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芸術鑑賞 017 エドワード・スタイケン 続き-1

2011年08月25日 20時53分47秒 | 芸術鑑賞
多くの若者が二十歳前後に人生に大きな影響を与える旅に出る事は、時代を問わず世界中どこでも同じように思われます。 スタイケンの場合それが当時の芸術の都パリへ行くことでした。

スタイケンはミルウォーキー・アート・ステューデント・リーグの学友 Carl Biorncrantz と一緒にニューヨークからフランスのスティーマー(汽船)Champlain の三等客室(steerage)で7~8日間かけて大西洋を渡りました。 現在のSFOとKIX間が11時間以上なので長くて疲れるなんて文句は言えませんね。 スティーレッジと聞くとアルフレッド・スティグリッツのスティーリッジ(The Steerage)の写真を思い出してしまいます。

途中での食事がひどいことを注意されていた二人は、パンとハム、チーズを持ち込んでしのいだそうです。 ここで面白いなと思ったのが、若い二人は自転車を一緒に船に持ち込んだ事です。 
フランスに着いてLe Havreからセーヌ川沿いに春の景色を写真撮影やスケッチをしながらパリまでサイクリングして行きました、なかなか粋なパリへの訪れです。

同じ三等客室で知り合った旅人の紹介で、モンパルナスの屋根裏部屋をすんなりと借りる事ができ、すぐに1900年パリ万博のロダン展示会場に足を運びます。



Edward Steichen, "Solitude - F. Holland Day", 1901. Paris. Platinum print.
パリでは、有名なジュリアン・アカデミー(Julian Academy)で学びますが、彼の好みに合わなく2週間ほどでやめてしまい毎日ルーブルに通ったそうです。 その後ロンドンで F. Holland Dayに会いデイの企画したNew School of American Photography展に出品します。

フレッド・ホーランド・デイ(1864-1933)は、早くから写真の芸術性を唱えた写真家です。 ボストンで移民の子供達に読み書きを教えました、その内の一人が後に予言者(The Prophet)で有名になったレバノン出身の詩人カーリル・ギブラン(Kahlil Gibran)でした。 出版事業にも手がけオーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley,1872-1898)のイラストを出版したことでも知られています。 
彼はロンドンの後パリでも写真展を開き、その時はスタイケンの一年近くをかけて仕上げた自画像の作品(下の写真)が話題になりました。



Edward Steichen, "Self Portrait with Brush and Palette", 1901. Paris. Pigment print.
スタイケンが美術学校をやめルーブルに通っていた頃、イタリア・ルネッサンス期のチチアン(Titian)とも呼ばれていた画家ティッツィアーノ・ベェチェッリオ(Tiziano Vecellio)の作品、マン・ウイズ・グローブ(Man with Glove)に興味を感じ、この絵に対する写真家としての答えを出したいと考え約一年をかけて制作した作品です。 デイの服を借り鏡の前でポーズをとって、最初はガム・プリントで始め、それから他の粒子や接着剤とゼラチンを混ぜたりし、そのテクニックを何度も練習して制作したそうです。 これはスタイケンが芸術のみならず写真技術にも研究熱心で努力家、そして強い意志を持っていたことが伺われます。 よく見ると印画紙から色素を筆で洗い落とした後が分かります、何となく写真をベースにした絵画の様でもあります。



Edward Steichen, "Auguste Rodin", 1902. Paris. Platinum print.
1898年、ミルウォーキーの新聞にパリのクラブ(the Society of Men of Letters)が7年前にパリ市の為にロダンに制作を依頼した文豪バルザック(Balzac)の像が完成し、その彫刻に関する賛否両論がパリの街を賑わしている記事がありました。 注文を出したクラブにロダンの作品は拒否されるのですが、ミルウォーキー・ニュースペーパーでその複写を見たスタイケンは、今までに見た最もワンダフルなもので山に生命を吹き込んだように見えたと語っています。 そしてその彫刻を制作したロダンの住む街、パリに興味を持ったのでした。

スタイケンをパリに駆り立てたもう一人のアーティストは、モネ(Claude Monet)でした。 彼がミルウォーキーの公共図書館で読んだモネの本の説明でモネの風景画はアトリエの中でなく実際に風景を前にして描かれていること、そしてモネが風景画の中に光と空気を取り入れたことが書かれていました。 このことはスタイケンがカメラでやりたいと考えていたことと同じだと語っています。

スタイケンはパリでもポートレイト写真を撮っていました。 ある日ノルウェーの風景画家でパリ在住のフリッツ・タウロウ(Fritz Thaulow)の二人の子供の写真の依頼の件でポートフォリオを持って自転車で出かけます。 仕事の話が決まりお昼をご馳走になっているときの会話で、スタイケンがどんなにロダンの彫刻が好きかを話し出来れば会ってみたいと話したところ、なんとタウロウはロダンと親しく、パリ郊外のMeudonにあるロダンの家に、午後二人で自転車で尋ねて行くことになりました。



Edward Steichen, "Rodin - Le Penseur", 1902. Paris. Pigment print.
ロダンの家でローズに迎えられた二人は、ロダンがパリに行ってあいにく不在だが、もうすぐ帰って来ると知らされ庭で待っていると暫くして足早にロダンが戻って来たそうです。 ロダンに誘われ、ワインセラーからのワインと素晴らしい夕食を日本の提灯が吊された木の下で楽しんだのでした。

食事が終わってリキュールとシガーを楽しんでいる時、タウロウがスタイケンにポートフォリを持ってきてはどうかと話します。 ゆっくり時間をかけて見ていたロダンは、スタイケンの肩に手をかけ、
タウロウに「見ろ、情熱はまだ死んではいない」と言ったそうです。 そしていつでも写真を撮りに来てよいとスタイケンに伝えました。

結局、ロダンが普通仕事をしない日曜日の午後に、大理石、ブロンズ、クレイやプラスターで一杯のスタジオに一年通い構想を練ったそうです。 構図が決まるとロダンに「Victor Hugo」を背に「考える人」に向かってもらいました。 広角レンズもなく、大きな作品と材料で一杯のスタジオでの撮影には限度を感じ、技術的に不安はあったものの後に合成することで出来た作品だそうです。

スタイケンの"Rodin - Le Penseur"と名付けられたこの1902年の作品は、ロダンと彼の彫刻の偉大さを見事に表現した素晴らしい写真で深く記憶に残るイメージです。 しかしどうしてロダンなのだろうと不思議に思っていましたが、それが可能になったのは、スタイケンの情熱がロダンに伝わったからだと分かりました。

この写真を見たロダンは大変喜んでみんなに見せたそうです。 スタイケンは、これらはロダンの写真ではなくロダンへの写真だと語っています。

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