見据えてる
己の高み
年越しに
みなさん、良いお年をお迎えください。来年もザ・インド人をよろしくお願いします。
冬の冷たい空気
降り注ぐ太陽の優しい光
辺り一面の銀世界
湯気が立つ温泉の露天風呂
時折顔に感じるひんやりしたそよ風
体が芯から温まってくるという感覚
ふと頭に浮かぶこんな曲
そんな、お正月の 「和」 な過ごし方を夢見ていた今朝の僕
言わずと知れた、インド独立運動の中心人物だったマハトマ・ガンジー。(ちなみに、「マハトマ」 とは大聖者という意味の尊称)
彼は、いかなるクラブや組織でも会員になることが嫌いだったとされる。にもかかわらず、彼が自らユニークな組織を設立していたことがわかったというのだ。若い頃南アフリカで弁護士として働いて時のことだ。
組織の日本語名称は、「タマネギを好んで食べる人々の合同組合」 といったところか。奇妙に聞こえるが、仕方がない。だって、実際の名称は 「Amalgamated Society of Onion-eaters」 だから他にあんまり訳しようがない。
で、組合として何をするかというと、端的に言えば、タマネギを好んで食べるだけのようだった。仲間と良く通うベジタリアン・レストランで、ガンジー氏がフレッシュ・サラダとその他の生物を中心に食事する時期があったという。そのサラダにはタマネギが常にたくさん入っていて、「タマネギ好きの協会でも作ったらどうだ」 とからかわれるほど毎日タマネギを食していたらしい。
それはそれで良いのだが、問題は彼がその提案を真に受けて本当に組合を作ってしまったことだ。どうも、ロティー (全粒小麦粉をフライパンで焼いて作るパン) と生タマネギを一緒に食べることを、彼が冬季の健康対策として実践していたようだ。興味深い話しではあるが、効果のほどは定かじゃない。それに、仮に効果があったとしても、合同組合なんかを作っちゃうとはやっぱり驚きだ。
と言いながらも、マハトマ・ガンジーを見習って、僕も 「○○を好んで食べる人々の合同組合」 を設立したくなっちゃった。ただ問題は、 「○○」 を何にするかだ。それと、僕以外に誰か組合に加わる希望者が出てくるかだ。
はっきり言おう。後者に関してはいささか不安だ。
何度観てもげらげらと笑ってしまう。飽きるどころか、終わった時から次回の放送が待ち遠しくなる。そんなテレビ企画はそうそう出来るもんじゃない。
だから 「博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜」 は別格だ。自分の中では。
夕べも十二分に楽しませてもらった。ストレス解消にはぴったりだった。
この博士の助手になる方法は何かないのか?
ちなみに、懐かしの(?)第1回放送を観たい方は こちらまででうぞ!
お店に入る
メイン・メニューを見る
8種類の米とその詳細のみが載っている
その中から 「ミルキークィーン」 と 「登米ササニシキ」 という正反対の2種類を注文する
炊き上がるまでに30~40分かかることが通告される
へえ~と思う
その間のつまみとして一品料理のメニューから適当に頼む
談笑しているうちに30~40分が過ぎる
注文した米が炊き上がってくる
それぞれが一人用の釜で炊き上がってくる
それぞれが炊き上がる時間は少しずれている
1つの釜に茶碗2杯分のご飯ができている
食してみる
一品料理はつまみ感覚でしか口にしないでいる
納豆・生卵かけご飯が好きなのにもかかわらずこの日は遠慮する
なぜなら、この日のテーマは白米を味わい、その違いを実感することである
個人的には、やわらかくてコシヒカリより糖度の高い 「ミルキークィーン」 よりも、少し固めで甘さ控えめの 「登米ササニシキ」 が気に入る
あっという間にご飯を平らげる
米についてまた少し詳しくなったことで妙な優越感が生まれる
日本人のこだわりって見事なものだねぇ、という話しになる
こんなことがあるのは日本だけかもなぁ、という話しにもなる
米の種類を選んで白米を味わうためのレストランなんてインドでは存在しえないのである
だから今日のタイトルはああいうタイトルになっている
でも、タイトルについては読者の皆さんが既に感づいたはずである...
...と僕は確信している
なんとも失礼なタイトルだ。申し訳ない。
でも、そう思ってしまうのも無理がないかも。
この 「愛燦燦」 を聴けば... 鳥肌ものだ。
それに、顔立ちだってそこら辺のアイドルたちより凛々しくてかっこいい。ものまねだけじゃモッタイナイのでは?
って、「青木隆治」 という名を今まで知らなかったのは僕だけ?
セロリ...インドで食べたことのない野菜の一つ。インドでもあるにはあるようだが。
セロリ...日本で初めて口にした野菜の一つ。その感想は、良く言えば個性的な味。つまり、悪く言えばすぐに好きにならない味。でも慣れてくるとちょっと病みつきになる味。
セロリ...気づいたら良く口ずさんでいる好きな曲の一つ。 「や~れるっだけ~がんばってみてよぉぉ」 ってね。
話はそれだけ。
ある27歳のインド人女性が結婚した...
相手は、女性が当時同居していた姉のおうちに頻繁に出入りする知人だった...
結婚したのは良いが、二人が性的関係を持つことは一切なかった...
それに関して妻が聞かされていたのは、旦那がとある宗教的な風習のもとで半年間にわたって性行為が禁じられていて、半年後にとある儀式を行えば普通の夫婦生活が送れるようになる、という理由だった...
妻がそれを疑わずに旦那との生活を送っていた...
その間に、妻の名前で組まれたローンで乗用車やジープを買うこともあった...
ところで、妻の親戚の中に旦那のことを疑う人がいた...
妻もその親戚から警告を受けていた...
そんなある日、旦那が姿を消した...
と同時に、車もジープも消えていた...
その後、妻が驚愕の事実を知ることになった...
半年以上も一緒に暮らした 「旦那」 が実は女性だった...
騙されたことに気づいても時すでに遅しだった...
残ったのはローンの返済スケジュールのみだった...
というような内容の記事がインドの新聞に載っていた...
うそじゃない。本当に載っていた...
インドはやっぱりなんでも起こり得る国であることが改めて思い知らされた......
土曜日の 「世界一受けたい授業」 で世界中の児童労働の悲惨な真実を伝えるコーナーがあった。そこに、インドが児童労働に関してはたいへん大きな問題を抱えている現状が紹介された。
それは、インド国内ではずっと前から問題視されていることであり、社会問題としての注目度も高い。政府もただ手をこまねいているわけでもなく、様々な政策を講じて現状打破を図っている。しかし、それらの政策が充分に効果を発揮しているかといえば、まだまだ先の長い道のりです。
ただ、例の番組でも紹介されたように、児童労働撲滅活動が一定の成果を挙げつつあり、うん百万人の子どもが労働をやめて学校に通うようになっているというのだ。そして、それを可能にしている目玉政策は、無料学校給食プログラムというものだ。
結局のところ、貧しい子どもが学校に行かないで働かざるを得ないのは、または貧しい親が子どもに学校に行かせないで働かせるのは、毎日ごはんを食べたいことが目的なのだ。でも、そういう子どもたちが働いたって、腹いっぱいごはんを食べられないという実情がある。そこに目をつけてスタートしたのは無料学校給食プログラム。それによって、満足に食事ができるとあって親も喜んで子どもを学校に行かせるし、子ども好きであれ嫌いであれ勉強することになるから一石二鳥というわけ。
そのプログラムに、日本が大いに貢献できるチャンスがあるんじゃないかと思う。実は以前からそう思っている。
少し前のブログに、食料自給率が40%に過ぎないにもかかわらず、日本で生産した野菜や果物の約4割が規格外として廃棄されちゃうことへの不満を書いたことがある。もちろん、廃棄されないで、日本国内でその野菜や果物が消費されるならそれはそれでかまわない。ただし、見た目が悪いからどうしても破棄するというのなら、一つ提案があるのだ。
廃棄する予定の野菜をインドの無料学校給食プログラムに送ってはどうだ?
なにも腐りやすい野菜や果物を送る必要はない。でも、イモ類やニンジンのように比較的に長持ちするものを送っても良いんじゃないか。もちろん形がどうだって良いんだ。きれいな野菜を見たことがない子どもたちが、規格外のことなんかわかっちゃいないから。
それに、食べられるだけで感謝するであろう子どもたちのお腹に入れれば、廃棄を免れた野菜たちだって喜ぶような気がする。
違うのか?...............非現実的な提案なのか?...............な~んてことで頭がいっぱいの週末なのであった。
ちょっと気になっちゃった。
例の市○海老○事件がイギリスのテレグラフをはじめとする欧米のいろんな新聞に報じられているようだけど、なぜか彼を 「日本のブラッド・ピット」 と称している。
どういう意図なのかなぁ。
まだ警察の捜査中だというので、こっちもその件についてはコメントを控えさせていただきたいと思います。
それ、つまりはどうでも良いってこと...?
前回はガンジス川のことを思いながら書いたつもりが、気づいたら富士山と屋久島の話しで頭がいっぱいになっていた。思考って面白いもんだな。好き勝手に放浪するからガンジス川が屋久島にたどり着く。
「屋久島」 ... それは前々から心に響く言葉。 「富士山」 と同じぐらい。なぜなのかは分からない。まあ、分からなくても良いと思っているが。とにかく、富士山にしろ屋久島にしろ、特別な感情が湧いてくるのだ。昔からそうなのだ。
ただし、屋久島となるとガンジス川や富士山とちょいっと違うことがある。それは、なんとしても行きたいというふうに念じ続けてきた対象であるということだ。
日本を意識し始めたころから、屋久島のことがうすうすわかってはいた。でも、そのうち無性に気になりはじめる。一つのきっかけは、大好きな 「もののけ姫」 の存在だ。それに描かれている森は屋久島がモデルだというから気にならないわけがない。でも、「もののけ姫」 がきっかけに屋久島に注目した人が僕だけじゃないだろう。むしろ、とてもありきたりなきっかけだと思う。だからといって、「もののけ姫」 が好きである気持ちは変わらないが。
しかし、屋久島が頭から離れないきっかけはそれだけじゃなかった。他に、強烈なインパクトが残る一冊の本があったのだ。一回しか読んでないけど、それで十分だったのだ。 「癒しの森―ひかりのあめふるしま 屋久島」 というもの。
本を読みながら頭に屋久島のイメージが鮮明に浮かんでいく。自らが屋久島にいる感じになる。そして、読み終わった後、ちょっとした事件が起こる。
ある日寝床につくと、そのまま夢の世界へ。夢の行き先は屋久島。そこには、気が向くままに屋久島を満喫する僕がいる。朝目が覚めるまでその旅が続く。起きると、夢であったことを気づき、残念がる。でも、気分は旅の余韻に浸っているままだ。それはとても不思議な感覚なのだ。それに、起きてもなお一晩中の旅を鮮明に記憶しているじゃないか。それは今現在でもそうじゃないか。もうだいぶ年月が経つというのに。なぜなんだろう。
その日から、屋久島に行くことを願っている。どこか、いつかは行けるだろうと確信めいたところさえある。でも、それは初めて訪れたいというはやる気持ちとは少し違う。どっちかというと、改めて行きたいという感じ。一回目の旅は夢の中だったにもかかわらず、あたかも実際に行ったことがあるように屋久島の風景が頭の中に広がっている。そんなことは自分にしかわからない。他人には理解されない。なぜなんだろう。
本の作家である田口ランディさんが、以前は定期的にメルマガにエッセイを書き下ろしていたことがある。それを読むのがいつも楽しみだった。でも、田口さんがそれをやめてしまった。なぜなんだろう。ぜひ復活させてほしい。屋久島のことを思い出す度にそんなことも頭に浮かんでくる。なぜなんだろう。