た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

掃除機の選び方

2005年09月30日 | 生活の智恵
 失敗から学ぶ、ということが人生にはある。
 今回の掃除機が、私にとってのそれだった。
 
 掃除機について書くなんて『主婦の友』みたいで男子たる私はちょっと気恥ずかしいのだが、いいやしかし勇気を出して告発しよう。
 掃除機を買うときの選び方のポイント。知ってますか? う~ん、私が期待する以上に案外みんな知っていて何だよそんな話かよと言われるかも知れないが、「吸込仕事率」である。
 吸込仕事率。これが掃除機を語る上ですべてである。
 私はこの春初めて掃除機を自分で選んで買った。金もなかったことだし、お、これ安いなあ、うんとても手ごろだ。サイクロンだってよ、ふーん、サイクロンって何だかわかんないけど、ツインターボなんだ。それもよくわかんねえや、でも紙パック不要とあるじゃないかおい、それってとってもエコノミーでひょっとして環境にクリーンだったりまでして、いいねこれ、いい、いい、スリムでさ、本体の中が透けて見えたりしてさ、それにわお! こんなに軽いぜ! ・・・と、つまりは結構満足して購入したのだ。
 ところがこれが、肝心の掃除されるべき埃を全然吸わない。我が目を疑うほど吸わない。二度も三度も畳を滑らせたあとで、ひょろけた髪の毛がふふん、今のであたいを釣ったつもり? ふざけないでよ、と畳の上で依然として冷笑しているのだ。
 吸い込んだゴミはサイクロンってくらいだから、くるくる回って防塵ネットの目を詰らせない、らしいのだが、すぐ詰る。二日運転させただけでもう詰る。吸引されたゴミは腰の重い年増女のように動かなくなる。こうなると吸引力はさらに格段と落ちて、吸ったはずの埃が別な所で落ちたりするのだ。
 なんだなんだこいつは? とさすがに私も半年使って頭にきて(それでも半年使ったわけだが)、よくよく見てみると、「吸引仕事率12W」とある。12W? 他の機種は、と、店で昔からあるような型の掃除機を見てみると、「吸引仕事率530W」。なんだなんだなんなんなんだこの桁の違いは? 何倍なのかも計算したくなくなるようなこの隔たりはなんなんだ?
 
 ───ということで、本日やっと新しい掃除機、530W掃除機を手に入れた。動かしてみると、ああ、これだ、掃除機はこれなんだと思う。ずばばば、という何かとっても食欲に満ちた音で吸引口が畳に吸い付く。下手するてえと旦那、この畳ごと食っちまいますぜ、へへ、とうそぶくこわもての職人のような掃除機である。ここでようやく私は安堵のため息を漏らした。掃除機は、まさしく仕事率であった。
 私は立てた掃除機に片肘を乗せて、感慨深く、今日の夕焼けを眺めたのであった。
 
 と以上、なんだか椎名誠のような文体になってしまったが、このような瑣事的話題は椎名誠的文体が一番似合うと思ったからこれでいいや。椎名さんに怒られるかな。 
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レタス

2005年09月27日 | 食べ物
 完全に酔っ払ったおっさんは立ち上がり、レタスを注文した。狭い食堂に、客はおっさんと私しかいなかった。
 「レタスを丸ごと持ってきてくれ。芯だけ抜いてな」
 台所(厨房と言うより、台所というほうがそこは相応しかった)からおばあちゃんが怪訝な顔を見せた。
 「丸ごとなんか食えるかい」
 「いいから丸ごと持ってきてくれって。芯だけ抜いてくれよ。それとマヨネーズ」
 「丸ごと、どうやって食うんかい」
 「いいから持ってこいって」
 おっさんはレタスの玉が目の前に置かれると、子どものように顔をほころばせた。
 「昔レタス工場で働いていたとき、こうやって食ったんじゃ」
 彼はレタスの葉を一枚むしっては、豪快にマヨネーズをかけて口に放り込んでいく。
 「旨い」
 彼は涙目になった。
 「旨いなあ。久しぶりにレタス工場のレタスを食った」
 そんなはずはない。やっぱり相当酔っ払っているな、と思っている私のところへ、彼はレタスの葉を一枚摘んでよろよろとやってきた。
 「兄さんも一つ食ってみろ。旨いぞ」
 私は困惑した。何より衛生面が気懸かりであったが、結局断りきれなかった。酔っ払いの頼みなんて断りきれないし、それに彼の思い出に足で砂をかけるような真似はできない。
 しゃり、と音を立てて、私はレタスを噛んだ。
 旨いとも不味いとも言えなかった。レタスはレタスであった。マヨネーズだけでは幾分物足りない、普通のレタスであった。
 私には彼のような思い出がないせいだろう。
 それも少し寂しい気がした。 
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自信の在り処

2005年09月26日 | 写真とことば
自信? 自信かい。
そんなもなあどっかへ仕舞い込んじゃってねえな・・

いや容易に出てこねえ。何しろずいぶん奥の方だ・・

そうだ思い出した、この胸の奥底だ。
                ははは。

~ある人の言葉(32)
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明日を待ちながら

2005年09月25日 | 習作:市民
──どうして電話に出てくれないの?
コンビニエンスストアの明るすぎる照明を背に浴びて、女はうずくまった。
夜の暗幕を破って、車が何台も疾走する。そのたびに女の鼻先に粉塵が舞う。

──そろそろ帰らなきゃさすがにやばいな。
コンビニエンスストアの自動ドアが開いても、少年はすぐに歩き出そうとしなかった。
菓子パンとジュースの入ったビニル袋を自分の膝にぶつけ、彼はため息をつく。


 「携帯が落ちましたよ」
 しばらくの躊躇のあと、少年は思い切って女に声をかけた。こんなに背を丸めて、この人は気分が悪いのかもしれない。
 知ってるわよ。ほっとていてよ。そう言い返してやろうかと顔を上げた女は、少年の青白い顔を見て口をつぐんだ。
 泣きはらした真っ赤な目が見上げ、物憂い孤独の目が見下ろした。

 道路に穴を穿つような音を立てて、大型トラックが二人の前を走り去っていった。
 「ありがとう」


 ここから二人のドラマが始まると良いのだが、女はまだ彼から電話がかかってくるかも知れないという一抹の望みを捨て切れていなかったし、少年は何しろ公開模試が明後日に迫っていて家では母親が恐い顔をして待っていたので、二人は無言のままで見詰め合ってから互いに顔を背けてしまった。少年は自転車に乗って暗闇に帰っていった。
 女はまだしばらく、コンビニエンスストアの明かりに丸い背中を暖められていた。
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鏡のある喫茶店

2005年09月24日 | essay
 歩きつかれて、その喫茶店に入った。

 不思議な空間の喫茶店であった。昔美容室だった内装を部分的にそのまま利用している
らしい。壁に大きな鏡があり、奥のカウンターにはシャンプー用の流し台がすえつけられている。部屋の中央にテーブルはない。座布団だけが並べられている。瞑想を誘う暗い照明。低く唸るような音のBGM。とても喫茶店とは思えない。

 私は壁際の席に座って、ジントニックを注文した。喫茶店と言いながら、メニューには酒の種類が豊富である。青いライトに照らされた白いタイル張りの壁の向こうから無口な店主が現れ、グラスを置いてまた壁の向こうに消えていった。

 私は口を濡らし、向かいの壁を眺めた。大きな鏡がそこにある。
 
 鏡には私が映っていた。鏡の中の私が私を見つめ返す。太鼓の音が体に響く。

 小さな書棚に目をやると、面白い科学書があった。乏しい照明の中でページをぱらぱらめくる。意識と物質とは同じ現象の裏表である、というようなことが書いてある。

 私は再度鏡の中の私に視線を戻す。あそこに映る私は物質か。それとも意識か。ふん、そういう話ではないんだろうな。ジントニックのグラスは半分空いた。

 私は気になってもう一度鏡の向こうに目を凝らした。そうか。あそこに映るのは、「ワタシ」だ。あれが、ワタシだ。私の意識する、物質としての私だ。自我。じっと私を睨み返すあの「人物」において、意識と物質は確かに融合している。

 鏡がもし外枠を持たず、この目に見える世界がすべて鏡の中の像だとしたら。すべてが、「ワタシ」の反映だとしたら。そんなことを言っている中世の哲学者がいたような気がするなあ。いかんいかん、このジントニックは口当たりが甘い割に、アルコールが強い。

 小一時間後、私は妙な心持ちになってその店を後にした。まるでジェットコースターに揺すられて、地面に降り立ってからも少し浮遊感の残るような、ちょっと吐き気を催すような気味の悪い陶酔感が残る。今度この店を訪れるのは少しばかり勇気がいるかも知れない。

 ライトをつけた車が一台、クラクションを鳴らして私を現実に引き戻してくれた。秋の夜風に一つ深呼吸を済ませてから、私は川沿いの道を再び歩き始めた。 
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久しぶりに時間ができると

2005年09月23日 | essay
 久しぶりに時間ができると、久しぶりにぐうたらにしようという自分と、久しぶりにこまごました身の回りの整理整頓をせんかい、ほら庭に雑草が伸びちょる、ほら台所に洗い物が山積みたい、という各地の方言を取り混ぜたような自分が現れて、座布団の上で二人で格闘を始める。私はただそれをじっと眺めているだけである。ぐうたら自分が勝つと、私は形ばかりのため息をやれやれとついて、ほくそ笑みたい衝動を抑えながら再度ごろりと横になる。こまごま自分が勝つと、やっぱり私はため息をついて(ただしこれは本心からだが)立ち上がり、軍手をはめて庭に出たり台所に立ったりする。

 今日、久しぶりに時間ができた。私は二人の格闘を五ラウンドくらい楽しんでから、さすがにこのままでは時間の無駄だ、やれやれと立ち上がり、台所の冷蔵庫に向かった。 
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老人たちのゆくえ

2005年09月22日 | essay
 先日、久しぶりに背の曲がった老人をみた。胴体が地面とほとんど平行である。がに股の足をゆっくりと運びながらコンビニエンスストアに入り、煤けたように黒いビニル袋から小銭を取り出して何かを買っていった。

 そう言えば最近、背の曲がった老人をほとんど見ていない。その事実にふと思い当たった。そうだ。昔はもっといたはずだ。バス停にも、民家の軒先にも、スーパーのように人の集まる所にも。昔の年寄りは皆、トレードマークのように背が曲がり、それでも何の差し障りがないかのように大道を闊歩していた。

 それなのに今、なぜ。老人たちの腰が昔よりも丈夫になったのか? まさか。背筋力は年々低下していると新聞に書いてあったけど。それは小学生のことだっけ? だとすると現代の老人たちは文字通り「若い」のか。それは本当か? それとも。

 それとも、腰の曲がったじいさんばあさんは、現代でもいるにはいるが、別の場所に──たとえば老人ホームのような施設に──隔離されているのか。 ただそれだけなのか・・・。

 そう考えると、すこしぞっとした。もちろん、そういうことはないのだろう。
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セイジョウな人間

2005年09月20日 | Weblog
正常な人間

完璧にすみずみまでまともであること。

近代が創り上げたその空想の産物が

透明人間のように大道を闊歩して

すべての人々を部分的な異常者の苦しみに追いやっている。
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ピアニスト

2005年09月16日 | 写真とことば
おい待てよ、おい

昔はあんなに太陽の下で

笑っていたじゃないか

今みたいに

入り口も出口もなかったじゃないか
コメント (2)
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徒眺雲

2005年09月16日 | 写真とことば
最近やたら雲の色が。

未来を考えるときも

過去を想うときも

人は 雲を眺めるのだろうか



人は 雲を

無心になりたいときも。
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