ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】読書と社会科学

2007年02月18日 22時17分51秒 | 読書記録2007
読書と社会科学, 内田義彦, 岩波新書(黄版)288, 1985年
・経済学・社会学の大家による、読書をテーマにした講演録に手を加えたもの。単なる"読書論"という言葉には収まりきらない深い内容をたたえた本です。後半はちょっとついていけなくなりました。時間があれば二、三度読み返すべきですが。。。
・「本は読むべし読まれるべからず、とさしあたり言っておきましょう。」p.4
・「(読書)会が楽しく育ってゆくかどうか、その鍵は、参加者の一人一人がどの程度聴き上手かどうかにある、と私は考えます。」p.9
・「そこで早速第一の問題に入りますが、「読む」と一口にいっても、読み方に二通り、根本的に性格が違う読み方があると思うんです。ここ(黒板)に書いた「情報として読む」のと「古典として読む」の二つです。」p.11
・「あのベートーヴェンが、ナポレオン戦争という、ややこしい戦争のややこしさを一手にしょいこんだ感のある複雑怪奇な占領下のウィーンで、生計の基礎の安定を求めてウロチョロしている姿はほほえましくも感動的で、その面の理解を欠くとベートーヴェン理解は本ものにならないでしょう。」p.12
・「第一、小学校以来の教育が、一般に本を古典として深く読む態度と技術を教えるどころか、本とは合理的すなわち安直に読み捨てるべきものという観念と風習を身につけさせるように、事実上なっています。」p.16
・「文体の問題に話が進んだとき、加藤(周一)さんが、新聞の文体は非常にいい。他の面では日本の新聞は相当難点をもっているけれども、明快な文体を作り上げた点だけは功績として称えていい。文筆家は以って範とすべきではないか、という意味のことをいわれました。」p.17
・「古典は、第一に、一読明快じゃない。二度読めば変る。むしろ、一年後に読んで、あの時はこう読んだけれど浅はかだった、本当はこう書いてあったんだなあというふうにして読めてくるような内容をもっていなければ、古典とはいえないでしょう。」p.20
・「(森有正の言葉)シュヴァイツァにしろ、デュプレにしろ、それぞれ精密に楽譜を調べ、徹底して楽譜に忠実であった。そしてそれゆえに、彼らのバッハ演奏は、それぞれ個性的である。  楽譜に忠実でない演奏は、自己流で恣意的であっても、個性的などとはいえないということですね、いい変えると。昂奮しやすい性質でテンポがつい早まってくるなんてのは論外だ。」p.28 以前、あるソリストについて抱いた感想と同じことが書かれていてビックリ。
・「それで、さいしょ「放談の場」としてそれなりに楽しかった会が、も少し密度の濃い読書で正確にという、それ自体当然な要求が出、会をそのようにもってゆく段になってくると面白くなくなる。」p.30
・「私が、古典としての読みの意義を一方的に強調したのは、現在、本を情報として読む風習があまりにも強く一般的になってきており、古典として読む風習と技術が失われつつあると思うからです。それでは折角の情報が情報になりません。」p.32
・「学問上の発見も、創造の現場に立ってみると、じつは同じなんです。信念の支えがあって学問は生れる。疑い一般からではない。」p.45
・「次にもう一つ。これも刺激的な言い方をしておきますと、「みだりに感想文を書くな」ということ。(中略)感想文を書くこと自体を否定するつもりは、もちろん、ありません。感想文を書くために本を読むというウソみたいな本末転倒がいつしか慣れになり読書論の常識になる、それが恐いというんです。」p.50
・「私なども芝居が好きで、はねた後の友人との食事を無二の楽しみにしておりますけれども、その時でも芝居の話などすぐには出ません。雑談の合間にぽつりぽつりとようやく出てくる、といったかたちで言葉になるのが本当の感想であって、下手な感想表明は豊饒な余韻を殺す行為である。」p.55
・「そして、そこは――そこが自分に面白かったのは――何故であろうかを考える。つまり焦点づくり。あの本は、少くともこことここが――誰がなんと言おうと今の自分には――面白かったということ、これが読書の基本です。それをぬいて、「客観的」に本のスジ書きを書いたり、あるいはまた逆に、著者に内在して著者のいい分を聴きとどける努力もしないで、早急に自分の意見を著者にぶつけることをしては、真に個性的な理解に達することは決してできません。」p.61
・「自分の眼と思っても案外自分の眼で無いことは多い。通説の弊ですね。」p.65
・「そうでなくても、眼は案外に働らいていないものです。すぐ目の前にある宝が見えない。見るべきときに見るべきほどのことを的確に、誤りなく見得る敏感な眼、あるいは耳ですね、アラート・イアーという、をもつことは至難のわざです。」p.66
・「反れていないというような消極的な正確さ、誰がやっても同じというていの平板な正確さは、決して本当の意味の正確な読みあるいは再現ではありません。」p.84
・「学問を「学問として」うけとっちゃ駄目だ。ずぶの素人になり切ること。学問によりかからず、自由を希求する一個の自由な人間として、自分の眼をぎりぎり使い、自分の経験を総動員しながら学問にきく。そういう体あたりの努力によって、学問は初めて有効に身についてくるものです。」p.99
・「ところが、中国ではそうではない。「勉強」は、ここでは、無理をする、あるいは、無理を強いるという意味を有する言葉であって、学問をするとか、値引きをするとかいった用例は、現代中国語でも古典語でも、ないのだそうです。」p.122
・「要するに学問の研究(勉強)とは、何かでき上がった学問を研究するのではなくて、学問によってこの眼の働き――一般に五感の――不十分さ、至らなさのほどを自覚し反省して、その(この眼の)機能を高めながら、対象であるもの、あるいは事象を研究する。それが学問のあり方、方法でもあり、効用でもあります。」p.135
・「概念装置を脳中に組み立て、それを使ってものを見る。物的装置をもたないという心細さが残りますが、概念装置を使うことによって、肉眼では見えないいろいろの事柄がこの眼に見えてくる。」p.145
・「本を読むことは大事ですが、自分を捨ててよりかかるべき結論を求めて本を読んじゃいけない。本を読むことで、認識の手段としての概念装置を獲得する。これがかなめです。」p.157
・「何でこんな簡単なことが答えられないの。満場シーンとなっちゃって。答えは出ているんだろうが、あまり簡単すぎるんで出ている答が「答え」として出てこない。こんなにわかり切った簡単な答が「答え」であるはずがないという考慮、大学という勉強の場としては何かもっと学問らしい答が求められているんだろうという予想が働いて自由な思考を妨げる。それじゃ実験が実験になりませんね。学校勉強を外して、素人になり切ったところで考えて下さい。」p.181
・「学問は、人間があい倶に真に自由な存在になってゆくために働かねばなりません。」p.209

?カイエ【cahier フランス】 帳面。手帳。ノートブック。
?きんぎょう【欽仰】 仰ぎとうとぶこと。仰ぎ慕うこと。きんこう。きんごう。
?ジャーゴン [jargon] 1.職業上の専門語  2.たわごと
?下衆の知恵は後から[=後につく] 下賤の者の知恵は事が済んでから浮かぶ。役に立たないことのたとえ。
?ちょうたく【彫琢・雕琢】  1 宝石などをきざみみがくこと。彫刻すること。  2 転じて、文章などをねり作ること。文章をみがくこと。

チェック本 一海知義『漢語の知識』岩波ジュニア新書
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする