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ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】フラニーとゾーイー

2007年02月25日 22時19分53秒 | 読書記録2007
フラニーとゾーイー, J.D.サリンジャー (訳)野崎孝, 新潮文庫 サ-5-2(2300), 1976年
(FRANNY AND ZOOEY, Jerome David Salinger, 1961)

太田光(爆笑問題)のオススメ本より、という訳ではなく偶然かぶってました。『サリンジャー』というと『ライ麦畑でつかまえて』が思い浮かびます。昔読みましたが、どんな話だったかさっぱり記憶にありません。しかし『ライ麦畑』とはずいぶん作風が異なっているように思います。病んだ文章。病気の一歩手前。
・グラース家の、優秀な頭脳を持った七人兄妹(シーモア、バディ、ブーブー、ウォルト、ウェーカー、ゾーイー、フラニー)についての連作小説のうちの、末のフラニー編とゾーイー編にあたる。
・「そしてたっぷり五分間、彼女は泣いた。ヒステリックになった子供が、咽喉をひきつらせてたてるような、半ば閉じた喉頭蓋を突き抜けるようにして息がとび出して来ようとする、あの音をたてながら、悲嘆と懊悩の慟哭を抑えようともしなかった。それでいて、いよいよ泣きやんだときには、激しい感情の噴出のあとに普通なら続くはずの、刃物のような痛々しいしゃくり上げもなく、ただぱたりと泣きやんだ。」p.29
・「「とにかくわたしには、自分が気がヘンになりそうだということしか分かんない。」とフラニーは言った。「エゴ、エゴ、エゴで、もううんざり。わたしのエゴもみんなのエゴも。誰も彼も、何でもいいからものになりたい、人目に立つようななんかをやりたい、面白い人間になりたいって、そればっかしなんだもの、わたしはうんざり。いやらしいわ――ほんと、ほんとなんだから。人が何と言おうと、わたしは平気」」p.36
・「「だって、仏教の念仏宗では、『ナム・アミダ・ブツ』って、繰り返し繰り返し唱えるけど――これは『仏陀はほむべきかな』とかなんとか、そんな意味でしょう――それでも、おんなじことが起こるんだ。まったく同じ――」」p.45
・「どこかここのすぐ近くで――この道の先のとっつきの家あたりかな―― 一人の優秀な詩人が死にかかっているんだが、しかしまたここのすぐ近くのどここかで、誰か若い女の人がその愛らしい肉体から、一パイントの膿汁を取ってもらう華やいだ光景も展開しているような気がして仕方がないんだよ。僕だって、悲嘆と歓喜の間を、永久に往復してるわけにはいかんじゃないか。」p.71
・「「ぼくたちは畸形なんだ、それだけのことさ。あの二人の野郎がこっ早くぼくたちをとっ掴まえて、一風変った基準を持った畸形に仕立てやがったんだ。それだけのことさ。ぼくたちはあの見世物の『文身(いれずみ)の女』なんだ。ほかのみんなにも文身が入らないかぎり、これから先死ぬまで、一分たりとも心の平和は持てないね」」p.154
・「ああ、なんていう家なんだろ。鼻をかむにも命がけだ」p.168
・「「バディが言うにはだな、人間、咽喉を切られて丘の麓に倒れていて、静かに血が流れて死んでゆくというときにでも、きれいな娘や婆さんが、頭の上にきれいな壺をきちんとのせて通りかかったら、片腕ついて身を起こして、その壺が無事を丘を越えてゆくのが見られるようでなくちゃだめだ、と、こう言うんだ」」p.169
・「つかぬことを訊くが、なぜきみはへばろうとするんだい? つまりだな、きみがもし、全力をつくしてへばっちまうことができるんなら、その同じ力を、なぜ元気で活躍するために使うことができないのかね? いや、これでは不合理だな。ぼくの言ってることは不合理きわまるよな。」p.182
・「彼女が部屋を空けたのは五分ぐらいの間だった。戻ってきたときの彼女の顔には、かつて上の娘のブーブーが、息子の誰かと電話で話してきたか、さもなければ、世界じゅうの人間の胃腸が、これから正味一週間の間、完全な健康状態で整然と動く予定であるという、最高権威によって保証された報告を受けたか、二つのうちのどちらかだと評した表情が浮かんでいた。」p.201
・「「それにしても活動した方がいいぜ、きみ。回れ右するたんびにきみの持ち時間は少なくなるんだ。ぼくはいい加減なことを言ってんじゃない。この現象世界には、くしゃみする暇さえないようなものさ」」p.216

?そそう【沮喪・阻喪】 気力がくじけて勢いがなくなること。また、気落ちさせること。「意気沮喪」
?ピカレスク(英・フランスpicaresque)=あっかんしょうせつ(悪漢小説)
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