た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

沈黙考

2010年12月26日 | essay
 現代人はいつから沈黙を恐れるようになったのだろうか。

 街をゆく若者は両耳にコードを突っ込み、炬燵でくつろぐ家族はテレビの音で電話の鳴るのにも気づかず、ときめきのカップルは暇さえあればDVDで映画を観合ってそれを愛の証とする。うん、おいしいお酒だね。何か音楽が欲しいな。ムーディーなものでもかけてくれるかい?

 何某氏の論文に、エリザベス朝期のイギリス人は、それまで何もなかった部屋の壁を写真や鏡や飾り皿などで埋めていくようになった、これは空間を埋める作業でもあった、つまり彼らは空間(=何もない広がり)を恐れたのである、といったようなことが書いてあったのを記憶する。現代人の部屋壁もそれに近いものがあるだろう。そして、現代人は空間を恐れるだけでなく、時間(=何によっても埋め尽くされていない、まさに「時間」として感じるものとしての時間)を恐れるようになった。というのは私の安易な推断だろうか。時間というものは何かに費やすために存在する。音楽や声さえあれば、何とかその時間が無駄にならずに済む。何も聞こえない、何もしない、つまり何にも身体感覚を活用しない時間とは、それはすなわち死ではないか!

 死とは時間と空間である。時間と空間がありのままの姿で無限に拡がっていることである。たとえば砂漠の一日のように。

 やれやれ、また根拠のない憶測が過ぎてしまった。わかったようなわからないようなことを頭の中でこねくり回すのも、精神世界における沈黙を恐れてのことか。
 
 そう言えば最近、寝ても夢ばかり見る。
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