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ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【食】そば天国 松乃家 北広島店 [和食@北広島]

2010年06月11日 22時01分28秒 | 外食記録2010
そば天国 松乃家 北広島店(そばてんごく まつのや きたひろしまてん)[和食@北広島][HomePage][食べログ]
2010.4.25(日)20:00入店(2回目?)
注文 ほっけふらい膳(とろろそば)950円


・北広島郊外の国道274号線沿いにあるそば店。三角屋根の大きくて目立つ店構えです。おそらく20年以上前の大昔に家族揃って入店したような記憶もありますが、こちらの店だったか定かではありません。てっきり店名は『そば天国』だと思いきや『松乃家』という名前があったのですね。輪厚や江別にも支店有り。
 
・店内はイス席約8卓にこあがり4卓。なぜか中華風のBGMがかかっています。

・メニューはそばを中心にご飯物を取り混ぜたセットなど、いろいろあります。セットメニューの中からホッケフライのセットを注文。
  
・そばは温冷10種類より選択可能。おろしそばを頼んでいたつもりが出てきたのはとろろそば。「またボケてる? まあどっちでもいいや」と細かいことは気にしないことに。緑色のそばは細く、目測約30cmとやたらと長いです。滑らかなのど越しではありますが、手作り感はあまり感じられません。
 
・からりと揚がったホッケフライはなかなか美味。タルタルソースがついているのがうれしい。
  
・上品な(ちょっぴりとした)盛り方のご飯、漬物、山菜と大根おろしの和え物。

   
 
[Ricoh GX200]
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【本】カナダ=エスキモー

2010年06月11日 18時16分15秒 | 読書記録
カナダ=エスキモー, 本多勝一, 朝日文庫 ほ1-3, 1981年
・日本におけるルポルタージュの "古典" とでも言うべき本。本文中で語られているような『エスキモー』という人びとの存在は知っていても、その生活については全く知らない一般人としては驚きの連続だった。単に「酷寒の地で生活する民族」というイメージぐらいしかなかったところ、そこに描かれる生活様式はまさに想像を絶する世界。特に「時間感覚の希薄さ」や「食事の概念が無い」などという記述には衝撃を受けた。またその内容だけでなく、「自分の体験を第三者に伝える」というその姿勢や方法のお手本になるという意味でも価値のある一冊。約50年前の取材活動とは思えぬほどその様子が生き生きと伝わってくる。本書は『ニューギニア高地人』、『アラビア遊牧民』と併せた三部作であり、残りの二冊もこれから読むのが楽しみだ。尚、書名の『カナダ=』は北極圏の各地に分散し、いくつかのグループに分けられるエスキモーを区別するための名称である。
・「「エスキモー」とは「生肉を食う連中」の意味だ。アメリカ先住民(いわゆるインディアン)のひとつクリー族がつけた渾名である。」p.19
・「未開人の国を訪ねて、目にみえる範囲でその未開ぶりを大げさに書くという方法は、こけおどしにしかならない。新聞のルポとしても、もはや古い時代のものだと思う。また広い地域をやたらと歩きまわる方法は、皮相的観察しかできない。そこに住む人々の心をつかむこと。「非人間性」をあばくのとは反対に「人間」を発見すること。そのためには一ヶ所に定住して、彼らと生活のすべてを共にすること。これは、学生時代のカラコラムやヒンズークシ探検の経験で、私が強く感じた点のひとつだった。その後私は北海道の開拓で、短期間ながら「住みこみ」をやる機会があり、いっそうこの考えを強めたように思う。」p.22
・「日本の庶民の家は、冷血動物(変温動物)のように外の温度に支配される。日本の冬は、もちろん北極よりも暖かい。だが、家の中は、北海道を除けば、北極より寒い。(中略)生活環境としての温度を考えるとき、日本の冬の寒さは世界に類がない。中国北部もソ連もヒマラヤも、家の中は日本よりはるかに暖かい。生活環境としての北極は、日本の、とくに長野県と東北地方である。しかも、その寒さを我慢するのが美徳だと思っている。」p.34
・「エスキモーにとっては、こうした意味の「食事」は存在しない。食事とは、ただ「食うこと」。腹がへったとき、食い物を胃袋につめこむだけだ。一家そろって食べるときもなければ、食事時間もない。腹がへる。だから食べる。」p.34
・「彼らのエスキモー服、アティギとアノガジェは、世界最高の防寒服だ。カリブーの毛皮を、主婦がかんでなめし、やはりカリブーからとった腱の糸でぬって、アノラック型に仕立てた服。アノラックという言葉自体、エスキモー語のアノガジェ(あるいはアヌラック)からきている。アノラックは、エスキモー文化が世界に貢献した最大のものだろう。  アティギが毛を内側にして仕立てるのに対し、アノガジェは毛を外側に出して作る。普通はアティギの方が温かく、実用的だが、しめっぽい雪や雨のときはアノガジェの方がよい。」p.38
・「この「かむ」という作業。これこそ、主婦たちの最大の仕事だ。料理というものは存在しないから、食事のために時間をとるということはほとんどない。かわりに、一家の着物づくりと手入れが大変だ。」p.41
・「以後私たちは、犬に対してエスキモーと同じ態度をとった。一声でもほえつこうものなら、なぐり、蹴とばし、雪を投げつけ、徹底的にこらしめる。ムーシシたちは、私たちの態度の変化を喜んで加勢する。それをくりかえすうちに、私たちに反抗する犬はついにいなくなった。」p.72
・「酷寒の大自然とのたたかいは、感傷が命取りになります。犬を甘やかしてはなりません。そして、いざ大飢饉となれば犬が食料の対象になります。これはなにもエスキモーばかりではなく、アムンゼンなどの大探検家たちも、いざというときのとめに、ソリ犬を非常用食料として計算するのは常識でした。  また、エスキモー犬は労働犬であることも認識しなければなりません。スピッツやチワワのような愛玩犬と違うのです。ロバやラバと、エスキモー犬とは、全く同じ目的で飼われています。」p.81
・「エスキモーにとって、一年が三六五日あるということは、まるっきり無意味である。一年は、極論すれば二日間だ。夜の半年と昼の半年と。(中略)とくにカナダの中部北極圏は山らしい山もないから、いっそう単調な地形がどこまでも続く。時間的にも空間的にも、エスキモーは世界一単調な世界に生きる民族である。  このような自然が、彼らの性格・生活・倫理・世界観に影響しないはずはない。」p.110
・「生肉をたべるのも、単に燃料がないためではない。野菜や果物が皆無の生活では、生肉こそ、ビタミンC補給の唯一の手段なのだ。煮たり、焼いたりすれば、ビタミンは破壊されてしまう。エスキモーにはだから壊血病がほとんどない。」p.114
・「プライバシーのない文化が、もし高度に発達したらどんな世界ができるか、興味のある問題だ。エスキモーの場合、この "非プライバシー文化" の体系化が、あるていど進みかけていたのではないか。日本にプライバシーの伝統がなかったといっても、エスキモーからみたらプライバシーだらけだ。自分の二四時間が、他人に見られることを気にかけるような "思想" は、北極では発達しない。」p.115
・「私たちはエスキモーといっしょに生活して、一度も「野蛮人」や「原始人」と感じたことはなかった。単に物質文明に恵まれないだけで、精神的にも、感情的にも、きわめて人間的な、ある面では私たち以上に人間的な人々であった。  だが「数の概念」の欠如を知ったとき、大きなカベを感じた。「野蛮人」では決してないが、深い所にかくされていた「未開人」の残像をのぞき見たように思われた。このことは単に「数」そのものの問題にとどまらない。いる意味で、エスキモーの全生活を支配しているのだ。」p.124
・「エスキモーは、毒でなくて、とくにまずくないかぎり、食べられるものはたいてい食べてしまう。うまいか、まずいかなどは、問題にならないようにみえる。そこで私たちは、いろんな生肉を並べ、カヤグナに味の順位を作らせてみた。おもな主食について、うまいもの順にならべると次のようになる。  ①カリブー(トナカイの一種)②ホッキョクノウサギ③サケ科の魚④カモ⑤アザラシ(ネッツェルク)⑥ライチョウ⑦ウジュック(大型のアザラシ)⑧ホッキョクグマ(白クマ)⑨セイウチ」p.148
・「私たちは、確かにエスキモーと起居をともにした。が、いま反省してみると、やはり完全に「ともにした」とは言いがたい。なぜ私たちは、彼らのように素っぱだかで寝なかったのだろう。なぜ家の中で空き罐に用をたさなかったのだろう。そこまでいっしょにすれば、もっと深く彼らの心の中へ食い入ることができたに違いない。」p.154
・「永久凍土帯は、いまでもいぜんとしてエスキモーの天下である。他の狩猟民族のように、土地を侵略されてほろびる心配は、まずない。今後の可能性として地下資源の開発があるが、これも「点」か「線」だけで、「面」になる見込みはうすい。」p.236
●以下『あとがき』より
・「1963年の5月から6月にかけて、藤木高嶺氏(朝日新聞大阪本社写真部員・現在編集委員)と私はカナダ北極圏のエスキモーをたずね、そこに住みこんで彼らと生活を共にしました。その結果は同年7月11日から9月6日まで、『朝日新聞』の夕刊(地方は朝刊)に連載されました。」p.267
・「クロウ氏がこの調査を実施した翌年(1966年)あたりから、イグルーリック=エスキモーの社会は急速に変容し、もう本書のような伝統的狩猟社会は消滅してしまいました。この舞台を私たちが去ってからすでに18年。カナダ全体、いやエスキモー全体からもこうした生活は消滅したようです。その意味でも、私たちの訪問は貴重な時期だったことになりますが、しかしこの変容は、エスキモー自身にとって幸福な方向にではなく、残念ながら本書の中で憂えていたような方向で進んだようです。」p.273
●以下『解説』(梅棹忠夫)より
・「のちのかれの術懐によると、かれは、わたしから、文章の「文体から、仕事の方法から、処世術にいたるまで」、実質的にもっともふかい影響をうけたという。  本多勝一がわたしの "弟子" だというのは、このような意味においてである。」p.277
・「この『カナダ=エスキモー』というルポルタージュは、ルポルタージュの方法としては画期的なものであったとわたしはおもっている。それまで、この種の海外取材によるルポルタージュというのは、大都市に駐在する特派員による世相報道記事などは別として、未開地などの取材は、つねに何かの「機会」に従属しておこなわれているのである。(中略)本多勝一のエスキモーは、そういうのとは本質的にちがうのだ。かれのもってきた案をみて、わたしはこれはおもしろいとおもった。かれは、かれのために、かれのルポルタージュのために、エスキモーのにはいるというのだ。これは、すくなくとも日本においては、ルポルタージュそのもののための取材としては最初のものではないか。企画の最初から、自分で対象をえらび、方法をねり、取材におもむくというのである。」p.279
・「ルポルタージュをかくためには、文章がかけるだけではどうにもならない。苛酷な自然のなかで生活し、現地の人たちと強調してゆけるだけの体力、知力、精神力が必要である。こういう全人間的な力量は、にわか仕立てでは身につくものではない。本多勝一にはその力がある。むしろ逆に、そういう力量、経験の蓄積をもっとも有効に生かす仕事として、かれは海外取材によるルポルタージュというものをえらんだのではないか。」p.282
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【写】ラ・トラッペ修道院散策(1)(フランス)

2010年06月11日 08時03分42秒 | 撮影記録2009
ラ・トラッペ修道院散策(1)(フランス) 撮影日 2009.11.2(月) [HomePage][Googleマップ]
・前夜修道院に到着し、夕食をとって早々に就寝。一夜明けてまだ暗いうちから早速行動開始。
 
・修道院内の巡礼者用の宿泊棟を出ると、まだ辺りは真っ暗。時刻は6時くらいです。

・暗すぎて写真はブレブレ。三脚までは持たなかったので、手持ちでガンバルしかありません。

・イイ感じで雲間に月も見えたのですが、これも上手く撮れず。

・敷地の奥へ進むと、行く手にうっすらと巨大な尖塔が現れます。
 
・ここで、カメラを地面に置いて撮ればよいことに気づき、いろいろ試してみる。
 
・地面の高さから見た修道院内の様子。
 
・大聖堂の尖塔。石造りのとても立派な建物です。この後一旦部屋に戻り、朝食前に一行揃ってミサに出ることに。
 
・大聖堂への入口。玄関先に活けられた花のよい香りがします。時刻は7:00。

・大聖堂に足を踏み入れる。「うわー! すっげー!!」 声をあげたくなるような眺めでしたが、カメラのシャッター音すら気になる静寂の空間で、とてもそんな声を出す雰囲気ではありません。
  
・大聖堂内部の様子。ミサに集まったのはこちらで生活する修道士約20名と、巡礼に訪れている人たち約10名です。
 
・聖歌の伴奏に使っていたオルガン。聖堂内にはパイプオルガンも設置されていましたが、そちらは使っていないようです。

[Canon EOS 50D + EF-S17-55IS]
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