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た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

内田百閒

2025年04月04日 | essay

 正直に書くと言うのは難しいものである。何度もそう思ってきたのだが、最近、内田百閒の書き物を読んで改めて強くそう思った。彼は、自分のだらしないところを包み隠さず書く。包み隠さないから、つい冗長になる。それでも読んでいて面白い。彼にとっては書くこと自体おそらく無目的で、自分の頭に浮かぶままを書き連ねているように思われるが、読み進むうちにその思考遍歴に同調し、まるで百閒と一緒に呑気すぎて失敗の多い日常生活や旅をしている気分になるのだ。彼が恥をかくたびに、呆れると同時によくわかるよくわかると頷く自分がいるのだ。

 正直に書けるかわからないが、そろそろ紀行文をまた書こうと思う。今回は熊野詣である。読む人がどれだけいるかわからないが、油断していると、読んでいるよ、と言われることがあっていけない。

 

 

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熱帯夜

2024年09月13日 | essay

 二階は暑いので、一階の和室で寝る。それでも布団が暑いので、畳の上に転がり出て寝る。頭上を虫の音が飛び交う。それならば秋が来るわけだ。しかし虫たちもその保証がないことに不安だろう。このまま灼熱の日々が続き、いつの日か地球は太陽のように燃え上がって灰燼と化すのではないか。半分溶けかかった保冷剤を頭に当てる。水滴が額を伝おうが枕に落ちようが構わない。秋は本当に来るのか。この夏は本当に終わるのか。体をのけ反らせて、電気ショックを浴びたように四肢を震わせる。体に纏わりつく熱気を振り落とさんばかりに。もちろんそんなものは振り落とせない。我々の「業(ごう)」は、そんな簡単に振り落とせない。

 保冷剤を首筋に当てるが、すでに溶け切ってゲル状になっている。保冷剤を畳の上に投げ捨てる。

 救いの手はあるのか。

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人間疎外

2024年08月23日 | essay

 

かつて「人間疎外」が叫ばれた時代があった。

社会の発展とともに急速に進む機械化の中で、人々がその歯車の一部として生きることを強いられ、人間らしさを奪われていく現象を言った。

現代はどうだ。

自動精算機で人間同士のやり取りを阻まれ、

レストランではロボットに給仕されて喜び、

システム改善の名のもとに生き方を矯正され、

どんどん何もしなくて良い世の中となり、

今や創造する自由まで奪われようとしている。

拍手! 人間が完成させようとしている人間疎外に、拍手。

その完成度の高さには、思わず、自然の摂理の関与さえ疑ってしまうほどだ。

 

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一ノ瀬園地

2024年08月05日 | essay

 上高地線を登っていると、やがて急で狭い坂道はバスやマイカーの行列でぎゅうぎゅうになる。それくらい上高地は人気がある。だが、トンネルを抜けてすぐの信号を乗鞍方面へと右折すると、とたんに車の数が減る。スキーシーズンでもない乗鞍に用はない、というわけだ。

 ところがその乗鞍高原には、なかなかに素敵な観光地が点在している。去年は三本滝を観に行った。そこも良かったが、今年は人に勧められて一ノ瀬園地に向かった。

 広大な森林の中を、小道がやたらと錯綜している。平地だから、歩くのに支障はない。折しも記録的な真夏日で、さすがに直射日光が当たると汗ばんだが、木陰が多く、小川もたくさん流れていて、川辺を通ればとても涼やかである。澄んだ水で、触ると冷たい。街中で暑さにやられた頭も、だいぶ回復してきた。

 自然の草花を楽しみながら歩いていたら、ついつい回り道したくなる。途中で一人、首にタオルを掛けた旅人に出会った。道を尋ねたら、「いや、こっちも道に迷っていまして」と返事が返ってきた。その割に慌てた素振りもない。彼はそのまま、けもの道のような脇道を選んで去っていった。あの調子だと、あえて道に迷っているらしい。それもよくわかる。

 池のほとりでシートを広げて仮眠したり、白樺のベンチで黙然としたりしながら二時間余りを過ごしてから、駐車場に戻った。併設の喫茶店でよく冷えたチャイとアイスをいただく。大変美味しい。チャイは白樺の皮か何かを使っていて、複雑な味がすっきりとまとまっている。アイスも手が止まらなかった。可愛らしい笑顔の女性が一人で切り盛りしていたが、ただ者ではない。

 また季節を変えて来ようと思った。

 

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掻痒(そうよう)感

2024年07月09日 | essay

 何をやっても落ち着かない日、というのがある。

 窓の外を眺めても駄目。パソコンを開いても駄目。柔軟体操をしてみてもすぐに止め、コーヒーを淹れようと薬缶に水を溜めるが、結局気が変わり火にかけずじまい。思い切って屋外に出て街中を歩いてみても駄目。コンビニに立ち寄り菓子パンを買ったところが、全然食べたくなかったことに気づく始末。

 音楽でも聴けば良いが、音楽を聴く気にもならない。部屋のどこに座り込んでも、数分で、まだ立ち上がっている方がマシな気分になる。こんな精神状態で、用もなく電話できる相手もいない。

 何より落ち着かなくさせるのは、その原因が自分にあるからだ。

 ああ。そうだ。まるでずっと、「自分が気に食わない」、「自分が気に食わない」、とつぶやいているようなものなのだ。

 掻痒! 心の掻痒!

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五月下旬、燕岳登山

2024年06月21日 | essay

 未明の清冽な空気の中きつく締める靴紐。

 ポールが駐車場のアスファルトに当たる音。

 山に足を踏み入れた瞬間の、腐葉土と全身が一体化するような感覚。

 木立から次第に届く朝日。

 鳥たちの絶え間ないさえずり。今日という日を懸命に生きる者のさえずり。

 森の匂い。

 ・・・・・

 ・・・

 山は、登り始めが一番好きだ。

 

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雑感(鯛萬の井戸に咲く花)

2024年04月19日 | essay

 なぜ世の中はこんなにもどんどん変わっていくのだろう。学生時代にポケベルを持たされたと思ったらやがて携帯を勧められ、ようやく携帯を使い慣れた頃に辺りを見渡せば、みんなスマホを握りしめていた。近所の商店が軒並みシャッターを降ろし始め、その理由がコンビニと郊外の大型店にあると気づいたときには、買い物はネットで済ます時代が到来していた。散歩するための用事がどんどんなくなってきている。人と会う必要もなくなってきた。こんな風に変わって欲しかったのか、みんな、と疑問に思う。誰に聞いても、あいまいな答えしか返ってこないだろう。自分たちの意志で変化してきたわけではないのだから。

 おそらく、資本主義はそれ自体、社会的変化を強要するのだ。だってそうしないと儲からないから。常に古いものが廃れ、新しいものが流行らなければ、マネーは世界を巡り、誰かの懐に流れ込まないから。

 だから、淘汰と革新こそが幸福への道だと、我々資本主義の申し子たちは、知らず知らずに洗脳されているのだ。

 だが、人は本性として、安定と落ち着きを求める。動物は皆そうである。ここが、社会の構造と人間の本質が決定的に相いれない部分である。こんな便利な時代────新しいものがポンポン生まれる時代に、なぜ人々が不幸を感じ、情緒不安定になるのか、その主な要因がここにある。

 と、言い切っていいのかはわからない。

 鯛萬の井戸で水を汲み、誰かが鉢植えしたチューリップを眺めながら、ふとそんなことを考えた。

 

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大姥山

2024年04月15日 | essay

 テレビで放映されたから登ってみたいという妻の世俗的欲望に付き合わされ、八坂村の大姥山を登る。番組では70代と元グラビアアイドルが実に気持ちよく登る姿が映し出されたらしいが、案の定、実際は直立する岩と鎖ばかりでなかなか難度の高い山であった。妻は70代と元アイドルが本当に登ったのかとぶつぶつ疑問を呈しながらも、何とか二人とも登りきった。

 大穴と呼ばれる巨大な洞窟や、山頂の東屋から北アルプスの遠景を満喫した。

 

 

 カレーうどんを作り、啜る。

 何でも、大姥山は金太郎伝説の発祥の地らしい。立て看板曰く、大姥と八面大王との間にできた子供だとか。名前からして凄い両親を持ったものだ。昔は鎖とてなかったろうし、こんな峻険な山で育てば、金太郎もさぞかし強くなったろう。

 

 初夏を思わせる陽気に、谷間の微風が心地よかった。木々の枝先は芽吹き、これから全山が新緑に覆われることを強く実感させた。

 

  まだまだに 春で良かろと 山桜

 

 

 

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とうじ蕎麦

2024年03月03日 | essay

 開田高原にとうじ蕎麦を食べに行く。

 木曽路を走るのは嫌いじゃない。山の緑が近く、木曽川に洗われた空気が心地よい。すれ違う車も少ない。木曽福島で右に折れ、陸橋を渡り、なだらかな裾野を上る。トンネルを抜けて開田高原に入れば、別世界のような静謐な白樺林が迎え入れてくれる。気温も一段下がる。

 御岳山はたなびく雲の向こうで、頑固おやじのように腕組みをしてでんと構えている。

 目的地は初めて行く店である。天候の悪い日が続いたせいか、駐車場にはバイクが三台ほどしか見当たらない。古民家の板張りの廊下をどしどしと歩いて広間に通された。低い長机が四、五列並んでいて、座布団は積み重なった山から自分で摘まんで敷く。温泉場の無料休憩室のような気楽さがある。バイクの男たちはもう食べている。ごついジャケットを着ているが、顔を見ると結構な年である。会話が明るい。

 我々夫婦は隅のテーブルを陣取り、メニューを広げて思案した。とうじ蕎麦と、すんきのとうじ蕎麦がある。すんきは赤カブを発酵させて作った酸っぱい漬物だ。真剣な討議の結果、普通のとうじ蕎麦とすんきのとうじ蕎麦を一人前ずつ頼むことにした。

 待つこと数分。カセットコンロに火を点け、鍋を掛けて、さらに数分。ぐつぐつ煮立った所に、蕎麦を投じる。ラクロスの網棒を小さくしたような竹細工を使う。湯にいい加減通し、椀に取ってから啜る。

 旨い。寒い日に温かいことをしているからか、旨い。出し加減がちょうど良い。味を変えて二つ楽しめてなお良い。ずるずると何杯でもいける。あまりに夢中で食べたので、七味の存在に気付いたのは蕎麦がもう残り少なくなった時点だった。七味で味を締めて、最後の一杯をあおった。

 畳に手を突いて腹をさする。大満足である。

 会計を済ませて店を出て、腹ごなしに近くの河原まで歩いた。雪解けの水が渦を巻いて流れていた。岩と岩の間に流木が白いむくろを晒している。

 くさめを一つ。

 「春は名のみの風の寒さや」か。

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国道沿いの洋食屋

2024年02月23日 | essay

 久しぶりにいいレストランを見つけた。

 国道19号、松本と長野を結ぶ二車線は、山沿いや貯水池脇を走る、意外と閑散とした道路である。高速道路が平行に走っているせいもあろう。

 その国道沿いに看板が立っているので、通るたびに何となく気になっていた。しかしドライブイン式の食い物屋は外れが多い、という通念に従い、立ち寄るのを避けていた。それでもやっぱり通るたびに気になる。何が気になるのか、正直わからない。看板に惚れたわけでも、店の外観が特別好みなわけでもない。それでもなんとなく外ににじみ出る雰囲気、というものがあるのだ。これだけ気になるんだから、ひょっとしたら悪くないのかも知れない。二月初旬、半分冒険心で立ち寄った。

 笑顔で迎え入れられた。天井が高く、椅子やテーブルには昭和の名残があり、観葉植物が手すりを這っている。いかにも昔からある町の洋食屋である。店内は段差があり、その分空間が広く見えた。

 少し高くなったフロアにあるテーブルに夫婦で陣取る。

 ハンバーグが売り物らしいので、二人ともハンバーグ定食を注文する。

 待っている間、水を飲む。アーチ形の窓から外を見ると、淡く宵闇が落ちつつある。少しだけ日が長くなったか。店内を見渡す。一、二組食事をしている。観葉植物を見る。また水を口に含む。不思議と心が落ち着く。

 不思議と、心が落ち着くのだ。向かいに座る妻も、同じ思いを伝える表情をしていた。特別洒落た造りでもなければ、高価な置物も純白のナプキンもない。しかし、長年真面目にフライパンを振り続けてきた亭主が厨房にいて、言葉少ない信頼関係で結ばれた家族がフロアを切り盛りしている、そう思わせる何かがあった。

 出てきたハンバーグは、実直で、飾り気がなく、旨かった。ゆっくりと嚙み締めて食べた。

 充分だ。これで充分だと思った。

 気取らず、年を重ね、しかしどんな客に対しても温かく、きちんとしたものを提供し続ける。

 こういう店が少なくなった。

 金を払って店を出ながら、また来ようと思った。 

 

 翌週、我々はまたその扉を開けることとなる。

 

(終)

 

 

 

 

 

 

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