和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

ハサとキボシとダンバサ

2009年10月29日 | 和州独案内
  

 ハサ架けの話を書こうとしたら、脱線してしまったので気を取り直して
県内では見られないと思っていたキボシ(木乾し)あるいはカケマツ、ハダともいう、のハダ木が思わぬところで見つかりました 桜井の粟原の辺りです。当然ながら使われてはいませんでしたが、脱穀後の藁は巻かれており、紛れも無いはさ木です。
 
  

 ある資料によると、キボシの分布は香芝の平野、月ヶ瀬の桃香野、下市の広橋、御杖の菅野それから榛原の赤埴などに見られるとしていますが、調査地は限られているため、漏れは十二分にあり、粟原もその一つでしょう。赤埴の集落でハダ木が残っているところといえば恐らく集落の一番奥、諸木野に抜ける辺りしか思い浮かばない位に基盤整備で風景は変わってしまっています。
 標準的な馬型のハダは、部材の持込みが出来ないために組めないような、中山間地域のいわゆる棚田で利用された方法なのでしょう、きれいに盆地周縁部に分布しています。更に山奥に分け入ると、段ハザや棚ハダと呼ばれる数段に重ねる架け方が一般的になります。これが果たして日本海側で見られるような二、三メートルも屏風のように積み重ねられる代物かは分かりません。
 ハサ木の種類も詳しくは分かりませんでしたが、少なくともトネリコではなかったと思います。

  

 こちらが平坦部で最も一般的な馬型のハサで、この横木はカコやナル、ヒソと呼ばれるらしい。最も古い形態は畦や圃場にそのまま刈り倒して干すノボシ(野干し)で、そこから立ち木架けに進み、立ち木を棒に替えて圃場で干したのがニオ、ホニオ(鳰、穂鳰)になるのかな、近畿ではススキと呼ぶのかもしてません。そのニオ積みは何故か飛鳥で見られますが、あれがいつから有ったものか良く分かりません。
   

 東北地方でよく見られるニオですが、あの百姓一揆の様に田んぼ一面にニオが立ち並ぶ壮観な風景は、稲の奨励品種が出来て栽培時期が画一的になってからの事であって、決して古いものでは無いとのことです。案外新しい風景だと言うのは意外ですが、先入観とは厄介なものです。
 県内のハサの種類と分布もどの位古くまで遡れるのか解りませんが、かつても時代と共に技術革新により風景が一変した事も有ったはずです。田んぼや棚田と言うと「日本の原風景」などとよく云いますが、そのこころは、農から離れ主体性を無くしたセンチメンタリズムなのかも知れず、安易に使うのがためらわれます。

稲架と書いてハサと読む

2009年10月26日 | 野菜大全
 稲刈りが終わると田んぼの様相は一変してしまいます。ハザがけをしている農家もほとんど見なくなり、見つけても脱穀後の稲藁を乾燥させているに過ぎません。 バインダ、ハーベスタの登場は、ハザがけの天日干しを前提にした機械化でしたが、コンバインと乾燥機の登場で収穫の工程は一気に短縮化されました。グレインタンクとブーム(オーガ)付きで軽トラックと連動して収穫すれば、一人か二人で反一時間もかかりません。 稲藁も収穫と同時にカッターで細かく裁断され、田んぼに還元されるようになりました。東北のように根雪の心配も無いため、刻まれた藁は秋冬の起こしで土中に漉き込まれ、春までの間に土中で分解されます。寒の厳しい東北では、漉き込んでも微生物の活動が弱く藁が春の田植えまで残ってしまい、湧いてしまうことがあるために燃すのが一般的です。
 それにしてもかつての稲藁の利用範囲は広く、生活に深く根ざしていました。今でも特に苗の鉢土づくりに稲藁は絶対欠かせません。わら堆肥も良いのですが、分解が早く毎年施さなければなりません。せん断して窒素源と合わせて積み上げながら水を掛ける、しばらくすると切り返すなど好気性の堆肥づくりは結構手間が掛かるものです。
 そのためあまり利用しませんが、自分の勝手な「はかり」では稲藁を基準の一と考えています。麦わらを二、トマト残渣が三、籾殻なら五と言う具合です。何の事かというと分解に掛かる年数と言うか、土にすき込む際の自分なりの指標とでもいいますか。
 先ずCN比と言うのがあって、有機物を炭素と窒素の割合で見ると、炭素成分が高ければ分解し難く、逆に窒素成分が高ければ腐敗し易い。そこで、炭素に対して窒素を補いながら堆肥を積んでいくわけです。土中にそのまますき込む場合にも窒素飢餓(投入した有機物が分解時に、土中窒素を奪い窒素切れの状態になる)を起こさずに分解できるかを計る目安ですが、正直面倒なので余り使いません。
 そこで大体の目安として、一年で形が無くなる藁を基準の一にして、他の有機物を比較する訳です。うちで一番利用するのが籾殻ですが、五と言ってる通りそのままでは難分解性で、すき込めば有害な有機酸も出すでしょうし、窒素飢餓を引き起こすでしょう。でも難分解なのはケイ酸の宝庫だからこそで、これを利用しない手はありません。そこで大量の米ぬかと一緒に漉き込み、ビニルで蓋をしてひと夏過ぎれば三か四くらいに成ります。米ぬかは1トンで15㎏程(これも基準)しか窒素がありませんので、それこそ大量に必要です。

  

 夏越しで上記の方法を行なうととても良い結果を得られます。雑草の種や害虫も蒸し殺せて今後は多少やり易くなるでしょう。いわゆる「土壌還元太陽熱消毒」のことで、土の表面は雨に打たれて硬くしまった皮膜が出来ているように見えますが、これまでと違い簡単に掘り込めてぼろぼろと崩れ、菌糸が回った跡が窺えます。

  

 珍しくも無いことですが、次はこれを冬越しでやろうと考えてる訳です。1a程に籾殻がヌカロンで20袋分以上と約200キロの米ヌカ、補助として鶏糞と石灰窒素を加えてじっくり土中醗酵させようというもので、石灰窒素以外は有難い事に地域資源ということでタダです。土が適度の湿気を有していれば、それ以上に雨に当てるよりビニルで蓋をした方が養分の流亡を防げるので蓋をします。

  

 ここにきてロコトの実は肥大充実共に良好で、この緑果が赤くなるのか黄色くなるのかは霜降のリミットまでのお楽しみですが、今までに無い豊作になるのだけは間違いありません。やはり枝が下がると生殖成長のスイッチが入るのか、こんな大きな実が10個以上と、小ぶりなものが20個程は余裕で収穫出来そうだ。そうなるとファルシーを作るのには十分な量になります。
 枝を上げると栄養成長、下げると生殖成長ってのは適当な話かと思ってましたが、案外まともな理論なのですね、そうなると紐誘引の方が良いとう事になるか。
  

ハサのことを書くつもりが脱線しました、また次に続く

  
 
  


  

ゴボウとカルドン

2009年10月18日 | 野菜大全
 ゴボウはキク科の多年生植物です。これを食用にするのは日本の他には数える程の国しかないそうで、確かにこんなものを最初に良く食べようとしたなと思うものです。
 しかし、西洋ゴボウとも呼ばれるサルシフィ(あるいはスコルツォネーラとも言う)を西洋で食べている事を考えると左程珍しい事とも思えません。ましてや木の根っこを食べている等という誤解があったのはおかしな話です。尤も、サルシフィを食用とするのは、今でこそヨーロッパからアジアに広がってはいるらしいが、依然としてメジャーな野菜とは言いがたいのは違いない。
 サルシフィ、スコルツォネーラはスペイン南部の地中海沿岸が原産で、カキのような味がする為に別名ベジタブルオイスターとも呼ばれる。和名にはバラモンジン(婆羅門参)といういかにも海外から薬用に渡ってきた事をうかがわせる名前がついています。スコルツォネーラscorzoneraは黒い毒蛇の意でスペインやイタリアでそう呼ばれる。黒く細長い見た目や、切るとすぐににじみ出るアクといい、黒い毒蛇とは言いえて妙ですが、だったら何故食べた?とツッコミを入れたくなります。
 というかサルシフィーの話をしたい訳ではなく、ゴボウとカルドンの話なのですが、一般的にゴボウと対比されるのはやはりサルシフィーの方であるのは間違いありません。でもそれでは面白くないのでカルドンな訳で、カルドンとの奇妙な共通点を見つけたからなのです。

 カルドンcardoonカルドcardoはキク科の多年草で地中海沿岸が原産、アーティチョークの近縁種であるといえばすぐ分かると思います。花が比較的に小さいのとトゲが激しいのを除けばまんまアーティチョークです。葉は肉厚で薄緑色のザラリとした触感があり、繊維質が多く食用に適するとは思えない感じです。
 
  
                          カルドンかアーティチョークか、もう誰も分からない

 六、七月頃に二m近く茎を伸ばして花を着け、葉も80cm程に大きく茂りますが、花と共に夏枯れをして全体が枯れ込みます。そして秋冬に向けて新しい葉がまた展開するという生活史を自然の状態では繰り返しています。
 アーティチョークは花のガク片や花底部を食しますが、カルドンはその葉っぱや茎を利用します。この葉の柔らかい部分を、そのままレモン水につけてアクを抜き利用することもありますが、それよりも興味深いものがあります。
 カルドン ゴッボ ディ ニッツアcardon gobbo di nizzaは「ニッツアの猫背のカルドン」という意味で、特定の品種というよりは、特別な栽培方法によって出来た、特徴ある姿を語った名前です。
 このカルドン ゴッボは四、五月に種を蒔き、腰高に成長したものを九月頃に掘り上げて、新しい畝床に移植をするのですが、その畝床で斜めに定植をしてその上から軽い土をかける栽培法を採ります。いわゆるふかし軟白栽培によって、エグ味を和らげ茎葉の繊維を柔らかくする効果を狙っているのでしょう。わざと斜めに植えるので茎が曲がってしまいます。その姿を猫背あるいはせむしと言う意味のゴッボと呼んでいるのです。何故斜めに植えつけるのか詳しくは分かりませんが、旨みや栄養価を高める可能性があり経験的に斜めに植える方法に行き着いたのだと思われます。
 こうして栽培されたカルドンゴッボはイタリア北部のピエモンテ州の郷土料理バーニャカウーダには欠かせない食材として珍重されているといいます。ニッツアはピエモンテ州の基礎自治体(地区や集落のようなもの)であるコムーネのうちの一つで、ニッツアモンフェッラートのこと。これをフランスのニースと誤解しているものが巷では大半ですし、自分もそう思っていましたが、ここではコムーネの方が意味が通ります。他のコムーネに同じピエモンテ州のキエリやアスティ(ワインで有名)のカルドが知られます。

 ここまででゴボウとの関係にピンと来た人は相当な野菜通でしょう、ゴッボとゴボウ・ごんぼが似ているとかいうのは勘弁してください。
 
 さてゴボウはゴボウでも、一風変わった栽培をするのが堀川ごぼうです。京都の歴史を凝縮したこれぞ京野菜といえるものですが、栽培方法が特徴的なのであって品種はごく一般的な「滝野川」なので、京野菜の認定が遅れたとも言います。
 堀川ごぼうの歴史は、太閤秀吉が建てた聚楽第が豊臣家の没落と共に壊され、その堀も周辺の庶民のゴミ捨て場として次第に埋められていった中で、偶然見つけられたのが始まりだと云い、これ程野菜の歴史・由来が生き生きと語られる野菜も珍しいと思います。
 その由来をなぞるように、堀川ゴボウの栽培方法は十月の上旬に播種し、冬越ししたものを翌年の六月頃に掘り上げます。それを60cm程に切りそろえて改植するのですが、その時の植え付け角度が「斜め15度で南向きに」植えつけなければいけないといいます。角度が浅すぎても深すぎても良いものが出来ず、その上に敷き藁を厚く敷いて乾燥を防ぎます。
 そうすると十一月頃から太く肥大した、中が空洞の堀川ごぼうが出来上がるということです。おわかりいただけたでしょうか?以上が堀川ごぼうの特徴で、わざわざ斜めに植えつけると言うカルドンゴッボとの奇妙な共通点でもあります。

 カルドンゴッボの軟白栽培は、ベルギーのブリュッセル国立植物園の園芸師ブレジエによって偶然に編み出された、ウィットルーフチコリーの栽培法を応用したものではないでしょうか?1830年代にブレジエが始めたチコリの軟白栽培は、彼が死ぬまで彼ともう一人を除いては知り得ぬ門外不出の技術として守られましたが、彼の死から30年後の1860年代には、ベルギー人ボーレによってイタリアに渡り、ラディッキオタルディーヴォの軟白栽培が行なわれるようになります。その後、カルドの軟白も試みられたと考えてみましたが微妙ですね。
 よーし来年はカルドンゴッボも作ってみるか(まーた言ってるよ) 堀川ゴボウには挑戦するつもりで、既にほんの少しですが種を蒔きました。  
 
 基本的にこういう種は国内で取り扱っておらず、ネットで海外からの直接取り寄せか代理店を利用する事になります。カルドンに限らず珍しい野菜を作りたいという人は多いと思いますが、元袋を独自に小分けにして販売しているところは概してかなり割高ですので、せめて海外の元袋のまま販売するところを選ぶほうが良いかとは思います。 
  

 
 

台風被害まとめ

2009年10月14日 | Weblog
 今回の台風の被害は殆どありませんでしたが、予定通りナスが終了となりました。大して管理もせぬままにと課題が多いにもかかわらず実をたくさん着けてくれた。仕立て方に未だ迷いがあり三本になったり四本になったり、最初はきゅうりネットを張って三本垂直仕立てにしようかとも思ったが、ネットの張りが苦手で誘引に相当時間がかかりそうだと思い止めた。紐誘引の基本三本、途中以降放任に近いと云ういい加減さからか、千両本来の果形にならず下膨れになってしまうものが多かった。それでも皮の柔らかさと実の美味しさは、他のどんな品種にも劣らぬナスのロングセラーです。
 外畝に植えた枝豆に惹き寄せられたホソヘリカメムシが大量に湧き、ナスの果皮表面を汚したのには困った。枝豆が終わったにも拘らず、彼等は移動すること無く吸汁するわけでもなく居座っていたのは何故だろう。集合フェロモンがあるのは分かるが、実は吸汁されていたので果形が乱れたのかも知れない。ナスへのホソヘリの寄りは枝豆だけでは説明できないほどだった。それにしても、ホソヘリの若齢幼虫は羽根も無く、本当にクロアリそっくりだったが、やはり擬態しているのだろうか?大量の元肥を投入するナスと枝豆は合わない事だけは今更だけどはっきりした。

  
                    基部は相当に木質化しておりハサミでは切れずノコギリの登場

ロコトの幹がきれいに折れてしまいました。が、皮一枚で繋がっており、枯れるほどの影響ではないみたいなので、他の枝も合わせて何とか十個くらいは収穫できるのではと思っています。ピンポン球大から変形果までそろいが悪く、現在の緑果から着色までがまた長いので青採りも考えたほうが良いかもしれない。

  

 ピーマン、万願寺は斜めに倒れつつも生き残っている。予期せず太陽に晒されることになった果実表面が変色してしまった。どうやらこれはアントシアニンを発色させて紫外線から果実を守ろうとする防御反応のようです。断根による根傷みが原因かとも考えましたが、見事な位に太陽に晒された果実のみが変色している事から間違いは無さそうです。消費者は嫌うので余り出荷に適しませんが、思わぬ機能性を持った万願寺ができました。紫シシトウの原形質を既に持っているということなのでしょうか、ピーマンにはこういった反応は無く、日焼け果は水ぶくれを起こして窪んでしまいます。同じカプシクム属でも違いが有るのは面白い。

  

 さて、テレビの天気予報で白浜上陸の可能性を口にしたのは、やはり釈然としません。気象予報士も台風情報は独自の判断が出来ないはずですから難しいところで、あれは注意喚起であり、予報円にかかっている以上可能性はあった訳ですが、台風が右側を通るか左側を通るかは死活問題になります。二日前から米軍情報がほとんど予報を変えなかったのに比べて、気象庁予報は刻々と変化するために信憑性を高く感じてたのですが、やはり結果論とは言え結果がこれでは複雑な心境になってしまう。
 いずれにせよ、久しぶりの台風の上陸と接近は、貴重な経験になりました。自然だから仕方ないでは無く、出来るだけ足掻いて足掻いてその結果なら仕方ない、というのが望ましいあり方だと考えるようになりました。   もちろん台風通過中に水路を見に行くような事はしませんよ

 話は変わり数ヶ月前の件になりますが、遷都千三百年のボランティアガイドの申し込み期限をうっかり忘れていて、一日遅れてしまい参加できなくなりました。残念ですが期限も守れないようでは資格無しでしょう。参加される方は是非楽しんでください。来年は取りあえず奈良検定の認定講座に一つくらいは参加出来たらなあと思っています。 

穴師坐兵主神社

2009年10月11日 | 和州独案内
 山の辺の道を歩く人は多いですが、兵主神社はルートからかなり外れた、登りの一番奥まった所に位置している為に、訪れる人が余り多くない神社です。山の辺の道の、三輪から石上を踏破するには半日以上を費やす覚悟は必要なので、どうしてもルートを逸れる事を躊躇してしまいます。一度目は仕方がないにしても二度、三度と歩くときは、是非もう少し足を伸ばしてみることをお薦めします。きっと違った風景に出会えるはずですから。
 そんな山の辺の道が桧原神社を過ぎて、山裾をゆるりとカーブしながら巻向川を越え、集落を横切ったところで兵主神社の参道と交差しています。下手の県道に向かって一の鳥居が立っており、そこからひたすら登りの参道が続いているので、その途中で山の辺の道とクロスしている訳です。
  
  
 交差地点から少し登ると、景行天皇纒向日代宮跡の石碑があり、更にその上方にあるベンチからは伝景行天皇陵の渋谷向山古墳の全容が観察できます。黄金色の絨毯を背景に見る全長約三百mの巨大前方後円墳は、この地域の盟主墳らしい圧倒的な存在感を漂わせて、周囲に陪塚を従える様子が良く分かります。今でこそ東の後円部から西の前方部に向けてなだらかに勾配し、四方に水田が広がる風景ですが、古くは南北に流れる烏田川と西門川の作る谷に挟まれた、狭く切り立った地形であったようです とても想像できませんが。

  
                              景行天皇山辺道上陵   

  野見宿彌と當麻蹶速の角力にまつわる伝承が残る相撲神社がベンチと道を挟んだところにあり、ここから當麻蹶速の本願地の二上山が良く見えます。箸墓古墳は尾根に邪魔されて直接に見る事は出来ませんが、箸墓という名は土師墓が転訛したものだという話もあり、土師氏の祖野見宿彌との関連を窺わせます。角力の話は野見宿彌と彼に敗れた當麻蹶速に仮託された地域的な勢力図の象徴だとも言われます。 相撲神社自体は見るべきものもなく、二上山の遠望に満足してUターンされる方もいますが、兵主神社すぐ目と鼻の先です。

  
                             相撲神社の土俵らしきもの

  
                               兵主神社二の鳥居

 兵主神社は現在、穴師坐兵主神社と穴師大兵主神社、巻向坐若御魂神社の三社を合祀しています。現在地は本来の大兵主神社鎮座の地であって、坐兵主神社は元は斎槻岳の山中に祀られた、上下二社の里宮と山宮の関係にあったと言われます。等彌神社あるいは大神神社の形態と良く似ており、応仁の乱で上社が焼けたために、下社へ遷し合祀したという。
 兵主神社の性質が重層し、複層しているため素人に理解するのはお手上げの状態ですが、山ノ神が季節に応じて渡りをして田の神になるというのを基層として、山ノ神が製鉄術の流入で、鍛冶神に変化し、更に鍛冶神が武具神や武神に変化していった位に考えればよいのでしょうか。
 ひょうすべの話やアナシの風の話はとても面白いので興味を持たれたら調べてみてください。
 
  
 社域内は箒目が入れられ美しい、特に秋の季節はもみじが赤く色付いて境内に映える隠れたスポットです。立派な灯篭と立派な拝殿に守られるように、本殿の三社が横一列に並んでいるのが見える。


  
 こんな景色もここまで来たからこそ味わえる贅沢。山の辺の道からは大和三山の眺望を楽しめる場所が多いですが、神社の更に上手からの景色が最も美しい

  
         乙女らが 手折りしおばな手向けつつ 今こそ出でよ立ち待ちもせず 
         ぬばたまの 夜の通い路妹が待つ 由槻の里に出でし月かも
この日は奇しくも中秋で、早乙女ではないけどススキを採っている人がちらほら見えた。古代の歌謡の雰囲気に浸りつつ一首つくってみたら万葉集の相聞歌にでもありそうな歌ができましたとさ

台風十八号狂詩曲

2009年10月09日 | ハウス造り
 本来ここはいわゆるブログとは違うものとして書いているつもりなのですが、丁度台風が通過した事と、書きかけの話が少しかぶる所があったので急遽纏めてみました。
 
 三日ほど前から新しい台風の進路がどうもおかしいなと嫌な感じはありました。いや、それ以前から三週間ほどは雨らしい雨も無く、こういう時は自然はきちんと帳尻を合わせてくるから大雨か台風が来るんじゃないかという予感めいたものはありました。日本に近づいて上陸がほぼ確定的になった頃から、さてどうしたものかと思案しましたが、左程の切迫感も無かったのも事実です。というのも、台風情報を米軍系サイトでチェックするのが既に習慣になっており、それによると紀伊半島の南端から東端を、かすめる様に通過するルートの予報になっていたので、当地が台風の左側になり、しかも時期的に更に東へ流れるのではと高を括っていた訳です。
 がしかし、テレビの天気予報で直撃コースをたどることが解り、何時ぞやの七号台風の再来かという事態になった前日は、朝からハウスの補強にひたすら時間を費やしました。白浜に上陸する可能性が高くなったというテレビの台風情報に影響されてか、ラジオではみかん農家が、およそ千坪のハウスのビニルを自主的に切り落としたと云う話題を取り上げていましたが、この頃にビニルの除去を決断した方も多かったのではないでしょうか?そうなるとハウス保険もおりないはずなので、余程キレイにビニルを外さないと二度張りは大変なんだろうと思いますし、ビニルを切ってしまえばもちろん二度張りは出来ません。 うちはと言うと、数少ないビニルが残ってる虎の子のハウスの為に、ビニルを外す訳にも行かず、ハウスの補強するしか選択肢が無かった訳です。
 
 ビニルハウスは一般的には、いわゆるアーチパイプハウスの事で、22から25mm径の曲げたパイプを地中に挿し込んだだけの簡便なつくりです。鉄骨ハウスに比べてコストは格段低いですが、当然耐風力も低く風速30m、場合によってはそれ以下でも倒壊すると言われています。各部材は緩くつながっている柔構造の典型なので、筋交いをはじめ補強は欠かせません。
 そこで先ず、一番弱いといわれるアーチ部分につっかえ棒をしておきました。次に、下の写真に有るようにハウスサイドの連結を強め、引き抜き力に対抗し、横風の押し込みに対抗するための重石を付けました。

  

 そして台風の一番の怖いところである、真上からの押し込みとその後の引き抜き力に対応する為、棟持ち柱を基礎付きで設置しました。
 最後に今回は間に合いませんでしたが、防風ネットを張る事も重要だと思います。但し、中途半端に張るとネットの切れ目で、縮風という現象が起きる事があるので気を付けないといけません。それもあって今回は防風ネットの設置を見送りました。
 これ以上はやる事が無く、これでハウスが倒壊するのなら仕方が無いかなと思える処までにはなったでしょう。ただ、ビニルが破れて飛んでしまう事は、これらの補強とは関係なく起きる事なので、既にくたくたのビニルが破れないように祈るしかありません。

 そうして眠れない一夜を過ごしたのですが、結果として台風は紀伊半島の東を、上陸もせず掠める様に中部方面に逸れた訳です。そのおかげかブルーシートが破れた程度で、大きな被害も無く台風をやり過ごす事が出来ました。逸れたとは言え相当の雨風が吹き荒れたのは事実で、覚悟はしていたのですがビニルが飛ぶ事もありませんでした。
 それとあくまでも結果論ですが、今回も米軍情報がほぼ正しかったのは複雑です。規模は小さいが勢力の強い台風だった事もあり、場所によってかなり影響にばらつきが出たみたいですが、紀伊半島の西端と東端の予報では対応に違いが出ても当然だと思われます。最後は自己責任と結果論になってしまうのですが、情報は多すぎても少なすぎても駄目なのでしょう。
 

  

 台風が過ぎてしまえば、また蜘蛛は糸を吐き、何事も無かったかのように蜘蛛の巣を造っていました。感情のある人間は流石にそうはいかず、被害に逢われた方は呆然自失の状態かも知れません。心よりお見舞い申し上げ、この話を終えたいと思います。