あんな動き、サッカーの魔術師とちゃうか?
それに伴ってあのベビーフェースだから、ハリー・ポッターの映画ならそのまま出演できるとちゃうか?
やっぱりリオネル・メッシという男は世界最高峰のサッカー選手とちゃうか?
昨日の2ゴールを観て鳥肌が立った人もいるとちゃうか?
抱かれても良い...
...それはないか。
あんな動き、サッカーの魔術師とちゃうか?
それに伴ってあのベビーフェースだから、ハリー・ポッターの映画ならそのまま出演できるとちゃうか?
やっぱりリオネル・メッシという男は世界最高峰のサッカー選手とちゃうか?
昨日の2ゴールを観て鳥肌が立った人もいるとちゃうか?
抱かれても良い...
...それはないか。
今日本のことを思うとき急に空しくなることがあるというと、、、急に空しくなることがあるという。
3・11に揺れたときの、周りの日本人のこわばった顔をたびたび思い出すというと、、、たびたび思い出すという。
テレビで大津波の映像を観るたびに言葉を失うというと、、、言葉を失うという。
地震と津波で福島第一原発の電源が全てやられたのを聞いてドキッとしたというと、、、ドキッとしたという。
事故後の2-3日で繰り返し起きた水素爆発の映像を観てゾッとしたというと、、、ゾッとしたという。
それでも、心のどこかで、日本だから大丈夫だと思っていたというと、、、思っていたという。
日本人の安全基準の厳守と危機管理能力を信じていたというと、、、信じていたという。
なのに、東電と政府の初期対応のお粗末さにがっかりしたというと、、、がっかりしたという。
それ以降の日本メディアの報道とBBCやCNNといった主要海外メディアの報道に存在する開きにびっくりしたというと、、、びっくりしたという。
その開きが海外におけるパニックを引き起こす一つの要因だったように感じたというと、、、要因だったように感じたという。
実家に僕の安否を心配する電話がなりやまなかったというと、、、なりやまなかったという。
僕は日本を信じようとしていても、海外にいる大勢の人が日本を疑ってかかっているというと、、、疑ってかかっているという。
かといって、疑ってかかるみんなが間違っているかといえば、必ずしもそうとは言えない状況だというと、、、必ずしもそうとは言えない状況だという。
じゃあ、どっちの意見が正しいのかという話しなっても、答えが簡単に見つからないというと、、、答えが簡単に見つからないという。
そんなこんなで、心の中の葛藤がまだまだ続きそうだというと、、、まだまだ続きそうだという。
だから、だから、今日本のことを思うとき急に空しくなることがあるというと、、、急に空しくなることがあるという。
こだまでしょうか?
そう、こだまです。
ネタがないからおもしろCMを載せるとちゃうかぁ?、、、と思ったそこのあ・な・た!
違います。
ネタには困っていないけど、どうしても暗い気分になりがちな今の時勢。
そんなムードを払拭する意味でもまたまたバカバカシイのを載せるのでごじゃる。
CMは、もうおなじみの(?)接着剤FEVICOLのもの。
将来において、日本の歴史上の (そして自分の歴史上の) 大きな転換点として記録されるであろう東日本大震災と原発事故。
未曾有の天災とともに、少なくとも戦後最悪の人災がそこに存在する。それは紛れないも事実だ。
ただ、この災害の規模からすれば、「天災」 と 「人災」 という単語だけでは収まらないんじゃないかと感じていた。
なぜなんだろと考えていた。
他にどう言い表せるだろうと考えていた。
そんなときに、誰かが言っていた (誰だか定かじゃないが) 言葉に妙に納得してしまった。
天災も人災ももちろんのこと、今回の災害は 「文明災」 だと。
なるほど! と思った。
なんかストレートに伝わる気がした。
探していた規模相応の言葉が見つかった感じだった。
何の許可もなしに勝手に一つ宣伝しちゃうことがある。
宣伝の対象になる人も在日外国人である。
かといって、僕の知り合いでもなければ、面識もないのである。
ただ、彼が在日外国人としてはおそらく有名人の部類に入ると思われるのである。
ということで、面識がないとはいえ、僕が一方的に彼の活躍を少し知っている。
そんな彼が、3・11以降、実は海外メディアの通訳として何度か福島県に足を運び、原発避難区域内にも立ち入っている。
危険を伴うその仕事は、何人かの外国人に断られた後に彼のところに舞い込んできたというのである。
で、彼は即座にその申し出を受け入れて、その足で被災地に向かったようである。
通訳してあげている海外メディアが被災地の実情をニュースとして流すのはもちろんのこと、彼も自分のブログにその状況をつづっている。
彼曰く、危険な仕事でも躊躇なく決められたのは、ただただ 「好きです!ニッポン」 という思いが強いからだというのである。
そんな彼が、心からの叫びだった 「好きです!ニッポン」 をTシャツにして、収益を義援金にすることに決めたようである。
Tシャツの金額は1枚2,800円で、今月29日に科学技術館で行われるスーパーフェスティバルというイベントのブースナンバーE-3、E-4にて発売開始予定のようである。
僕はこうやって何かを勝手に宣伝するのはめったにないことである。
というか、たぶん嫌いなことである。
それに、今回の大災害に関していうと、いろんな人がいろんな企画・商品を作り、その収益を義援金にしている。
ただ、そういう人々の中には、危険を顧みずに被災地・原発非難区域に足を運んでいる人が稀である。
だから、いちいち様々な宣伝してあげるわけにもいかないのである。
でも、例の彼が自ら被災地で取材して歩き回っている。
だからこそ、彼のTシャツを宣伝せずにはいられなかったのである。
それが僕はこのブログを通してできることだと思ったのである。
ところで、その彼の名はロバート・ボールドウィンである。
ブログを通してたまに展開する持論がある。
それは、言語・食・習慣などを全部ひっくるめた文化の多様性からすると、インド人同士で共通するものといえばお互いにに対する偏見の目だということ。
まあ、そういう持論こそが僕が持っている偏見かもしれない。
だからそれに異論があったって良い。
唐突にそんな偏見について考え込んだことには訳があった。
それは、僕にとっては珍しい出来事だった。
何かというと、日本人が日本人に対てあからさまに示した偏見だった。
福島県以外の日本人が福島県民の日本人に対してあからさまに示した偏見だった。
インドの場合、多くの偏見の根源には教育の欠乏と貧富の格差があると思っている。
でも、日本は教育においても先進国のはずだった。
にもかかわらず、日本人が日本人に対てあからさまに示した今回の偏見を事前に防ぐことができなかった。
恐怖と不安に駆られると、人々の思考がこんなにも乱れてしまうことを改めて思い知らされた。
そんなのは、インド人だろうが、日本人だろうが、関係ないことを意味していた。
そう思うと、ちょっと悲しくなった。
枝野官房長官が福島県を訪問した。
原発20キロ圏内にも立ち入った。
その際、防護服姿の枝野さんが同じく防護服姿の(おそらく)警察官と握手するシーンがあった。
それは写真撮影のためのポーズのようだった。
そこまでは別にどうでも良かった。
でも、その写真を撮るはずのカメラマンがテレビの画面に映った時はドキッとした。
周りのみんなが防護服姿なのに、なぜかそのカメラマンのみが私服だった。
たぶんマスクもしていなかったし、確かに普段着に見えた。
その理由は定かじゃないけど、不注意によるものじゃないことだけを願った。
本当にそれで良いのかと心配になっちゃった。
海外メディアでは、東日本大震災後の日本国内に漂う自粛ムードが大きく取り上げられている。
英語だと、「自粛」 を 「self restraint」 とか 「voluntary restraint」 と訳せるわけだけど、それじゃ日本における 「自粛」 のニュアンスが捉え切れないというのだ。だから、いろんな英字新聞に 「JISHUKU」 という横文字が目に付くようになってきている。
中には、 「JISHUKU」 は日本人の美徳として国民性と結び付けられていることも少なくない。他方で、過度の 「JISHUKU」 はかえって日本の景気に悪影響を及ぼしかねないともいわれている。
そんな論調の是非は僕じゃ分からない。ただ、言わせてもらうと、この一ヶ月の東日本の状況を間近で目の当たりにした者なら、誰しも楽しく遊ぶのに少しは躊躇するような気がしてならない。「JISHUKU」 は日本人の美徳かどうかは別として、在日外国人でもこの状況でためらうのが当たり前な気がしてならない。逆に、まったくそう思わないのはちょっと鈍感な人だけかもしれない。
別に、僕は敏感な方だと言っているつもりはない。
ただ、 ブログで明るい話題について書こうと思っても気が乗らない。インドでクリケットのワールドカップが行われていたのにじっと試合を観ていられない。MLBがとっくに開幕しているのに、まだ一試合もテレビ鑑賞していない。UEFAチャンピオンズ・リーグの準々決勝が行われたのに、ぜんぜん興味がわかない。遅ればせながらプロ野球が開幕したというのに、ニュースをやっているチャンネルに変えずにはいられない。
なぜ?
もしかして、、、僕も 「JISHUKU」 っている?
「この先揺れますので、ご注意ください!」
都内某路線の電車内でアナウンスが流れた。
いつもの個所でいつものように流れるアナウンスだが、珍しくあんまり良い気がしなかった。
ただでさえ地震の揺れに敏感になっているというのに。ただでさえ地震で揺れた錯覚に陥っているというのに。
だから、アナウンスを聞いて一瞬ドキッとした。
もうたくさんじゃないか。勘弁してほしい。
僕だけじゃなくて、みんなのためにも勘弁してほしい。
神様にその願いが届くと良いが...
人生が思わぬ急展開するきっかけになって1ヶ月。
未来が1ヶ月前の状況に戻ることがないかもしれない。残念ながら。
ならば、未来を1ヶ月前よりも良い状況にせねばならない。当然ながら。
その過程に加わりたい。微力ながら。
そう思う今日この節目の日。
しばしば、ある妙な感覚に陥ることがある。
それを、日本で外国人を見たときに経験する。
そのとき、自分の頭から自分自身が外国人であることが抜け落ちている。
そこには、目の前の人だけを 「外国人」 と認識している自分がいる。
それは、日本人が僕を見るときに思っているであろう感覚におそらく似ている。
本来、僕にとっては日本人も外国人である。
なのに、日本人を見たときは 「外国人」 という意識が欠けている。
つまり、日本人という外国人を除くその他の外国人を見るときに限って頭が勝ってに 「外国人」 と認識している。
もちろん、わざとやっているわけではなくて、気づいたらそうなっている。
まあ、話しはそれだけである。
それが何か?
僕は人間がちっちゃい。基本的に。
自分のことしか考えない。基本的に。
我を捨てて他人を思うことがない。基本的に。
時々他人のことも考えるが、たいていは自分の利害に直結している時。基本的に。
神様に助けを祈り求めるのも自分のことばかり。基本的に。
神様を思い出すのも苦しいときばかり。基本的に。
神様に他人の幸せを祈り求める余裕はない。基本的に。
時々神様に他人の幸せも祈り求めるが、たいていは自分の利害に直結している時。基本的に。
最近神様に 「我」 じゃなくてある 「他」 の幸せを祈り求めた。珍しく。
本当に心の底から祈り求めた。珍しく。
その 「他」 は 「我」 にとって大事なものだった。本当。
その 「他」 の別名は日本国だった。本当。
だから 「我」 を捨てて 「他」 の幸せを祈った。嘘。
なぜなら 「他」 の幸せに 「我」 の幸せがあった。本当。
言ったろう。
神様に助けを祈り求めるのも自分のことばかり。基本的に。
時々神様に他人の幸せも祈り求めるが、たいていは自分の利害に直結している時。基本的に。
我を捨てて他人を思うことがない。基本的に。
時々他人のことも考えるが、たいていは自分の利害に直結している時。基本的に。
だって、僕は人間がちっちゃい。基本的に。
なんでやねんっ~、というツッコミは無用なのだ。
なぜなら、今日はヒンズー教の太陽太陰暦によるお正月なのだ。
現代の生活リズムが西暦に基づいているため、どっちかというと儀式的な色合いが濃い日なのだ。
それでも、れっきとしたインドの本来のお正月なのだ。
この日に祈ることが一つだけなのだ。
日本にとっては明るい一年になることなのだ。