野球のナイター中継が終わっていた。
チャンネルを変えると、福岡ユタカ氏作曲の、僕が好きだったテーマ曲が流れていた。
それはニュースステーションの始まりを意味していた。
報道ステーションではなくて、まだニュースステーションの時代だった。
久米宏さんと渡辺真理さんがやっていた。
あの日、僕は夕方から行きつけの喫茶店に入り浸っていた。
野球観戦後、食事をしながらそのままニュースステーションを観ることになった。
番組途中で突然、緊急ニュースとしてニューヨークから中継がつながれた。
テレビ画面に超高層ビルの火災現場が映った。
その現場を見渡せる遠い位置から、リポーターが火災の原因などを説明しようとしていた。
とそのとき、自分の目を疑う出来事が起きた。
一台の飛行機が、火災現場に隣接する超高層ビルに衝突した。
衝突したというよりも、突っ込んでいった。
リポーターが解説する背後で、世界中を震撼させる瞬間がしっかりと生中継されちゃった。
おそらく、アノ人たちの思惑どおりだった。
世界が一変した。
後戻りができない、そんな世界になってしまった。
「公共の場所でのおなら禁止令」
(でかでかと書くようなことでもないと思うが...)
なぜかそんな法案が審議されることになった国がある。アフリカ南東部のマラウイだ。
法案を可決したい意図は、「民主化のせいでどこでも自由におならをして良いと考えるようになった人々に対して、政府には社会の品位を保つ権利がある」 みたいなことらしい。何を言いたいかは良くわからないが、そういうことらしい。
ただ、一つだけ疑問が残る。
電車や図書館などでこのニュースを読んだ時、げらげらと笑ったため出てしまったおならも軽犯罪の対象になるかどうかということだ。
まあ、ここはマラウイじゃないから考えなくても良いっか。
そんな中、自分がどのように支援することができるかと考えました。そうしたら、まず募金に協力することが可能だと思ったのです。なにか災害が発生するたびに、どのテレビ局も募金活動をしていて、電話一本で100円が寄付されるシステムがあります。しかし、それは携帯電話や、PHSや、公衆電話からかけられないようになっています。つまり、僕みたいに今携帯電話しか使っていない人がそれに協力できないということです。なぜ携帯電話から電話をかけるのを禁止されているのかよくわからないが、もちろんそれなりの理由があるだろう。ただし、なにか問題があるとしても現在の技術ではそれをクリアできるのではないかと思います。一人暮らししている学生や社会人で携帯電話しか使っていない人が多いと思うので、彼らがみんな募金に協力できたらどんなに大きな力になれるかを考えるべきではないだろうか。
インド付近の南西アジアに自然災害が相次いでいます。去年のスマトラ沖地震をはじめ、今年のモンスーンに猛威を振るった大雨で多くの地域に洪水が発生しました。それらの対応に覆われている最中にこの大地震が起きたわけだから状況が悪化する一方だと思います。最近の自然災害がインド付近に限らず世界中大きな被害をもたらしています。日本でも大地震や台風による被害が相次いで出ているし、ヨーロッパに起きた大洪水や、アメリカを襲ったハリケーンなどを見ていたら、なにか災害が跡を絶つような気配がないような気がしてならないです。
日本の中越地方で起きた地震の後すばやい対応で仮設住宅が建設され、冬が到来する前に多くの人がそこに入ることができたと思います。今回の大地震で全滅された村や地域で同じような対応を急がなければ、カシミール地方の厳しい冬でさらに多くの命が危険にさらされる可能性があるので心配です。
今回の大地震が起きた地域が、インドとパキスタンの間60年近く続いている紛争の対象となっている国境付近です。これだけ長い間紛争が続くと発展も開発もなかなか進まない状況に陥ってしまい、少しずつみんなの希望が薄れていくわけです。不幸中の幸いと言ったら変ですが、この災害を機に両国が平和への新たなスタートを切ってほしいことは今の切実な願いです。自然にも、そしてその自然が起こす災害にも国境がないわけだから、こういう状況では復興に向けてみんなで力を合わせるしかないだろう。
今はすっかり忘れてしまいましたが、3年前初級のフランス語を勉強してみて僕もその数え方が複雑だと感じたことがあります。科学技術の討論にはやっかいなことだということも的をえているかもしれません。しかし、それでいきなり国際語として失格とすることはどうかと思います。「言語が、不便だからという理由で忘れられていくというのは非常に残念な気がする」と都知事が言っていますが、そんなにフランス語が世界で忘れられている言葉なんだろうか。フランスをはじめ、その植民地にされていたアフリカ諸国などで今も高いプライドを持ってフランス語が使われていると思います。そして、なによりそんな「やっかいな」言葉が話されているフランスが数少ない先進国の一つでもあります。
言葉は常に変化するものだし、中には難しいと思われるものが使われなくなることもあります。インドのサンスクリット語も今やほとんど学問としてしか使われないし、韓国では漢字を使わずにハングルの文字を用いるようになったのも同じことだと思います。そうやって、言葉の合理さ不合理さを考えながら工夫していくのは、おそらくその文化圏に生きている人がやっていくことでしょう。さらに、合理さなどを超えたそれぞれの言葉の美の感覚も存在するということでしょう。
「数字の数え方がやっかいなためフランス語が不合理的な言葉で国際語として失格」なら、中国語から借りた複雑な漢字をなおも用いつづける日本語が合理的な言葉なのかを聞いてみたいです。合理さだけで考えるなら、フランス語の数え方よりも漢字を勉強することははるかに難しいことです。話すことと読む・書くことの違いが日本語ほど大きな言葉は他にどれだけあるのか。日本語が勉強するには難しい言葉の一つだと言われます。でも、それは話すことには当てはまらないと思います。日本語は音が少ないし、聞き取りやすいので比較的簡単に話せるようになる言葉だろう。しかし、漢字になると話しが違います。上手に日本語を話せても、読む・書くことができない外国人がたくさんいます。その上、日本語はほとんど日本でしか使われない言葉です。ならば、日本語も国際語として失格なのだろうか。
僕は日本語が好きだし、漢字が日本語の魅力や美だと思っています。それが日本語を勉強するきっかけの一つでもあったかもしれません。同じように、フランス語の音がかっこいいと思って話せるようになりたいと思ったことがあります。僕にとっていずれも魅力的な言葉であって、それぞれに簡単なところややっかいなところがあります。しかし、やっかいなところがあるから不合理的な言葉だと簡単に決め付けることはできません。