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た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

断片

2025年03月20日 | 断片

その人は美しかった。

幸せだから美しいのではなかった。

愛くるしいから美しいのではなかった。

その人は絶望の奥底に

滑落しそうなぎりぎりの淵に立ち

足元の暗黒を強く意識しながらも

気丈に背筋を伸ばし

前を見つめているから美しかった。

 

 

 

 

 


敗残者

2024年09月16日 | 断片

 

  結局あなたは負けたのですよ────だからと言って、何もあなたから差し引かれるものはない。払うべきものもない。安心してください。大して損はしていませんよ。でも負けは負けです。その負けを背負ってずっと生きていく、その自覚こそが、負けたことに対する唯一の代償と言えるでしょう。あなたは自分ができなかったことについて、できたことよりもはるかにしつこく、鮮明に、そして苦々しく、思い出し続けねばならないのです。


邂逅

2024年08月03日 | 断片

 わずかに頬を赤らめて、その子は私を見つめた。

 蝉が鳴く。扇風機のはた、はた、という音。

 目を驚いたように見開いているが、口元はかすかに笑みを浮かべている。

 蝉が鳴く。汗ばむ手を膝の上で重ね、私は身を退いてその子を見つめ返す。

 美しい子だ。今日の暑さは36度を超えるかもしれない。

 蝉もいつしか鳴き止んだ。二つの椅子を引きずる音がした。


断片

2022年06月25日 | 断片

 街は今日も彼を無視した。

 信号待ちをしても、同じ信号を待つ人々の誰も彼に目を合わせようとしなかった。あらゆる建物は不景気に顔をしかめ、異物の混入を拒み硬く口を閉ざした。彼には行きたい場所がどこにもなかった。行ける場所はなおさらだった。

 もちろんすべて、彼の妄想である。貧困にあえぎ孤独にふさぎ込む日々がもう何年も続いているせいであった。こんな冷たい街なんてうんざりだと、何百回思ったろうか。だが同時に、こんな風によそ者の自分を無視してくれるこの街の優しさを彼は愛した。

 彼はいつも同じカーキ色のシャツを着た。もともと何色だったかは正確にはわからない。自転車にまたがり、ハンドルに両腕と顎を乗せ、通行人のいないところを睨んだ。自転車は彼に許された唯一の贅沢であった。自転車に乗れば、軽々とこの不機嫌な街を横断することができる。ペダルを漕ぎ地に足を付けなければ、少し高いところからこの軽蔑する街を見下ろせる。だが実際には、ハンドルに両腕と顎を乗せたまま、なかなか漕ぎ出そうとしなかった。信号の色が二度三度と変わっても、同じ姿勢で同じ交差点に留まっていることもしばしばだった。

 ようやく気怠そうに自転車を漕ぎ始めるとき、街路樹に向かってよく痰を吐いた。彼はもう六十に手が届こうとしていたのだ。


妄想

2020年04月02日 | 断片

 色褪せた暖簾をくぐって格子戸を開けると、割烹着を来てテーブルを拭く老婆と目が合った。

 「おや、いらっしゃい」

 今まで会ったこともないのに、懐かしそうな笑顔を見せる。

 広い土間の中ほど、石油ストーブに足を投げ出せる席に腰かけた。客は自分の他には、隅っこで鍋焼きうどんをつつき合う中年夫婦が一組。口に爪楊枝をくわえて新聞を広げている肉体労働者風の男が一人。

 壁に貼られた品書きをぐるりと見渡す。

 「外は冷えとるかえ」

 老婆がお茶を差し出しながらつぶやく。

 「今夜はね」

 襟巻を外して、冷え切った両手を握りしめる。体が徐々に店内の暖かさに慣れていく。

 「何にしましょう」

 「そうだな、一本付けてもらっていいですか」

 「へえへえ」

 「それと、おでんありますか」

 「へえへえ、ありますよ」

 「じゃあおでん一皿と」

 埃を被った神棚になぜか小さな達磨が飾られているのを見上げて、不意に幸せな気分が腹の底から湧き上がってくるのを覚えながら、私は小さく微笑んで言う。

 「とりあえずはそれで」

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・・・・・・というような遣り取りを、早くまたしたいこの頃である。


犬も食わぬ

2019年11月25日 | 断片

 だから何が悪いか言ってくださらないと。言ってどうなるもんならとうの昔に言ってるよ。そういうところがあなたの卑怯なところだわ。何が卑怯なんだ。黙ってるところよ。黙ってて何が卑怯なんだ。黙ってて軽蔑なさるところよ。だれも軽蔑なんかしていない。軽蔑してるじゃありませんか。してない。してます、だから言っても無駄なんでしょう。(沈黙ののちに)お前のそういうところが気に食わんのだ。ひどい、ひどいわ

・・・・・・・・・・・・・・。

(写真は常念岳)

 やれ、一息入れるか。あーあ、のど渇いちゃった・・・・・・。