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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月31日・デカルトの出発

2024-03-31 | 思想

3月31日は、映画監督、大島渚が生まれた日(1932年)だが、哲学者、デカルトの誕生日でもある。

ルネ・デカルトは1596年、フランスのラ・エーで生まれた。富裕な市民から成り上がった法官貴族の家系で、父親は高等法院の評定官だった。生まれたときからルネは病弱で、20歳のころまでずっと青い顔をし、空ぜきをしていた。彼が1歳のとき、母親が没し、彼は祖母と乳母によって育てられた。育ててくれた乳母を、デカルトは終生心にかけていた。
イエズス会の学校で教育を受けたデカルトは、そこで教わるスコラ哲学にあきたらず、18歳で大学に進み、そこで医学と法律学を修め、20歳で卒業した。そしてさらに「世界という大きな書物」を読もうと志して世の中に飛びだし、23歳のとき、ドイツの軍隊に入り、
三十年戦争に参加した。
軍隊の露営中に、デカルトは「驚嘆すべき学問の基礎を発見」する天啓を受け、諸学問の方法的統一を確信し、自分がそれを成し遂げる自信を得た。
軍隊を離れた彼は、パリ、ヴェネツィア、ローマなどヨーロッパを放浪した後、32歳のときにネーデルランド(オランダ)へ移住し、新しい形而上学の方法を考えるための静かな思索の生活に入った。
37歳のとき、宇宙の構造を物理学的に分析した書『世界論』を出版しようとしたが、ロー
マでガリレオ・ガリレイが宗教裁判で有罪判決を受けた報を聞き、出版をとりやめた。
40歳のとき『方法序説』を完成したが、40代の彼は、論敵から無神論者として糾弾され、大学での講義を禁じられるなど、さかんに学問的迫害を受けた。
53歳のとき、学術を尊重する王として名高いスウェーデンのクリスチーナ女王からの再三の招きに応じて、冬のスウェーデンに渡った。女王の家庭教師となったデカルトは、午前5時から講義をするうち、風邪をうつされ、肺炎を起こして、1650年2月、スウェーデンの地で客死した。53歳だった。没後『世界論』を含む遺稿が出版された。

デカルトは、なんでも疑ってやれという懐疑主義者ではなかった。ただ、真理を見つけ出すために、疑うというやり方「方法的懐疑」を使った。
彼は、感覚を疑い、数学の真理も疑い、夢と現実の区別も疑ってかかった。そうしてすべてについて疑いに疑った後、ただひとつこれだけは疑いの余地がないものにたどりついた。それは、こうして疑っている自分自身の意識だった。そこで彼はこう言った。
「われ思う、ゆえにわれあり(Cogito ergo sum・コギト・エルゴ・スム)」
この「われ」を揺るぎない出発点として、論理を組み立てていった。

デカルトは、一生を通じて孤独を愛した人で、パリでは自分の居どころを隠し、ネーデルランド時代は20年間で13回引っ越したという。デカルトの最期のことばはこうだった。
「私の魂よ、お前は長い間囚われの身にあった。お前がお前の監獄から放免されるときがきた。この身からの束縛を去る秋(とき)がきた。そして、歓びと勇気とをもって、この別離を耐え忍ぶときがきた。」(梶山健『臨終のことば』PHP文庫)
(2024年3月31日)



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