行うかの可否が審議されて、採択された場合は国費を使って盛大に凱旋式が執り行われるのです。
 勿論ロ-マの歴史は長く、王政から共和制の時代を経て、帝政期へと移るにつれ凱旋式の内容に変化が生じるのは当然なのでしょう。凱旋式自体が始まったのが共和制の時代と云われ、あのハンニバルを破ったスキピオ・アフリカヌスが最初と言う話や、もう少し古く共和制ごく初期のウァレリウス・ブプリコラがエトルリア人との戦いに勝利した時、戦車に乗ってカピトリウムの丘に登ったことが凱旋式の始まりという話もあります。
 面白いのは共和制初期、難攻不落といわれたエトルリアの主要都市ウェイイを陥落させたマルクス・フリウス・カミルスが、四頭立ての白馬に曳かれた戦車に乗って凱旋を行ったところ、神を冒涜する行為として人々の不興を買ったという話があることです。
 というのも白馬四頭立ての戦車は神にのみ許された行為だったからなのだそうですが、後の凱旋式では四頭立ての白馬は当たり前になっており、それどころか凱旋将軍はその顔を赤く塗って、ローマの主神ユーピテルの姿を真似るようになってさえいるのです。神と人の別がある時代と、自らを神と称した帝政期の違いが見て取れるのかも知れません。
 そのこともあって、ローマを追われたカミルスですが、アッリアの戦いに敗れ、建国以来初めてガリア人のブレンヌスの手にローマが落ちたその時、舞い戻ったカミルスによってかろうじて救われました。始祖王ロムルスと並び、第二の建国の祖と称されるのもその為なのです。

 もう一つ気になったことに、凱旋の行進はセルウィウス城壁の外、マルスの野、カンプス・マルティウスからカピトリウムの丘にあったユーピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿に向けて行われるのですが、その時戦車に乗った凱旋将軍を指差す従者、あるいは奴隷とも云われる人物がいます。彼は、列を成す民衆に讃えられ、絶頂の只中にある凱旋将軍を指差しながら「メメント・モリ」と叫び、英雄と称されるこの者もいずれ死を避けられないという警句で、栄華の内に潜む破滅をローマ市民の胸に刻ませたのだといいます。
 しかし、これは果たしてどの程度事実なのでしょうか?と言うのも、メメントモリが「汝の死を忘れるな」という生者の驕りを戒め、自省を促す警句の意味合いを持つのはキリスト教の影響からともいい、あるいはローマの伝染病による人口減少と社会不安がローマ人の意識を変え、それがキリスト教受容に繋がったのかも知れません。
 いずれにしろ、共和政期のメメントモリはどちらかと言うと「汝の死を忘れるな(だから今を楽しめ)」と言う意味合いの方が強く、その意味からすると「カルペ・ディエム」つまり今日を摘め、という成句に近いものになるようです。

 ですから警句としてのメメントモリは、少なくとも共和制期において成立しないのではないかとおもいますが、ゾシモスの「新しい歴史」の訳を載せる本では「後ろを見よ」となっています。現在の状況に驕ること無く将来に備えよという風に、これなら警句としての意味が通るのですが、果たしてどちらが正しいのか、どこかでメメントに変わったのかはわかりません。この部分が後ろを見よならば、ヴィダポストなのかも知れませんが格変化やらが全く分かって無いので適当です。

 それにしてもかつてバブル期だったか、ポストバブルだったかに、やたらとローマやカルタゴと日本が比較された時期がありました。寧ろ人口が減少に転じる今の方が、ローマを語るにふさわしい時代のような気もしますが、識者が「ローマに習え!」というのは北欧に学べというのと同じで、牽強付会の戯言に過ぎないと思います。
 あの頃は丁度、塩野七生の本が売れた時期でもあったのでしょう。一応それらに目を通したにも関わらず、ぜーんぶ綺麗さっぱり忘れてしまい、唯一、最後の著者紹介の「イタリアに遊びつつ学ぶ・・」という一文が妙に引っかかっているだけです。
 あの表現でこの人は何を言いたかったのでしょうか?留学ではなく遊学ということでしょうから、その時代からすれば大層なお金持ちのはずですが、そんな事を自慢したい訳ではないのでしょう。あるいは、ルネサンス期に周辺国がこぞってイタリアへ子女を送ったことになぞらえているのかも知れません。

 

それから一週間後

2011年12月28日 | Weblog
 前回は普段全く行かないカフェというものに入って何だかんだと話し込んでしまい、その日は東大寺ミュージアムに行けず仕舞いでした。

 ある施設を改装したと云うそこはとても雰囲気のあるカフェで、窓ガラスの少し歪んだ透明感などはそういう昔の作りなのか、液体のガラスが経年で塑化した結果なのかは判りませんが、空間を構成する各素材が規格化された大量生産品には無い、年を重ねて角が落ちたような味わいを醸し出しており、とても心地良い場所でした。
 ただ、メニューは少々お高い感じで、他の人が頼んでいたデザートのプレートを見てもうーんと唸ってしまうようなモノだったのは残念な感じです。雰囲気カフェということで初見には良いとして二度三度となると躊躇すると言うか、まあ普段カフェに全く行かない者の放言ですので捨て置いてください。

 そんな訳で、前回余りに紅葉が美しかったので光の射す中でもう一度見てみたいと、翌週にも同じルートを辿ってみました。数日遅く見ごろをほぼ過ぎて色褪せたものが多かったのですが、やはり山中は逆に色が残ったものもちらほらとあり、午前中は雲も多かったにしろ本当に今年の見納めとなりました。

 山中を歩いている頃に、丁度マラソンがスタートしたのが花火の音で分かりました。それから一日中ヘリのパラパラ音と太鼓のドコドコ音が遠くで聞こえる中、奥山ドライブウェイはマラソンによる混雑緩和のためか高円側からの逆路ルートも開放されており、他県ナンバーに混じって地元っぽい車の通りも頻繁でした。マラソンの日はドライブウェイを車で逆走するという貴重な体験を、きちんと調べていませんがもしかしたら無料で出来るのかも知れません。ただ、順路からも当然車が来るので対向が危険なのと、心なしか皆急いでいるのでゆったりドライブと言う訳には行きませんが。 



 


 東大寺ミュージアムの不空羂索観音そして伝日光月光菩薩に関連して、法華堂八角須弥座下段に計七体の塑像に相当する跡が残っていたという報告を聞いても、個人的にはこれらの塑像が本来の一具として造仏されたとは全くもって考えられません。これについてはまた後日語る事も有ると思いますが、論理的ではないのであまり書くに値しないにしても、実際に各像を目の当たりにすると何となく誰でもそう感じると思うのですがどうでしょうか?
 それよりも目を引いたのが二体の小金銅仏で、解説によると奈良時代の釈迦と多宝仏という事でしたが、そうなると法華経の見宝塔品によるもので、大衣に施された装飾紋が特徴的なちょっと他で見た事が無いような仏像がありました。
 それもそのはずで、これはどうやら戒壇院に安置される多宝塔内に納められていた仏像で、しかも寺伝によると元は鑑真が来朝した折に唐より将来した大陸製の仏像と言われ、当初の戒壇院の多宝塔にあったもののようなのです。それを知ってみると、もう少し丁寧に見てれば良かったと後悔するほどに不空羂索観音と伝日光月光像が印象的だったのでした。

紅葉は今が盛りです

2011年12月05日 | Weblog
 二週間も遅れた結果、奈良公園の紅葉は今が盛りです。東京からの友人と共に微妙な天気の中、春日山中に分け入りました。午前中は晴れ間も見え、雨にもほぼ降られなかったというのは奇跡的かもしれませんが、やはり紅葉は太陽の光があって映えるものだと思います。山中ではあと少し紅葉が残るのではないでしょうか。