ザ・インド人の日本語ブログ

PRAYING FOR THE GOOD OF JAPAN !!!

今では聞くことのできない音...

2005-08-30 | 独り言
週末にかけて集中講義がありました。「老年心理学特論」です。心理学は専門ではないが、とても興味のある分野なので受けてみました。最初は、「老年心理学ってなんだろう、僕には分かるだろうか」とちょっと不安だったが、楽しくおもしろくいろんなことを考えながら3日間を過ごせたと思います。

その中、高齢者のイメージワークとして一つおもしろい質問がありました。「今では聞くことのできない音」を思い出してみることです。ふだんはあまり考えることがないので一瞬戸惑いを感じたのです。「たくさんお音が思い浮かぶ人もいれば、一つも思い浮かばない人もいる。それは今のあなたです」と先生は言いました。昔よく聞いていた音の中で、自分にとって大事な音はなんだろうか。考え込んでしまいました。思い出したのが三つの音でした。

一つは学校に鳴り響いていた大鐘の音です。学校が始まる時や終わる時、それに授業の開始時間と終了時間を、その大鐘がみんなに知らせていました。その時間になると、学校の雑用係の人が決まったリズムで大鐘を鳴らしてたのです。その音と供に学校内の生活がすべて動いていた感じです。今思うと学校生活でのいい思い出の一つかもしれません。こんど地元に帰ったらその音を聞くために一回学校を訪れようかなあと思いました。

次に思い出したのが中学校の部活でやっていた「Kho-Kho」というインドの伝統スポーツのことです。簡単に言うと、チームでやる鬼ごっこという感じのスポーツで、僕の地元であるMaharashtra州で生まれたものです。その中に、「Kho」というかけ声を出しますが、その音を最後に聞いてからしばらくたつなあと考えながら部活のことを思い出していました。Kho-Khoについて詳しくは http://sports.indiapress.org/kho_kho.php まで!

大鐘や「Kho-Kho」のいずれの音にしても、こんど地元に帰ればまた体験できるかもしれません。しかし、これからも聞くことのできないかもしれない音として「家に飛び回るスズメたちの鳴き声」が最初に頭に浮かんだのです。

子どもの頃、よくスズメたちが気軽に家の中に入ってきました。キッチンにといであるお米を食べたり、チャパーティ(フライパンで焼く小麦粉の薄いナン)を作るために練ってある小麦粉を食べたりして、家中に飛び回ったりしました。家族の誰かがちょっと近づくと、慌てて逃げていました。気が付くと2-3分後になにもなかったかのようにまた戻ったりしていましたが。そんなスズメがトイレの窓に巣を作ったこともあります。そこでヒナが生まれたのを見たときの喜びを今でも忘れられないです。他にも、コマドリやハトやカラスなどいろんな鳥が家の周りにいつもいました。今でも母さんが毎日ベランダにおくえさを食べに来るカラスや、巣を作るために綿を取りに来るコマドリがいます。

しかしそんな中、いつかある日突然スズメがまったく来なくなったのです。しばらくたってから気付いたのだが、うちだけではなくて町中からスズメが消えていました。10年前ぐらいのことだろうか。なぜ突然姿を消したのか今でも謎のままです。早くまた戻ってきて、家の中で飛び回ってほしいです。静かな昼間に響くその鳴き声がなによりもなつかしくて、今では聞けないと思うととても淋しい気持ちで胸がいっぱいです。こんな懐かしい思いでを思い出させてくれた先生に感謝したいと思いました。

みんなの「今では聞くことのできない音」はなんですか。

小さな太陽光ランプ...大きな大きな希望の光

2005-08-27 | インド
インドで「アイシュワルヤ」という名の太陽光ランプを製造しているダルマッパ・バルキ氏は、先月、賞金5万ドルのアシュデン賞を受賞したというニュースがありました。アシュデン賞とは、グリーン技術を推進するイギリスの慈善団体、アシュデン・トラストが主催するものです。「この賞のおかげで、彼の製品に対する関心は大いに高まった」とアシュデン賞財団のジョー・ワルトンが語っているように、今インドに限らずアジア諸国やアフリカからも問い合わせが殺到しているそうです。インドではすでに5万台以上も売れており、その需要が増える一方です。

この太陽光ランプを発明したバルキ氏は、電気が通らない村で子供時代を過ごしました。夜になると灯油などのランタンの光で、仕事も勉強もできない状況で、ただ時間が過ぎていくだけです。「そんなつらい経験があるから、子どものころから対策を考えていた」とバルキ氏は言います。現在もそのような村がインドの半数近く占めているというので、そこに住む人々にとってこのランプがまさに希望の光となっています。子どもが勉強できるようになって、大人が牧場で仕事をしそれを守ることができるようになって、今までとまったく違う生活の可能性が広がったわけです。

この太陽光ランプが一台1400ルピー(3500円ぐらい)します。しかし、電気も通らないような村であれば、3500円が月給よりも高い値段である人々が少なくありません。そういう人々のためにバルキ氏は分割払いを認めることにしました。月々100ルピー(250円)を16ヶ月間支払う形にしたため、貧しい人でも何とか一家に一台ランプを付けられるようになったのです。さらに、分割払いでも高くて払えないという村の人のために、チャリティーで太陽光ランプの電柱を設置したりしています。そんな電柱の下に子供たちが楽しそうに勉強しているのを見てとても印象に残りました。

世界中から注目されるようになって、大口の注文をさばくための生産体制が大きなの問題でした。なおかつ、買い手が貧しい人のため、それをできるだけ安く売りたいというバルキ氏の意思も強かったです。そこで、彼はインドよりも低資金の中国に生産拠点を設けることにし、ランプ生産に不可欠の部分でありながら不足しがちなシリコン素材(Silicon seed stock)を日本から手に入れることに成功しました。去年の売り上げが50万ドル近くだったが、進行中の取引を考えると、バルキ氏は太陽光ランプ界のビル・ゲートになることがまちがいないだろう。

僕は以前、「いくら発展してもその成果が必ずしも貧しい人々までに均等に届くわけじゃないから、インド全体として発展途上国から脱し先進国になることはおそらくない」と書いたことがあります。だが、バルキ氏のような人がいる限り、真の意味でインドは大国になる日が来るかもしれないと少し望みがつながる気がしました。

駒大苫小牧野球部での暴力事件...高校野球を根本から見直す機会にしてもらいたい

2005-08-24 | スポーツ
57年ぶりに夏の甲子園を連覇した駒大苫小牧で起こった野球部長による暴力事件が世間をにぎわせています。しょせん、この時代に夏の甲子園を連覇することが奇跡に近いと思っていました。それに、北海道の厳しい自然と闘いながらそれを達成することは想像しがたいものがありました。そんな偉業を成し遂げた駒大苫小牧の選手たちから、この暴力事件によって優勝を取り消される可能性も出てきました。もしそうなったら、選手にとってたいへん大きな傷を負う結果になるような気がします。

駒大苫小牧高校側が事件の隠ぺい工作を図ったことを否定していますが、疑いの余地が残されています。高校側と暴力を受けた部員の親の話の内容も大きく食い違っています。それについて全体的に高野連が審議することになっているし、どういう判断が下るのかとても気になります。

過去のケースでは、当該者である野球部長の有期の謹慎処分が妥当とされていました。ただ、高野連の田名部参事は「これまでと同じ考えでいいのかは、今この場では即答できない。学校が調査中の段階で、軽々しく見通しは言えない」と話しました。優勝旗返還、来春センバツへの挑戦の場となる秋季全道室蘭地区予選への不出場、岡山国体不出場、いずれの可能性についても同参事は「すべて学校からの正式な報告書を見てからです」と話すにとどめました。

そして、なにより審議委員会での決定に大きな影響を及ぼしそうなのが、明徳義塾の甲子園大会出場辞退だろう。同校は部員間暴力などの報告が遅れたことで、夏の大会直前に出場を辞退し、規定により高知大会の優勝も取り消されました。さらに、秋季高知大会への出場も認められず、来春センバツも出場できなくなりました。

明徳義塾に起きた事件で暴力をふるったのが部員だったことに対して、駒大苫小牧の場合にそれは指導者でした。その違いがあるとはいえ、報告が遅れたのは明徳義塾も駒大苫小牧も同じように見えてしかたがないです。明徳義塾の辞退後、日本高野連はあらためて報告を促す通達を加盟校に出したが、高野連は駒大苫小牧の事件を週刊誌からの取材で知ったそうです。つまり、形としては、通達が無視されたことにもなるだろう。

大きくメディアで取り上げられたこの二つの不祥事ですが、そもそもなぜ高校野球ではそんなことが多いのかをあまり議論されないような気がします。事件はこの二つだけだったら話は別だが、高野連が年間40件もの事件の報告を受けるそうです。明徳義塾が甲子園の名門高校だし、駒大苫小牧は夏を連覇した高校として不祥事も大きく報道されるのであって、その他の場合にほとんどニュースバリューがないわけです。

プロ野球の人気低迷とかさわがれている一方、高校野球が年々観客動員数記録を更新しています。その注目度も他の学生スポーツと比べものにならないぐらい高いです。つまり、学生スポーツの中で高校野球が子どもに及ぼす影響がもっとも大きいはずです。だからこそ、今年の夏に起きたこの二つの不祥事を機に高校野球のあるべき形や本質について改めて議論して見直してもらいたいと思います。

2005HEADオープンスカッシュ選手権 in 関西...トップ選手のプレーに受けた刺激

2005-08-23 | 独り言
先週末、京都で行われたHEAD社主催の関西オープンスカッシュ大会2005に参加してきました。公認選手権大会としての一般レベルに加えて、愛好家スカッシャーのためにフレンズAと、フレンズBという二つのグループでトーナメント式で試合が行われました。フレンズBは、スカッシュを始めてまだ2年ぐらいしか経っていない人が参加するグループで、フレンズAそれよりもう少しやっている人が参加できるグループです。一般レベルとは、簡単に言うと、スカッシュがとても上手な人たちのグループです。もちろん、日本のトップ選手も参加するわけだから、一般でもレベルとしてピンからきりまでありますが。

僕はスカッシュに出会ったのは去年の冬で、まだ10ヶ月ぐらいしかたっていません。冬の間、外でスポーツや運動することはできないし、運動をしていないとだるく感じて食欲もなくなる。そうなると、北陸のような僕にとって厳しい冬でやせてしまう可能性が大というわけです。周りの人はその逆の悩みを持ったりしますが。そのため、去年の冬当時家のいちばん近くにあったフィットネスクラブに入ることにしました。最初はトレードミルで走ったり、自転車をこいだりして、少し筋トレをすればいいと思っていました。しかし、入ってみると、やっぱりずっと無言のまま一人で走ったり、バイクに乗ったりすることはいやで、気晴らしにエアロビクスに参加したりといろいろ楽しくやっていました。そんなこんなでフィットネスクラブに通うようになったわけだが、そこは北陸で唯一公認のスカッシュコートがある所だという話を耳にしたのです。スカッシュコートがあることに気付いていたし、人が楽しそうにやっているのも見ていました。でも、自分の中ではスカッシュが少しエリートな感じがあって最初の一ヶ月まったくやってみなかったです。

そんなある日、友だちに「ポーランドで買ったラケットがあるからちょっとやってみたいんだ。付き合ってくれ」と言われたので、一緒にやりました。僕にとってそれは2回目のスカッシュでした。あるいとこのお姉さんが嫁いだところが大手会社の社長で、その会社の住宅地内にあるスポーツセンターでスカッシュコートもありました。そのお家に遊びに行ったときに、お姉さんのだんなさんと少しだけスカッシュをした覚えがあります。10年以上前のことです。その時も、「スカッシュってお金持ちじゃないとできないもんだなあ」という印象の方が強くて、スポーツとしてそのルールや楽しさをあまり覚えなかった気がする。自分の中でそんなエリート意識があったスカッシュは、昔からインドやパキスタンの選手がとても強いです。それはなぜなんだろうと一つ不思議なことですが。

そんなスカッシュを、10年ぶりにフィットネスクラブで友だちととても気軽にできました。やってみるとひじょうにおもしろいし、運動量もかなり多いし、頭も使わないといけないし、いいことばかりでした。これにははまってしまいそうだなあと思いました。ようするに、それがきっかけで10ヶ月前に僕のスカッシュライフがはじまったわけです。それを考えると、先週末の大会でフレンズBに参加してもよかったはずなのに、フレンズAに参加しました。一回戦に勝って、次の試合におしくも負けてしまいましたが。というより、つまらないミスをして自滅しました。しかし、フレンズAの方がおもしろくて楽しくて自分が通用すると思えたのでよかったです。

しかし、しょせん僕はフィットネスクラブに入ったのは楽しく汗をかくためだったし、「部活」的なスポーツをもう卒業したつもりでした。自分で勝手にそう決めていただけのことですが。そのため、スカッシュにおいても僕にとって遊びであって、なにか必死になる気持ちはあまりありませんでした。スカッシュを練習しているというよりも、楽しんでいるという感覚に近いものがありました。それに大きな刺激が与えられたのはこの週末の大会でした。男子の一般レベルももちろんのこと、女子では日本チャンピオンを含めトップ10の選手のうち5人も参加したので、ひじょうにレベルの高い戦いを目の当たりにしたわけです。スカッシュでは初めてですが、久しぶりにプロのプレーを間近に見て圧倒されました。せっかくスカッシュができる環境におかれているから、もう一歩踏み込んでやってみたいという気持ちがわいてきました。だから、今までどおり楽しく、あまり欲も出さず、しかししっかりと上を目指してがんばろうと思っている今日この頃です!

不登校中学生・37人に1人...ちょっとぜいたくな悩み?

2005-08-16 | 日本
先週、「学校臨床心理学」の集中講義の一環として「不登校のとらえ方」について考えました。いくつか小論文を読み上げながら不登校問題と学校・スクールカウンセラーによる対応について議論しました。不登校が日本の一つの社会問題になっていると言うことを薄々知っていましたが、その実態に驚きました。

講義にタイミングよく、翌日文部科学省が発表した学校基本調査報告によると、病気などを除く心理的な理由で学校を1年間に30日以上欠席する「不登校」(年間30日以上)の小中学生の数は12万3317人でした。3年連続でその総数は減少しているというものの、詳しくみると中学生の37人に1人が不登校で学校を休んでいる計算になります。つまり、各クラスで一人が不登校という状況なわけです。八つしかない先進国のなかでも、日本はもっとも不登校率が高い国だと先生が言い切ったのです。

不登校のきっかけは、「友人関係をめぐる問題」など学校生活が36・2%で、「病気」など本人にかかわる問題が35・6%。不登校の継続している理由は、登校の意志はあるが体の不調を訴え登校できないなど「不安など情緒的混乱」が30・6%でした。学校の指導で登校することができるようになったのは約3万2千人で26・4%。特に効果があったとされたのは「家庭訪問」や「登校を促す電話や迎えに行く」でした。

それを読みながら僕はインドの現状につちえ考え込んでしまいました。2000年の調査報告によると、15歳以上の非識字率は44.2%だそうです。つまり、ソフトウェアー開発・IT業界や、バイオテクノロジーや、宇宙開発やその他のさまざまな先端的な分野で目覚しい発展を遂げている一方、半分近くの人口が文字の読み書きもできないということです。そのため、インドの場合に不登校の問題はどうのこうのという以前に、どうやってみんなに基本的な教育を与えるかが重大な課題になっているわけです。その非識字率こそが、いくらさまざまな分野で発展しても国全体として「発展途上国」から脱しない要因の一つとして考えられるでしょう。そのバリアを打開しようと政府もいろんな政策に打ち出したりとずっと努力を続けていますが、それはなかなか実らないのが現状です。非識字率の多くを占めているのは、基礎教育の機会すら与えられない人々のはずです。子どもの頃から親に働かされたり、学校に通うような環境じゃなかったりすることがしばしばあります。そのため、教育や学校の大切さに気付かない人もいれば、気付いてもどうしようもない人もたくさんいます。広がるばかりの貧富の格差や多文化・多宗教の多様な社会構造も、そういう状況になりやすくしているかもしれません。

99.8%の識字率を誇る今の日本からすれば、インドにおけるこの社会的なギャップをとても想像しがたいものだと思います。いっぽう、日本のように基本的な教育を得られる環境がこれほど整っているのに「学校嫌い」や「人間関係をめぐる問題」などで登校拒否することが僕は不思議でなりません。僕も学校や勉強が好きでたまらなかったわけではないし、休めたらそれでもいいと思うこともあったかもしれません。しかし、自分と同じ年代で働かなければ食べていけない子どもを周りに見ていると、簡単に登校拒否なんかできる勇気はとてもなかったと思います。

日本の不登校は社会問題としてとらえるか、現在の教育体制を見直すきっかけとしてとらえるかが僕にはまだわかりません。ただし、変な言い方かもしれませんが、いずれにせよこの不登校問題は僕の目にぜいたくな悩みに映ってしまいます。

三尺球が打ち上がる前のサイレンの音とフェニクス花火

2005-08-08 | 日本
「日本一の大花火」のちょうちんが町中に立ち並ぶ長岡まつりに行ってきました。長い間の悲願が一つかないました。「感動した」という言葉をあまり簡単に使わないように気をつけているつもりですが、2日間この花火を見て素直に感動しました。そこでいろんな人に出会えて、いろんなことを教えてもらって、貴重な二日間でした。

花火を何回見ても、どこで見てもきれいなことに変わりありませんが、この花火を忘れることはないと思います。それは、とても美しい花火が見られたのはもちろんのこと、花火大会をやる意義やその奥の深さ、人々の熱い思いが直に伝わったからです。

日本一の大河の信濃川に上がる三尺球の打ち上げが日本一の大花火の名にふさわしい。川にかけた橋にきれいなナイアガラ花火ができると同時にその真上に三尺球も上がります。なんともいえない美しい光景です。だが、その三尺球が打ち上がる前にしばらくサイレンの音が鳴り響くのです。「これから三尺球が上がるのでみんな注目してください」の合図なのかと思ったら、それだけではありませんでした。長岡まつりは第二次世界大戦中の長岡空襲の“戦災復興祭”を起源としているようです。戦争中は、空襲警報としてサイレンが鳴っていただろうが、今は空襲で亡くなった人々をしのんでか、まだサイレンを鳴らしつづけています。不幸の中の幸いとして、長岡には原爆から免れたという歴史もあるみたいだから、その幸運を祝ってサイレンが鳴っているようにも思いました。戦争を思い出すと言ってそれを嫌がる人もいるかもしれないが、花火大会の目玉である三尺球が上がる前のサイレンには深い意味があったわけです。

しかし、本当の意味で今年の目玉は三尺球ではなくて、一番最後に打ち上げられたフェニクス花火でした。 「昨年10月の新潟県中越大震災は、長岡市を含め中越地方に甚大なる被害をもたらし、多くの方々が被災しました。 また、中越地方に限らず新潟県全体においても、観光産業をはじめとした各種産業に多大な被害を及ぼしています。 このような大震災に負けずに現在も頑張っている、中越地方をはじめとする新潟県全体の大勢の人々を元気付けるために、 また一日も早い復興を祈願し世界一として誇れるような壮大な花火を・・・更には、世界中の人々の復興とご支援頂いた多くの方々への感謝のシンボルとして「新潟県中越大震災復興祈願花火フェニックス」を、復興を起源とした「長岡まつり」にて打上げます」...そして、1.5キロの大花火が同時に長岡の空に上がりました。それを目の当たりにした人がみんな目が潤んでいました。

その感動をみんなさんに...http://nbtv.tv/