2年余り続いた平成の大修理が完了した。
天守閣をずっと覆ってた囲いが外され、清々しく白い漆喰がまぶしい。
これでまた松山の四方からお城が見上げられるようになった。
秋晴れの青い空、街のド真ん中にある城山に三層のお城が映える。
どっかり座った感じの素朴なお城、松山の当たり前の風景が戻ってきた。
囲いがあった間は観光客にも申し訳ない気持ちだったし
見えるべきものが見えないというのは妙なものだった。
12月3日に修理完成の式典があって、イベントもやっているので
彼氏くんと城山に上がってみた。
あいにくの曇り空、11月までの穏やかだった気候とうって変わって
この冬一番の寒さ。
秋晴れのお城山を狙っていたのに、今日なんかの日に昇るんじゃなかったなあ
と思いつつ、久しぶりに登る。
お神輿やら太鼓やらが出て賑やかにやってる。
山からの眺めは本当にすばらしく、瀬戸内海もよく見えます。
天守閣内も、今までは入れなかった小天守の棟にも上がることが出来る。
ここからはこんな風に見えるのか?と感心しながらうろついた。
俺は幼いころから城が好きな少年でした。歴史も大好きな少年でした。
#####
この松山城は加藤義明の築城で、築城当時は実は5層の壮大な天守があったのです。
秀吉に可愛がられ、武勇優れた加藤嘉明が心血注いで武人の集大成として
この平山城を作ったが、完成間際に幕府より移動させられます。
相当口惜しかったに違いないが、会津40万石と松山より20万石加増の
栄転でしたので複雑だったでしょう。
その後はお家騒動で会津を召し上げられ、減俸となった蒲生家が入る
(加藤と交代)が世継ぎが無いまま急死しすぐに断絶、
そして徳川譜代の久松(松平)家が入り、そのまま幕末まで。
その久松家が入城した折に、5層の天守を取り壊し、わざに3層に改築する
のです。
理由は立派過ぎて幕府に遠慮したからとか、地盤が悪かったからとか様々・・。
数年前に5層だったころのお城を再現したCGを見たけど、3層の今のを
見慣れているからか少し違和感は感じた。
当時を思い起こし、歴史に思いふけりながら城を眺めていると
こんなことを想像します。
四国は長曽我部が治め徳川と敵対した地域だった。
その頃の松山地域とは水軍に代表されるような瀬戸内海の流通で成り立っていた。
松山の地形は今では考えられないけれど道後温泉付近まで船で入れた。
瀬戸内海の海運の、総元締めの町だった。
大宰府へ行く船は道後の湯で一休みしただろう。
どっちかというと当時の松山の人は、元気の良い海賊気質というか
ヤクザで豪勢な、調子の良い感じ?たぶん、冒険心のある人々が多かった
のではないかなあ?今とは違う気質だったろうと思う。
その地域を治めるにあたって、加藤嘉明も豪勢な城を瀬戸内海からよく見える
山の上に立て威光を見せつけたのだろう。
そして時代は変わり、四国に初めて徳川譜代の大名が松山に入る。
はじめが肝心、はじめにピシャっと地元民を大人しくさせなくては!考える。
その象徴として、多分街の自慢でもあった5層の天守をぶっ壊し、
3層に縮めてしまうことを思いついた・・。
当時、豊臣方の城の城は黒い天守、徳川側は白漆喰の白い天守と色分けされて
いたらしい。見た目にも分かりやすい白と黒の戦いだったとか。
加藤嘉明は豊臣恩顧の武将、5層の松山城は黒壁比率が高かった。
そこに松平家が入ったのだから徳川方の白に変えたいと思っただろう。
改築なので1階2階はほぼそのまま残し、3階部分のみ白く変えてみた。
あの城山は、もともと2つあった山を一つにならして作った山。
地盤も悪かったので結果的に改修は正解だったといったところだろう。
でも一番の理由は、これからは完全に徳川の時代である!静まれい!
従順になれい!時代は変わった!支配者が変わったのだ!ということを
目に見える形でアピールしたのが城の改築であったのじゃないかなあ。
そう、この時から愛媛の松山の県民性は抑えられ、従順と言うか
前へ習えになっていったのではないか?そんなことを思ってきます。
町のどこからでも見える城、3層になってずいぶんとゆったり安定して
しまった天守を見上げた人々は、その城を毎日見上げているうちに、
だんだんにそういう体質に替わっていった・・。
もし、5層のままだったら・・
それを毎日眺めてたら、松山の気質は今とは違っていたに違いない??なんて。
こうやって江戸時代において愛媛の保守王国的な意識は刷り込まれ、
いまだに遺伝子に刻み込まれているのかもしれません。
(明治維新の時には譜代大名ながら特に対抗することなく新政府に城を
明け渡し、当時のお殿様は知事となるのです)
天守閣をずっと覆ってた囲いが外され、清々しく白い漆喰がまぶしい。
これでまた松山の四方からお城が見上げられるようになった。
秋晴れの青い空、街のド真ん中にある城山に三層のお城が映える。
どっかり座った感じの素朴なお城、松山の当たり前の風景が戻ってきた。
囲いがあった間は観光客にも申し訳ない気持ちだったし
見えるべきものが見えないというのは妙なものだった。
12月3日に修理完成の式典があって、イベントもやっているので
彼氏くんと城山に上がってみた。
あいにくの曇り空、11月までの穏やかだった気候とうって変わって
この冬一番の寒さ。
秋晴れのお城山を狙っていたのに、今日なんかの日に昇るんじゃなかったなあ
と思いつつ、久しぶりに登る。
お神輿やら太鼓やらが出て賑やかにやってる。
山からの眺めは本当にすばらしく、瀬戸内海もよく見えます。
天守閣内も、今までは入れなかった小天守の棟にも上がることが出来る。
ここからはこんな風に見えるのか?と感心しながらうろついた。
俺は幼いころから城が好きな少年でした。歴史も大好きな少年でした。
#####
この松山城は加藤義明の築城で、築城当時は実は5層の壮大な天守があったのです。
秀吉に可愛がられ、武勇優れた加藤嘉明が心血注いで武人の集大成として
この平山城を作ったが、完成間際に幕府より移動させられます。
相当口惜しかったに違いないが、会津40万石と松山より20万石加増の
栄転でしたので複雑だったでしょう。
その後はお家騒動で会津を召し上げられ、減俸となった蒲生家が入る
(加藤と交代)が世継ぎが無いまま急死しすぐに断絶、
そして徳川譜代の久松(松平)家が入り、そのまま幕末まで。
その久松家が入城した折に、5層の天守を取り壊し、わざに3層に改築する
のです。
理由は立派過ぎて幕府に遠慮したからとか、地盤が悪かったからとか様々・・。
数年前に5層だったころのお城を再現したCGを見たけど、3層の今のを
見慣れているからか少し違和感は感じた。
当時を思い起こし、歴史に思いふけりながら城を眺めていると
こんなことを想像します。
四国は長曽我部が治め徳川と敵対した地域だった。
その頃の松山地域とは水軍に代表されるような瀬戸内海の流通で成り立っていた。
松山の地形は今では考えられないけれど道後温泉付近まで船で入れた。
瀬戸内海の海運の、総元締めの町だった。
大宰府へ行く船は道後の湯で一休みしただろう。
どっちかというと当時の松山の人は、元気の良い海賊気質というか
ヤクザで豪勢な、調子の良い感じ?たぶん、冒険心のある人々が多かった
のではないかなあ?今とは違う気質だったろうと思う。
その地域を治めるにあたって、加藤嘉明も豪勢な城を瀬戸内海からよく見える
山の上に立て威光を見せつけたのだろう。
そして時代は変わり、四国に初めて徳川譜代の大名が松山に入る。
はじめが肝心、はじめにピシャっと地元民を大人しくさせなくては!考える。
その象徴として、多分街の自慢でもあった5層の天守をぶっ壊し、
3層に縮めてしまうことを思いついた・・。
当時、豊臣方の城の城は黒い天守、徳川側は白漆喰の白い天守と色分けされて
いたらしい。見た目にも分かりやすい白と黒の戦いだったとか。
加藤嘉明は豊臣恩顧の武将、5層の松山城は黒壁比率が高かった。
そこに松平家が入ったのだから徳川方の白に変えたいと思っただろう。
改築なので1階2階はほぼそのまま残し、3階部分のみ白く変えてみた。
あの城山は、もともと2つあった山を一つにならして作った山。
地盤も悪かったので結果的に改修は正解だったといったところだろう。
でも一番の理由は、これからは完全に徳川の時代である!静まれい!
従順になれい!時代は変わった!支配者が変わったのだ!ということを
目に見える形でアピールしたのが城の改築であったのじゃないかなあ。
そう、この時から愛媛の松山の県民性は抑えられ、従順と言うか
前へ習えになっていったのではないか?そんなことを思ってきます。
町のどこからでも見える城、3層になってずいぶんとゆったり安定して
しまった天守を見上げた人々は、その城を毎日見上げているうちに、
だんだんにそういう体質に替わっていった・・。
もし、5層のままだったら・・
それを毎日眺めてたら、松山の気質は今とは違っていたに違いない??なんて。
こうやって江戸時代において愛媛の保守王国的な意識は刷り込まれ、
いまだに遺伝子に刻み込まれているのかもしれません。
(明治維新の時には譜代大名ながら特に対抗することなく新政府に城を
明け渡し、当時のお殿様は知事となるのです)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます