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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

6月16日・ジェロニモの人間観

2024-06-16 | 思想
6月16日は、米アパッチ族の戦士、ジェロニモの誕生日である。

ジェロニモは、1829年に、現在の米国ニューメキシコ州のギラ川に近いアパッチ族の集落に生まれた。当時はメキシコ領だった。「ジェロニモ」は白人側からの呼称で、アパッチ族のあいだでは「ゴヤスレイ(あくびをする人)」で通っていた。ネイティブアメリカンは、自分の本名「神聖な名」は家族以外には知らさず、ふだんはもっぱらあだ名で呼ばれていた。ジェロニモの「神聖な名」は伝わっていない。
アパッチ族にもさまざまな種族があるが、ジェロニモはネドニ・アパッチ族の酋長(しゅうちょう)の孫として生まれた。彼には、3人の兄弟と4人の姉妹がいた。
酋長とはいっても、ネイティブアメリカンの場合、王国や軍隊のような階級や命令系統があわるけではなく、男は一人ひとりが独立した戦士であって、決定は合議制で決まる。酋長は交渉ごとの調停役という位置づけだった。
ジェロニモは、ミンブレス・アパッチ族のもとで、山岳戦士として訓練を受けて育ち、その部族の娘と結婚した。
29歳のとき、ジェロニモは、メキシコ軍が提案してきたいつわりの和平案にだまされて、おびきだされ、家族をみな殺しにされ、ここから対メキシコ軍との報復の応酬がはじまった。
米国側では、彼が31歳のとき、金鉱採掘のために流れてきた山師によって、アパッチ族の野営地が襲われ、これを発端として米国政府とのあいだでアパッチ戦争がはじまった。
米国側は、ジェロニモを種族の首領とかんちがいし、そのため彼は交渉の席についたり、騎兵隊に追われたりした。ジェロニモは少数の味方戦士とともに山岳地帯を部隊にゲリラ戦を展開し、メキシコ領に逃げこんだり、米国領に姿を現したりして、敵を翻弄した。
和平交渉だとだまされて捕縛された後も、脱走してふたたび抵抗を続けたが、57歳のとき、ついに米国側に投降して、フロリダの強制収容所に収監された。
ジェロニモはフロリダ、アラバマの収容所をへて、オクラホマに囚人として収監された。晩年は見せ物として扱われ、彼は1904年のセントルイス万博にも引っぱりだされた。ほかのネイティブアメリカンの部族の者たちといっしょに、ジェロニモはおおぜいの聴衆の前でロープを扱うコンテストに参加した。供述録を残し、1909年2月、肺炎のため収監先のオクラホマの砦で没した。79歳だった。ジェロニモを最後に、ネイティブアメリカンの抵抗は終わる。

マット・デイモンが出演した映画「ジェロニモ」を見た。史実に近い映画で、侵略者である白人たちのネイティブに対する仕打ちというのは、ひどいものだった。卑劣、裏切り、狡猾、だまし討ち。それを合衆国側は組織的にやっていた。
対するネイティブアメリカン側の人間観には、打たれるものがあった。彼らは、個人としての誇りを大切にし、人をその肩書きで識別せず、その個人が信用できるかどうかで判断する。そうした信頼は、米国側の組織的謀略の前に、ことごとく裏切られていく。
ナチス・ドイツによるホロコースト、トルコやイラクなど中東地域のクルド人迫害と同様、こうやって米国史を振り返ると、よく昔の西部劇に登場したネイティブアメリカンのセリフの正しさが納得される。
「インディアン、うそつかない。白人、うそつく」
(2024年6月16日)



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