た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

開花

2013年03月30日 | essay
玄関先に梅が活けられた。どっしりした匂いが漂う。「花の香」とはよく言ったものである。

飯田では平年より十六日も早く桜が開花したとか。寒い寒いと言っていた矢先が、今度はうっかりしていると春を見過ごしてしまうのでないかという懸念に変わる。現代は春も気紛れか。「人はいさ心も知らず」、昨今は、「花」たちの心も知らず。
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試練

2013年03月23日 | 断片
 セキツイ動物と言うのは体の中心に骨格があって、体全体を支えている。外骨格の昆虫のようによろいを着て体を支えているわけではない。そんな話を中学生の時理科の授業で聞いた覚えがあるが、なるほどその通りだと最近つくづく思う。ただし体の中心にあるものは骨格ではない。自信だ。自信が体の内側から自分という存在全体を支えてくれていたのだ。そのことを、自信が瓦解してよろめきそうになったときに、初めて意識する。
 自分はこんなに自信過剰だったのだ、日頃謙遜と自己卑下を粗品のタオルのように辺り構わず振り撒いているくせに、実際には内に秘めた自信があるからこそ落ち着いていれたし、心穏やかに毎日を迎えられていたのだ。それも崩れ去って初めてわかったことだが、何と根拠のない「空自信」であったことか!


 ・・・それでも、私は立ち上がって再び歩きださなければいけない。今すぐにも。人を待たせている。骨抜きの体で、クラゲのように、それでも顔を起こし、前を見つめて生きなければならない。
 今すぐにも。
 人を待たせている。
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強風

2013年03月18日 | essay

 朝から風が強い。
 犬の散歩もこうなると一苦労である。小雨も混じっているので、顔を背けながら歩く。どこで引き返してやろうかと思案するが、犬は風も雨も一向お構いなしに、紐をぐんぐん引っ張って前へ進む。私は犬に歩かされる。

 世間では、日本国民全員に背番号をつけようという試みが取りざたされている。色々便利なのだろう。管理、運営。監視、調教。何だか首に紐をつけられるようで、あまり心地よく覚えない。そもそも、人間を管理する動きはすでに進行している。携帯だ。携帯電話。あの自己負担式居場所探知機は日本全国津々浦々の老若男女に普及しており、かつ非常に有能であるので、誰がどこにいるか、ほとんど瞬時に把握できる。ぴ、ぽ、ぱ、もしもし? いまどこにいるの? というわけだ。

 犬の足が向く方に任せていたら、知らない路地に出た。曲がりくねって狭い。雨風は強くなりつつあるし、近道して戻れるなら、という安直な判断で歩をとってみたが、行けども行けども、知った道路に出ない。どうも、家から少しずつ遠のいている気がする。知らない農家のトタン屋根が風にあおられて音を立てる。大きなビニル袋が電信柱にマフラーのように巻きついている。道端の草むらに首を突っ込む犬を急き立てて足を速める。

 現代はすでにして偉大なる管理社会である。誰にも居場所を知られないでいることのいかに難しいことか! この政策の巧みなところは、皆が自ら率先して自分の居場所を打ち明けるように持っていっていることだ。誰にも知られないのは寂しい、と人々に思わせることに成功している。もしもし? ぼく、今、犬の散歩途中です。ちょっと道に迷っちゃった。GPSで場所を調べてみます。またあとで連絡するね。

 さあ、ごたくはいいから、早く戻らなければいけない。雨脚はいよいよ本格的になってきた。頭も顔も濡れてひりひりする。迷うのは不便である。迷うのは自由でもある。その辺の兼ね合いが、現代では難しいところである。いや、難しいのは、頑迷なまでに携帯嫌いを押し通して、はや生きた化石となりつつある、私のような人間だけか。 

 
 
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2013年03月05日 | essay
 超常現象というものがあるとすれば、私は小学生のころ、一度だけそれを見たことがある。
 あるいは、見た気がした、と言うほうが正確かもしれない。何しろ小学生の低学年の頃のことで、全てが曖昧であると言えば曖昧であったからである。そんなことはなかったのよ、と大人に優しい声で言い含められれば、素直にそうだったんだと納得してしまう年頃である。いい子ね、あなたが見たのは実際のものじゃないの。説明すると難しいけどね、別にあなたには何の問題もないのよ。誰でもときどき起こることなの。ふとした体調とか身体の加減でね、そんな風に、実際には無いものを見た気になることがあるの。難しい言葉では幻覚って言うんだけどね、そういうものが見えた気になったりすることが人にはあるの。でも心配しなくていいからね。あなた自身には何の問題もないんだから──────。

 当時、私は片道四キロという、小学低学年にとっては結構な道のりを歩いて小学校に行き来していた。片道四キロもあれば、朝の登校はさておき、帰りの道ともなると相当な遊びをしながら帰宅することが出来る。町中では駄菓子屋を覗き込んだり、本屋で今月の『三年の科学』を受け取ったり、市街地を出て田畑の広がる細い道に差し掛かれば、あぜ道に生える雑草の中に分け入り、「かじっぽ」と地元で呼ばれる比較的甘い汁の出る草を引き千切って噛んだり、紫詰め草の蜜を吸ったり、柿のなる季節にはよその家の柿の木にこっそり登って柿を取ったり、それが渋柿でひどい思いをしたり、雪の積もる季節にでもなれば、用水路に雪をしこたま落として「堰止め」をして水を道路に溢れさせたり、格別道路脇に魅力的なものがない時期には、ただただ、何かのはやり歌を友達とがなったり、いい加減な怪談話を交互にし合って奇声を上げたりと、それなりに春夏秋冬充実した下校時間であったと記憶する。
 それでも四キロは少々長すぎるのであって、友達五六人で校門を出たのちに一人減り、二人減って、最終的に私の実家のある集落に一人きりで差し掛かるころには、まとまったことは何も考えられなくなるくらい疲労しているのが常であった。とにかく一刻でも早く家に辿りついてお菓子を食べて炬燵に潜り込みたい、という思いだけで短い脚を前へ前へと進めるのである。
 その集落は全戸合わせても三十か四十、間違っても五十には届かないだろう、というくらいの本当の片田舎であって、山々に囲まれた水田地帯は水たまりのようにこじんまりとかたまっていた。
 中ほどに「さかえ橋」という橋がかかっていた。子供のころは「栄え」橋だと思い込んでいたが、おそらく「境」がなまったものであろう。両親にも確認していない。橋と言っても砂利道の続きにあり、ジャンプ力のある若者なら幅跳びで対岸に渡れるくらいの細い川に架かっている、丸太を重ねた程度の橋で、自動車は無論通ることのできないごくごく小さな橋である。雪でも積もれば、どこまで踏み場があってどこから先に足を踏み出すと下に落ちてしまうのかわからないという、物騒な橋でもあった。しかしそこを通れば後は家まで三百メートルほどであり、ああ、ようやく我が家が近くなったと心から安堵できる地点でもあったのである。
 その日、私はやっぱり一人でそのさかえ橋に差し掛かっていた。上級生と一緒に下校するときもあったが、その日は彼らと同じ時刻に学校が終わらなかったのであろう。とにかく、私は一人であった。小学生と言うのはだいたいが、ランドセルの帯に両手を挿んで俯き加減に歩くものだが、当時の私もご多分に漏れず、そんな恰好で歩いていたに違いない。私はふと顔を起こし、東の方角を見上げた。
 「福田」(というのがその集落の名前であった)の西側には比較的小高い山が連なり、その格好は子供心にも気に入っていた。しかし東側となると、丘陵があるくらいで大した山は無かった。そのはずであった。だがその日、さかえ橋から私が見上げると、そこには、今まで見たこともないような高い山が、それこそ富士山のような威風堂々とした格好で聳え立っていたのである。あれ、こんなところにこんな高い山があったっけな、と私は不思議に思った。何より違和感を覚えたのは、その山が実に色とりどりの華やかな色合いをしていたことである。季節は春前であったか秋口であったか、とにかく他の山々は葉もなく地味な色に沈んでいた。ただその山だけが、周りの景色から完全に浮いた形で、ひょっとしたら桜か何かが咲いているのか、と思わせるくらいに派手であった。距離的に考えても一本一本の木々が見えるはずはなく、それだけに異様な感があった。何だろう? あんな山、昨日までは絶対無かった。いや、今朝登校する時だって絶対無かった、と子供心に必死に考えを巡らせながら私は帰宅した。「変な山が見えたよ」くらいは、母親に話したかもしれない。そして万事が現実主義の彼女に、「変な山なんてあるわけないわね」と軽くあしらわれたかも知れない。また私もそこがぼんやりした子であったから、ちぇっつ、確かにあったのになあ、と頬を膨らますくらいはしただろうが、菓子をむさぼっているうちにすっかり山のことは忘れてしまったのである。
 再びはっきり意識したのは、次の朝の登校時であった。さかえ橋を反対方向に通りかかった私は、昨日帰り道に見た山がまったく姿を消していることに愕然とした。私はしばらく呆然として立ちすくんだ。え? どういうこと? じゃああれは、やっぱり普段は無い山だったんだ。昨日のあの瞬間だけ、あそこにあったってこと? 本当? 本当にあったの? いや、あった。絶対あった。絶対、絶対にあった。確かにこの目で見たんだもん。でも・・・じゃあ、あれは、一体何だったの?
 とてものことではないが、この煩悶を自分一人に留めることは出来なく、私は兄に打ち明けて話した。兄は母親とはまた別な意味で淡泊な人間であったから、「あほだなあ、そんな山がいきなり現れて消えるわけないだろう。お前が見た気がしただけだよ」と馬鹿にされるおそれは十分にあった。それでも私は彼に話した。そのときの彼の返答は、まったく意外なものであった。
 「そりゃお前、いい経験したな」
 返答はそれだけであった。山が実際あるとか、無いとか、目の錯覚だとか、超常現象だとか、そういう点には一切触れなかった。ただ、彼は、いい経験だとだけ私に伝えた。

○   ○   ○


 今でもその思い出を忘れることが出来ないのは、ひょっとしたら、不思議な山を見た事実よりも、そのときの兄の受け答えのせいかも知れない。実際、その一言は、私を大いに救った。私は馬鹿にされるわけでもなく、幼子をあやすように諭されるわけでもなく、自分の体験を一番幸せな形で自分自身に説明するすべを与えられたのである。素敵にきれいな山を見た。それは「いい経験」であった。それだけのことである。たとえそれが私の誤解であっても、はたまた本当の超常現象であっても、そんなことは究極的にはどうでもいいことなのだ。私は日常からかけ離れた素敵な風景に出会えたのだ。それで十分ではないか。
 
 歳月は経ち、私は大人になり、子供たちと接することの多い仕事に就き、現在に至っている。子供たちの話を聞かされる時、なるべくあの日の兄のような発言をしようと心がけている。現実や事実を押しつけるやり方ではなく、かといって嘘で塗り固めた優しさでよいしょするのでもなく、まずは相手の驚きや感動を、肯定する。ただそれだけに留める思いやりを持ちたいと、常々思っている。これが簡単なようで、なかなか難しい。ついつい、大人のおせっかいで、喋りすぎてしまうのだ。

 もっとも、いつもあの日の不思議な山と兄の発言のことを心にとめて生きているわけではなく、実を言うと、すっかり忘れかけていた。先日、子供たち相手に雑談をする必要に迫られ、何かしら自分の過去のエピソードで小噺になるものはないかと記憶をたぐっているうちに、ふと思い出した次第である。子供たちには、不思議な山を見た話までに留め、兄の発言については語らなかった。話してもおそらく子供たちには通じなかったであろう。

 私の唯一経験したと記憶する、「超常現象」の話は、これだけである。
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2013年03月05日 | essay
 蛇は嫌いである。その嫌いな蛇の話である。
 今年は巳年である。よって年明け早々、さまざまな意匠の蛇にお目にかかった。ぬいぐるみのように可愛らしげな蛇、ひと筆書きのスマートな蛇、人間よりよっぽど賢そうな蛇────。色とりどりで実に表情豊かな蛇たちが新年の挨拶をする葉書を幾枚もめくった。それが潜在意識として残り、一月も終わりかけの真冬の最中に、蛇について語ろうという気を私に起こさせたのかも知れない。
 しかしこれから語る思い出話に登場する蛇は、いずれもいずれも、年賀状でウィンクしてくるような目出たい蛇とは全く無縁の、おどろおどろしい形相と形態を持った生身の蛇である。
 ああ、つつがなく平穏であったはずの私の少年時代は、ときおり出現する蛇どもによっていかに無遠慮に掻き乱されたことか!
 
 私は田舎に生まれ育った。島根県の山中、電車も通らない峠町である。そこは、蛇の発生率の極めて高い地域であった。あるいは昔の田舎というものは、全国どこでもそうであったのだろうか。大人になり他県に移り、それなりに自然の多い場所に居を構えたが、今ではほとんど蛇を目にすることが無い。まったく無いと言ってもいい。どういうことであろうか。環境の変化に伴い、日本中の蛇はその数を減らしたのか。それとも私の故郷では、今でも蛇がうじゃうじゃいるのだろうか。

 春が来ると、小学生の私は、山菜摘みに砂防ダムへ行かされた。「わらびやぜんまいが出てるはずよ、摘んでらっしゃい」と母に言われる。一言二言不平を漏らすが、勝ち目はなく、仕方なく自転車にまたがって一キロほど離れた山のふもとまで向かうわけである。砂防ダムというのは大雨が降ったとき土砂が川を下って来ないように造られたものだが、川と言ってもちょろちょろ流れる小川なら、ダムと言っても横幅が十メートルにも満たない小さなセメントの塊である。もっとも、記憶が怪しいので、実際にはもう少し大きかったかも知れない。
 途中の道端に、草むらが子供の腰ほどに生い茂った一帯があり、そこがわらびやぜんまいの生息地だと知っていたので、私は迷わずその草むらに分け入った。案の定、目当ての山菜があちこちに顔を伸ばしていた。春の陽気も手伝って、私は気分が良かった。意気込んで摘み始めたが、三、四束も摘んだところで、ふと目の前に長く太いものが横たわっているのに気づいた。
 しまった蛇だ、と知って、私はとっさに方向転換した。蛇に気付いたらとにかく一目散にその場を去る、というのが当時の私の鉄則であった。しかし背後を向いた私は愕然とした。そこにも、太く長いものが横たわっていたのである。いかん、と脇に避けようとしたら、何とそこにも。私は三方を蛇に囲まれていたのである。何か叫び声を発したかも知れない。とにかく無我夢中で草むらを飛び出し、自転車を漕いで家に帰った。それから高校生になって田舎を出るまで、その草むらには近づいていない。
 
 自分はなぜかしら蛇に縁があるのだ。蛇に見入られている、という自覚があった。水田のあぜ道を歩いていたら蛇に出会い、ランニングをし始めたら道路を横切る蛇に出会い、家にいても蛇に出会った。どこにいても蛇に出会った。しかし私は神経質になり過ぎたのかも知れない。例えば私の兄などは、私とはまったく違う人種であった。彼はあぜ道で蛇に出くわすと、待ってましたとばかりにそのしっぽを掴み、ぐるぐる振り回して遠くに投げ飛ばした。そんな光景を目にするたび、ああいう人間には死んでもなりたくないと思ったものである。一度、兄の友達が三四人ばかし家に遊びに来た折、家の石垣の隙間に蛇が入り込もうとするのを彼らが発見した。放っておけばいいのに、彼らは何を思ったか、蛇のしっぽをみんなで掴み、石垣から引きずり出そうとしたのである。綱引きのように歓声を上げてしっぽを引っ張る彼らの姿を見て、この人たちはみんな気が狂ったのではないかと思った。蛇の力というのは案外に強く、蛇の皮がすりむけて、兄の手などは血だらけになったが、それでも蛇は、最後には石垣の中に消えていった。血だらけの両手を見せる兄を尻目に、彼とはしばらく別々に暮らせないだろうかと、心に願ったものである。
 そういった残忍な光景を幾つか目にしたのが、私の蛇嫌いを加速させたのは間違いあるまい。とりわけ強烈な体験をしたのは、私が小学校の四五年生のころであろうか。

 集団下校であったか、その日、私は近所の者数名と、通学路を歩いていた。突如誰かが奇声を上げた。道端の畔に蛇を発見したのである。それだけでも私には十分うんざりすることなのに、あろうことか、その蛇は蛙を呑みこもうとしていた。自分の口より三、四倍も大きな蛙をお尻からくわえているのである。一同はさすがに青ざめてそれに見入った。生ある物の殺戮の現場に、ひょっとして生まれて初めて立ち会ったのかも知れない。それは小学生が目にするにはあまりに残酷な光景であった。全員涙目になって叫びながら逃げ帰った、と言いたいが、何しろ田舎であり、野性児は私の兄に留まらずごろごろいたのであって、その集団にも一人二人、人間的な感情を喪失している疑いのある輩がいた。彼らがよせばいいのに、蛙を助けるんだとか何とか喚きながら、蛇に小石をぶつけ始めたのである。
 さすがの蛇も、腕白どもの投げる石つぶてにはたまったものではなく、蛙をぽいと吐き出して退散してしまった。ショックだったのはこの後である。助けられたはずの蛙は、すでに下半身を蛇の消化液で溶かされており、後ろ脚の無い身体をよたよたと引き摺っていた。ここに至ってついに私は我慢しきれず、走って逃げたと記憶している。他の者も逃げたはずだが、何しろ野蛮な連中のことだから、中には、居残って蛙にちょっかいを出し続けた者もいたかも知れない。
 
 この事件はいたいけな子供の私に強烈な心的外傷を残した。出よう、と私は決意した。こんなド田舎は出よう。
 そのころから、私は都会に出ることを密かに夢見るようになった。
  
 先に、家にいても出会った、と書いたが、実際、私は家の中でも蛇に会っている。
 口が寂しくなったのか、私が台所にうろうろと来てふと壁を見上げると、壁に埋め込んだ梁の上を特大の蛇が伝っていたのである。私はムンクの叫びが実際にはそうであったであろう様な叫び声を上げた。
 その蛇にはおまけがあって、天井近くの棚に所狭しと置かれた、何が入っているんだかわからない箱と箱の間に首を突っ込んでいたのだが、実際は鼠の巣を狙っていたのである。
 父はまず蛇を火箸か何かで挿んで取り除き、ついで鼠の子供たちを塵取りに放りこんで捨てた。おそらく、家の脇を流れる水路に沈めて水死させたはずである。
 こんな家、一刻も早く出よう、と、そのときも幼い少年の胸には脱出の思いが膨らんだのである。

 私の父は高校の生物教師であり、そのせいか薬草やマムシ焼酎など民間療法にひどく凝っていた。風邪をひいてもなかなか市販の薬は飲ませてもらえなかった。アロエに傾倒した時期があり、そのころは家中アロエの鉢だらけであった。何かあるとアロエを千切って飲まされたり、貼り付けられたりした。擦り傷にも、蚊に刺されても、微熱が出ても。鼻水がでたときに鼻の穴にアロエを丸めて突っ込まれた際には、痛さも手伝って、さすがに父を疑ったものである。
 この父がマムシの信奉者であった。マムシと言えば、噛まれたら死ぬこともある猛毒の蛇である。彼はよくキノコ採りに山に出かけたが、その途上でマムシを見つけると、なるべく生け捕りにして背中の籠に入れて持ち帰る。そして焼酎の入った一升瓶に頭から差し込み、毒を吐かせるだけ吐かせて水死させ、毒の混ざった焼酎をマムシ焼酎として薬に使うのである。マムシが口を大きく開け、のたうちながら瓶の中で死んでいく様を、一度だけ見させられたことがある。我が家にはそのようないまわしげな瓶が、物置部屋に何本も並んでいた。
 私も彼のお供で入山した際、マムシと対面したことがある。私は不幸の極致のような思いで足をすくめているのに、父は宝物でも見つけたかのように狂喜乱舞した。そして棒きれでマムシの首根っこを押さえると、この棒をしっかり握ってマムシを逃すな、と私に命じた。その間に自分は籠の用意でもしようということである。拒絶する権利も与えられず、私は止むなく彼に代わって棒を手にしたが、私の力が弱かったのか、マムシの力が強すぎたのか、父が背中の籠を地面に下ろしている隙にするりと棒を逃れて去ってしまった。そのとき父は、さも残念そうな顔をして、マムシを逃した私をなじった。我が子の命よりマムシ焼酎の原料を重宝する彼を見て、私は再度、しつこいようだが、故郷脱出の念を強くした次第である。
 残念ながら(というのはあくまでも父の立場からだが)マムシを生け捕りではなく殺して捕まえた場合は、その皮をむしり取り、天日干ししてのちにすり潰して粉末にするのである。そうして出来た「マムシの粉」は、晩飯のカレーなどに密かに混入されていて、何か味がおかしい、という子供たちの訴えでようやくその陰謀が判明することが多かった。そうなるともう、蛇嫌いでとりわけマムシ嫌いな私なぞは、家で出される全ての食べ物に疑いの目を向けてしまうのである。
 マムシの解体も一度だけ見させられた。父はなぜか、そういうものを一度は私に見せたものである。私が軟弱なのを心配してのことであろうか。
 我が家の裏手には、山水を引いた「せど」と呼ばれる簡易な炊事場があったが、父はそこでマムシを解体して見せた。体を引き裂くと、卓球玉くらいの白い球体が四つばかし並んでいる。彼曰く、これがマムシの卵なのだそうな。一つだけ大きな卵があったが、これはマムシが呑み込んだ鶏の卵とのこと。

 鶏小屋も、マムシを筆頭とする蛇どもに盛んに狙われた。夏休みなどは、朝の餌やりが私の日課になることがあったが、何より、鶏の産んだ卵を採るための小さな引き戸を開けるのが嫌で嫌でしょうがなかった。一度、引き戸を開けたらそこに蛇がとぐろを巻いていたことがあったのである。少し手を伸ばせば蛇の頭を撫でられそうなほどの至近距離である。その蛇が青大将のようなただの蛇であったのか、マムシであったのか、記憶が判然としない。まあどちらでも同じことである。日常生活にかくも蛇が頻繁に姿を現すような人生を、私は大人になってまで歩みたくなかった。
 そうして、私は高校生になったとき、田舎を出奔したのである。
 もちろん、田舎を出た理由は蛇だけではない。しかし蛇は理由の一つとして確かに現存したと言える。
 
 蛇は私にとって、邪悪そのものであった。蛇をペットにして飼っている人には誠に申し訳ないが、私にとっては諸悪の根源、悪魔の手先、死神の現し身(うつしみ)であった。悪夢にうなされるときはまず必ず登場した。日々の生活を送っていても、絶えず心のどこかでその出現に怯えていた。あの手足のない細長い爬虫類を乗り越えなければ、自分は真の意味で大人になれない、と認める自分がいた。兄のようにぶんぶん振り回すまでは行かなくても、父のようにやっつけて薬にするくらいの度胸がなければ、自分はいつまでも軟弱なままじゃないかという懸念があった。
 蛇は私の人生行路に大きく立ちはだかった壁であった。それをいつしか乗り越えた、という自覚は無い。蛇そのものがいない環境に暮らすようになったからである。したがって、自分が軟弱でなくなったという自信もさしてない。

             ◇   ◇   ◇

 蛇足だが、マムシ焼酎は実際よく効く薬であった。兄が岩場の海で泳いでいて、ウニを思い切り踏んづけたことがある。マムシ焼酎を塗ったら、一週間ほどかけて、足の裏からウニのとげがにょきにょきと、一本一本飛び出してきた。
 人に話しても、にわかには信じてもらえないような実話である。
 

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