わーい、ちゃんとplalaからのインポートができたぞ、よかった、よかった

2014-04-02 11:03:21 | Weblog
やれやれ、これでひとつ関門を潜り抜けた気分。まあ、あちらは今日の今の段階でアクセス数も101292なのだが、こちらは始めたばかりだから致し方ない。また一から出直しでありますな。 


いろいろ考えて、当分、あちらも最後まで続けて、同じ内容をこちらにも置くことにする。ただ、問題はあちらで読んだ記事をこちらでまた読みに来ていただけるかどうかは疑問だ。だからそのあいまにこちらだけの別の記事も入れていく形で進めたい。どちらにしてもあちらは6月末でサービス終了だ。早めにこちらに移転しても悪くはないと思う。


とりあえず、先ほどあちらに出したのはこんなはなしだ。


『こんなこと』


どうも見る気になれなかったNHKの新しい朝の連続ドラマ、花子とアン、ついチャンネルを合わせてしまった。どこがいやだったかといえば、絵が汚い。時代背景、実際の状況を考えればこうなるのは当たり前だが、朝から見たいような絵ではないと思っていた。

今日はそれでも汚れた顔の子供のけなげな姿を見ていると、年老いた継母のことを思い出してしまった。今、88歳のこの人が新潟と長野の境の山奥の村から東京に出てきたころの話を思い出したのだ。あの人も、あの人のなくなった弟も山村で生まれ育って跡継ぎの弟以外の姉妹はみんな外に出て働くしかなかった時代に、あの人は若くして東京に出てきてそれでもよいお店で働くことができたから、ずっと新潟の家族のために支援して、結局結婚が遅くなって、うちの父に出会って、できの悪い子供の私たちとの縁ができたわけだ。

まったく申し訳ない話だ。思い通りにはならない人生、テレビの連続ドラマになるのは成功した方の物語だが、世の中の大半は平々凡々の人生だったり、下積みのままの一生だったり、決して思い描いていたようにはいっていないはずだ。それにはいったいどういう意味があるのだろう。

どうもやっぱり、それを考えるには人間を超えた大きな存在を思わないと解決しない事柄だと思う。成功した人生が実は他の人を踏みにじった成果だったり、失敗した人生が実は他の視点から見ればその人の成長のために必要なことだったのかもしれない、この世だけで見てはわからない部分があるのだ。それを信じることができるかどうかがまたひとつの試しなのだろう。

最終的にはこれは神仏の存在を信じられるかどうかにかかってくる問題だろう。信じていても慢心して失敗する人生もある。人間の一生は死ぬまで一種のテスト期間のようなもののような気がするのだ。



私のブログはテレビのエンターテインメントの『相棒』から、カトリックキリスト教を主に宗教一般まで、間口が広いのでなんでもありの日々雑感で、特定の話題にこだわらないのであります。