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大井川の風

春夏秋冬、四季それぞれの風をお届けします。
富士山静岡空港をはじめ大井川流域のさまざまな
情報を掲載しています。

初めてのラジカセ

2008-09-29 23:59:09 | 昭和時代
SONY CF-1500。
今から約35年前に最初に買った(いや買ってもらった)ラジカセです。
当時の価格は37,800円。1日20円の小遣いで1,890日分です。今の子どもが1日50円のお小遣いとすると、94,500円相当になります。その価値を考えると今のゲーム機などは安いものです。

このラジカセは大学時代にステレオラジカセを買うまで、およそ10年間私の心の友でした。トーク番組を聴き、音楽を聴き、外国からの放送を聴き、ちょっとだけラジオ講座を聴き、その合間に勉強しておりました。

ちょっと見ておわかりでしょうか?スピーカーの上にぽっかりと開いた穴。そこにはかつてテレビのチャンネルが付いていました。そう、このラジカセはAM/FMに1~12チャンネルのTV音声を聴くことが出来るラジカセなのです。

「試験前にTVを観てはいけない!」と茶の間から締め出しを食らっても、このラジカセなら聴けるというところがミソで、私にとっては画期的な商品でした。
ところがご他聞にもれずいつの間にかチャンネルが取れ、仕方がないのでペンチで回す羽目になり、それからはもっぱらラジオを聴いておりました。


ただこのラジカセは、ラジオの受信能力が他社のラジカセより抜群に優れていて、子どもながらに「SONY」というブランドの高さを感じました。
そして「SONY」のラジカセには「SONY」のカセットテープを使わなければいけないという変な不文律を決めてしまったため、部屋中「SONY」のカセットだらけになりました。

KIOSK

2008-09-08 23:58:16 | 昭和時代
今は10分毎に電車が来ます。便利になりました。
私の子どもの頃は30分に1本、時間帯によっては1時間に1本でした。そのため「乗り遅れてはたいへん」とかなり前から駅に行き、待合室で電車を待っていました。

待合室のKIOSKにはショーウインドウがあり、そこにはブリキの車や怪獣がお土産と一緒に並べられていました。玩具店には駄々をこねないと入れないのに比べ、KIOSKは駅の中なのでおもちゃをねだるのには格好の場所。後ろから「ほしいのか?」と声が掛かるまでショーウインドウの前にしゃがみこんでいました。

ショーウインドウのほかにも天井からビニールの肩掛けの「電車ごっこ」のバックが下がっていたり、漫画の主人公のビニールボールがあったりと、それはそれは楽しい場所でした。

時は移り平成の時代。少子化の進んだのか、それとも家族で電車に乗る機会が少なくなったのか、いやいや子どもの関心が別のモノに移ったのか、KIOSKから子ども関連の商品が姿を消しました。これからはさらにシニア向けの商品が多くなるのか、昭和のKIOSKがワンダーランドだった者にとっては少し寂しい気がします。

以前はどこの駅にもあったホーム内のKIOSKや待合室も少なくなりました。
こちらは清水駅ホームのKIOSK。子どもの頃からの習慣なのか、用事がなくてもついのぞいてしまいます。


はたらくおじさん

2008-08-27 22:33:30 | 昭和時代
小学校の教室、”観音開きの扉のついた”+”3チャンネル(教育)しか映らない”+”14インチの白黒テレビ”で見たNHK教育の社会科のテレビ番組です。

今日、ファミリーマートでコカコーラを買ったら、写真のおまけがついていました。もうこの番組を見てから40年近くたち、私もすっかり「はたらくおじさん」です。子どもたちに自分の仕事を誇れる立派な「はたらくおじさん」を目指してがんばろう・・・とおまけを眺めつつ考える私でした。

ちなみにこの番組のテーマソングには「♪はたらくおじさん はたらくおじさん こんにちは~」と「♪はたらくおじさん はたらくおばさん こんにちは~」のバージョンがあります。私はもちろん前者の世代です。

帽子掛け

2008-08-24 23:53:49 | 昭和時代
ソフト帽、学生帽、ハンチング帽、野球帽・・・帽子もいろいろあります。
いつの頃からか通勤・通学で帽子をかぶっている人を見かけなくなりました。

さて、写真は昨日の記事の電車にあった立派な「帽子掛け」。「頭に被るものは床に置いてはいけない」と言われた世代には、ちょっと懐かしい備品です。


さすがに帽子はありませんので、上着を引っ掛けてみました。

ところで最近はあまり観ていませんが、あの磯野課長はまだ帽子をかぶって通勤しているのでしょうか?

停電と100万人のキャンドルナイト

2008-06-22 19:55:16 | 昭和時代
「停電」は昭和時代に比べめっきり減りました。

雷の夜に「パシッ」という音とともに部屋中真っ暗。あわてて「ろうそく」を探しに行こうとすると何かにつまずいて転んだり…なんてことがよくありましたが、電気事業連合会のホームページから計算すると、平成15年の数値で1世帯あたりの停電は約6年に1回になるそうです。先進国の中でもこの頻度は極めて低く、技術の進歩とともに電力会社の皆さんが安定供給に努めていただいている結果だと思います。

そのためか、最近はろうそくを灯すことがありませんが、環境省では今年夏至の日(6/21)から北海道洞爺湖サミットが始まる7月7日までの間、ライトダウンキャンペーンを行っており、その中に「100万人のキャンドルナイト」があります。

詳細はこちらのページですが、仕事も家庭も電気は不可欠。キャンドルナイトで電気のありがたさを感じながら、日の出とともに起き日の入りで1日を終える、そんな自然な暮らしを考えてみたいと思います。

このキャンペーンを教えていただいたブログと写真のキャンドルをご紹介しているブログをご案内します。いずれもお取引先のお客さまです。

100番電話

2008-06-14 21:12:32 | 昭和時代
100番といっても「モップ屋」さんの電話ではありません。
110、119、117、177、104などと同じ3桁電話番号のひとつで、通話料金をオペレータ(交換手)が後でお知らせするサービスのことです。

小学校低学年の70年代初頭、わが家に電話はありませんでした。いえ、わが家だけでなく周りのお宅でも同じ状況でした。電話があるのは商売をやっているお宅だけだったように覚えています。農家なら農協の有線電話があり、共電式(ダイヤルのない)電話機で交換手を呼び出して通話ができましたが、サラリーマン家庭にはそれもありません。そこで電話をする場合には、近所の商売をやっているお宅に電話を借りに行くことになります。

電話を借りる時には、相手の電話番号を直接ダイヤルすることもできますが、よそのお宅の電話を借りているので、その分の電話料金を支払うのは当然のマナー。そこでダイヤルするのが「100(いち・れい・れい)」です。

まず100番をダイヤルし交換手がでたら相手の電話番号を伝えて、つなげてもらい、電話が終わったら受話器を置きます。ほどなくしてベルが鳴り、交換手から「今の通話は30円でした(…かな?)」と、料金を知らせる電話が入ります。そうしたら30円を電話機の横に置いてある電話料金箱に投入して、お礼を言って帰ります。

※そういえば「電話料金箱」、ネットオークションでは時々あるものの、実物は見かけなくなりました。

わが家に電話が来たのは1972年か73年。ちょうどカラーテレビと同じ頃でした。全国のダイヤル自動化も79年にはほぼ完了し、それ以降100番通話の必要がなくなりました。
私は知らなかったのですが、21世紀の今日、100番通話は意外なところで使われているそうです。携帯も圏外で公衆電話が設置できない山小屋では、登山客が電話を借りる時に100番のサービスを利用するとのこと。確かに無料で電話を開放することはできませんから、このサービスが必要でしょう。





夏空の運動会

2008-06-01 21:35:30 | 昭和時代
その昔「運動会」いえば「秋」の行事でしたが、最近は1学期に行うところが増えました。いつからこの時期になったのかはっきりしませんが、多分21世紀になってからでしょうか?10月10日が体育の日で「スポーツの秋」という言葉で育った世代としてはまだ違和感があります。いずれ運動会を「秋」にやったか「春」にやったかで世代の区分けをするようになるのかもしれません。

さて、幼稚園の運動会、小学校の運動会、中学校の運動会、町内会の運動会、町内会を束ねた学区での運動会、昭和の頃は地域の中で秋に5つも運動会がありました。小学生は学校の運動会に加え、町内会の運動会は必須。さらに陸上が得意な子は学区の運動会へも出ました。

町内会や学区での運動会は大人も参加。会場には露天も出てそれはお祭りのようなにぎやかさ。「綱引き」や「スプーンリレー」をはじめ、定番の「障害物競走」など。中には「タバコ火付けリレー」など今では不可能な競技もありました。

もちろん子供の楽しみは「参加賞」。だいたいノートか鉛筆と決まっていましたが、学校の運動会と違って景品があるだけに、開催を告げる花火が待ち遠しかったことを覚えています。

昔は地域の中に農家が多く、収穫後の慰労をかねてこのような運動会を行っていた地域も多かったはずですが、今はサラリーマン家庭が大半となり、さらに土日がお仕事の方もいます。さまざまな生業を持つ人たちが暮らす地域では、このような運動会はますます少なくなっていくと思います。

列車公衆電話

2008-05-24 23:07:21 | 昭和時代
携帯電話を使って11年目。もう公衆電話を使うことはほとんどありません。
今日のお話は列車公衆電話。

そもそもJR(旧国鉄)の列車に公衆電話が登場したのは1960年。当時東海道本線を走っていた特急「こだま」号に設けられました。黒澤明の映画「天国と地獄」で誘拐犯からこだま号に「身代金を洗面所の窓から投げろ」という電話が入るシーンを思い出します。
列車公衆電話はその後、新幹線のビュッフェや食堂車に置かれるようになります。私が最初に使った頃は色はグレーに近いベージュ色で形こそ公衆電話でしたが、ダイヤルはなく100円を入れると電話交換手が出るものでした。相手の電話番号を交換手に告げて回線をつなげてもらい、「それではお話ください」か「おつなぎします」と言われてはじめて相手と話ができる方式でした。確か1通話300円だったように記憶しています。相手方には交換手から「新幹線の車内よりお電話が入っております」というような連絡の電話が入っていたようで、「新幹線でどこに行くの?」などど尋ねられたものでした。

現在の新幹線では写真の通りテレホンカード形式で即時通話(ちょっと言い方古いですね)のできるタイプです。トンネル内でも安定して通話が出来るので切れては困る要件の場合には便利です。

さて、最近は新幹線の中で「東京の○○さま、お電話が入っておりますので電話室までお越しください」というような呼び出しアナウンスを聞かなくなりました。調べてみると、2004年に呼び出しのサービスは終了しているようです。理由はもちろん携帯電話の普及です。ここでもひとつの「昭和」が終わっていました。




横断旗

2008-05-05 23:58:34 | 昭和時代
今日は子供の日。
私の子供時代は「交通戦争」と呼ばれた時代。育った地域で信号機といえば国道1号に数ヵ所あっただけで、他の道路にはありませんでした。東海道線に警報機も遮断機もない踏切があった時代です。

この横断旗、最近では金属製の入れ物はあっても旗がない横断歩道が多くなりました。当時信号機のついていない横断歩道はたくさんありましたので、どこの横断歩道にもこの横断旗はありました。登校のときは学校側に旗がたまっていくので、後から来た子は旗を使えなかったり、ふざけてランドセルに刺して帰ったりと、懐かしい思い出もあります。

さて、今日のお話は、先日久しぶりにこの横断旗を振って道を渡っている小学生(兄妹)を見かけました。ここまでならどこでもある話ですが、その小学生の兄妹は渡り切った後で、この旗を手前に持ってまず私の車に深々と一礼、そして「回れ右」をして反対車線で止まっている車に深々と一礼したのです。

これには正直驚きました。「ありがとう」と言って渡る小学生はよく見かけますが、どの動作を見たのは初めてでした。これはこの兄妹だけなのかなと思っていると、少し離れた横断歩道でも渡り切った3人組の小学生が同じように深々と一礼するのです。きっと小学校でしっかりした指導が行われているのでしょう。たいへん清々しい光景でした。

それに対して私はどうか、もちろん横断歩道では歩行者優先ですが、さも「止まって当然」のような態度で渡っていないか、そんな姿をこの小学生が見たら何と思うか、たいへん恥ずかしい気持ちになりました。

深々と一礼した小学生たち。すばらしいことなので学校を紹介します。多分最初の兄妹が菊川市立小笠南小、3人組は菊川市立小笠北小の小学生だと思います。拍手

※写真は私の育った近くにあった横断旗です。

お米を粗末にすると・・・弁当の蓋についたご飯

2008-05-01 23:54:00 | 昭和時代
今でも言うのでしょうか?「お米を粗末にすると・・・・・・・!」

この・・・・・・・には、「罰が当たる」「お化けがでる」「目が潰れる」などが入ります。私もそういう「躾?」「教育?」を受けてきました。だからご飯は残さず食べます。お弁当の蓋にご飯が付いていれば、まずこのご飯をきれいに片付けてから、お弁当を食べます。飽食の時代、そして食料自給率が再びクローズアップされ始めた今日、みなさんは蓋にご飯が付いている時どうされますか?




ちなみに今日のお弁当は横浜駅のホームで買った崎陽軒シウマイ弁当(¥740)です。

鯨肉 給食と缶詰と

2008-04-19 21:21:46 | 昭和時代
消え去るもの、そして復活を果たすもの、
私の27年間の昭和の記録「昭和時代」のコーナーです。


今日は鯨肉。小学校時代は給食でよく出ました。竜田揚げや大和煮、そしてキャンプの時には鯨の大和煮缶。いまや高級品の鯨肉もかなり安かったように思います。当時は鯨が魚だと思っていたので「なぜ魚なのに肉なのか?」不思議ではありました。もちろんその後哺乳類だと知ることになるのですが。
捕鯨問題の是非はありますが、「肉の代わり」と言って給食のメニューの中に入っていたことも事実。鯨を食べたことがない世代が大多数となる時、この鯨肉も消えていくのでしょうか。

さて、この鯨肉は株式会社丸善の「つまみの匠 くじら(315円)」。ラーメンの中に入れて「鯨ラーメン」になりました。

最後の乗客 その2 ~松並木を行くバスの姿もこれで見おさめ~

2008-04-01 23:34:32 | 昭和時代
車の普及と少子化で、バスの乗車人数は減少の一途をたどっているそうです。
1970年代、中部国道線のバスは藤枝駅から金谷駅まで走っていました。
現在の六合駅近くに住んでいた私は、島田に行くのにも藤枝に行くのにも、このバスを利用していました。
当時は20分に1本の間隔でバスが走っていたのですが、今では1日10本。

以前、東海道を日本橋から京都まで歩いている人と話をした時、「日本橋から東海道に沿ってバスに乗ると、はじめて次の宿場までのバスが途切れるのが金谷(金谷宿から次の日坂宿まではバスの便がない)だったが、最近由比と興津の間も路線バスがなくなった」と聞かされました。六合~藤枝間の廃止で、実質藤枝宿から島田宿までの間も分断されます。

この日(3月31日)、私は六合から藤枝駅までの最終バスに乗りました。

乗客は私を含め2人。バスは乗る人がいない停留所を次々と通過していきます。昔は停留所ごとに乗ったり降りたりするお客さんがいて、バスもなぜかゆっくり走っていたように感じましたが、今はタクシーに乗っているかのようです。

途中1人の乗客が降り、貸切状態のまま藤枝駅へ。

降りるとき運転手さんが、「お客さんが最後のひと、明日からなくなるで・・」と寂しそうに言いました。私も「おつかれさまでした」と今までの感謝を伝えました。
降りて振り返ると、バスは回送の方向幕を出しながら、スピードを上げ車庫に去っていきました。