和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

仏像のまなざし

2010年06月22日 | 和州独案内
 
 「画竜点睛」の故事にあるように、また「開眼供養」というように目は仏像にとって魂を入れるようなとても重要な表現です。その目の表現において究極のリアリズムを追求したものが玉眼嵌入の技法と言えます。
 玉眼を嵌入した仏像の中で製作年代のはっきりしている最も古いものが、山の辺の途中にある長岳寺の阿弥陀三尊像で、仁平元年(1151)の作とされています。玉眼の始めがこの年代からどれ位遡るのか分かりませんが以降、仏像の目の表現の主流になったことに違いはありません。
 玉眼の複雑で精緻な工法の効果はその最高傑作ともいえる、興福寺北円堂の無著・世親像あるいは同じく国宝館の金剛力士像などを眺めれば自ずと理解できますが、玉眼のリアリズムは視線の固定化という別の袋小路へと迷い込む結果となったのでは、とも思います。
 
 仏像を鑑賞する時、あくまでも私たちが見るのであって仏像が私たちを見ているのではないはずが、精緻な目の表現によって仏像が何かを見定めているという視線が固定化された状態が生まれます。作りこまれた目の表現は視線を一点に集中させ、そのまなざしに強い意志の光を与えました。開かれた瞳孔や虹彩、充血した白目の表現は瞬間を切り取ったような、特に怒髪天を衝く怒りの表情を見事に凍結して表現しています。しかし逆に、如来等のように遠くを漠に見つめるような半眼に白目が強調された玉眼を嵌め込むと、三白眼のような何か不気味な印象を与える気がします。

 玉眼の方法が始まった恐らく十二世紀より以前は、彫眼や彩色というのが普通でした。そして多くの飛鳥・白鳳の古仏がそうであるように、それらは劣化、剥落して黒目の輪郭や眼窩の表現のみが残された姿で今に至ります。
 視線が固定されず茫洋と中空を見つめる、いや見つめてさえいない姿であるにも関わらずアルカイクスマイルと呼ばれる口端の表現も相まってか、それらの仏像は何故か人に訴えかける表情をしています。もはや造仏当初とは異なる意図になりますが、あるはずの目の表現が無い姿は何かを観察者の内面に問いかけ、心をなでるのです。
 眼球の表現を失った仏像は、偶然にもギリシャ彫刻と同じ効果を得て、普遍的芸術性や超越した存在としての神や仏をあらわしたかのように錯覚させます。抑制された表現は逆に観察者の内面を写す鏡となり、内省を促すのでしょうか。あるいは本来あるべきものが無い未完の美は、それを補うように人を饒舌にさせるのかも知れません。
 興福寺の国宝館には数奇な運命をたどった、杏仁形とはまた違う目の輪郭を持つ白鳳仏「旧山田寺仏頭」があります。
  
 
 奈良時代の仏像にも黒曜石を嵌め込み、黒目を極端に強調することで目を大きく見開いた忿怒の表情を表現したものがあります。東大寺法華堂の執金剛神立像がその代表で、その他に幾つかの塑像が鈍く光る黒曜石で黒目を表現しており、視線の固定化は玉眼程では無いにしろこの時代にも既にあった訳です。 毘沙門天を始めとする仏法護持の天部や不動明王に代表される教令輪身の明王部は、仏敵を威嚇調伏し難化の衆生を教化するために、その視線は対象の一点を見つめる必然性があり、黒曜石の技法に親和性があることに当時の仏師も気付いていたといえるのではないでしょうか。そう考えると、逆に八部衆群像の面白さがさらに際立ってもくるわけです。

 一切の衆生の済度を誓う絶対的超越者としての如来は高みから衆生を睥睨し、半眼の薄らぼんやりとした視線は全景を遍く見つめているものなのだと考えます。そんな如来部と玉眼の親和性は低いと個人的には思いますが、そんな中でも興福寺北円堂の本尊弥勒仏坐像は何の違和感も感じさせない傑作だと素直に感じます。
 興福寺は定番すぎてスルーすることが多いのですが、気持ちを変えて訪れるとやはりこの寺の奥の深さを改めて実感できます。興福寺だけではなく奈良の寺は重層的に仏像を見つめる事ができる事を改めて感じます。
  

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