た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

バリへ(三日目)

2009年04月29日 | essay
 バリの晴天は続く。三日目である。
 朝食後に浜辺にある卓球台で遊ぶ。途中からホテルで働いている現地人が割り込んできた。彼がやたら上手い。友人たちと大声でしゃべりながらどんな球でも返してくる。球が樹木の枝に挟まったところで卓球は終了した。

 遠出をしよう、ということに話が決まった。「ロッキンロッキン」の運転手に電話して、五千円でタクシーの一日貸切を依頼する。現地通貨のルピアで言えば五十万ルピア。これくらいの桁になると、金銭感覚が混乱してしまう。チップの基本は一万ルピア。しっかりしたディナーをみんなで食べると百万ルピア。「ワンミリオン」などと清算の時言われてしまうと、それだけで破産しそうな気になる。タクシー一日で五十万ルピア。五十万? つまり五千円。五千円か、それなら、高くない。
 連日の猛暑に肌を晒し続けていたので、エアコンの効いたダイハツのミニバンの中は快適であった。ただしやはり問題は運転手の「ロッキンロッキン」であり、英語が一向に通じない。goやeatなど基本的な動詞だけで会話をするとなんとか通じる。手振り身振りを交えて必死に意思を伝えようとしているうちに、そうかこれが国際語としての英語なのか、と思い至った。文法など要らない。ひょっとすれば、whenやifなどの接続詞すら要らない。表情や、手振り、重要単語の極端な強調、そして何より伝えようとする意思さえあれば、言葉は何とか伝わるものである。どこかの学者が言っていたが、日本の英語教育もそこを重視すべきではないか。まずは何が何でも伝えようとさせることが第一歩である。「はい、じゃあ今日の天気について教えてください」「はーい。ええと、(空を指差して)サン、サン、(親指を突き出し、笑顔で)グッド!」────最初はこれで十分ではないのか。もっと複雑なことを正確に伝えたくなった時に、文法は自然と身についてくる。車窓から外を眺めながら、そんなことをつらつらと考えた。

 我々はデンパザールという市場を目指した。
 市場と言えば、青空の下、いろんな果物が山積みに並べてある広場を、たくさんの人々が行き交うイメージがある。しかし我々がたどり着いた時にはすでに青空市場は終わっており、建物の中だけで売り買いがなされていた。
 それは三段も四段も重ねたハンバーガーのような建物で、物と人で溢れていた。香辛料から食べ物から人いきれまで、あらゆるものをごったまぜにした空気がこもっている。妻はハンカチで鼻を押さえた。それでもわれわれ探検隊は進まなければならない。幸い、若い娘さんがどこからともなく現れ、自らすすんで道案内をしてくれた。一階の果物を見て、二階の乾物、さらに三階へと上がっていく。あにはからんや、娘さんは自分の店に我々を誘導したのであった。私ノ店モ見テクダサイ。コノ上。私ノ店、見ルダケ。はいはい。ついて行ってみると、畳三畳ほどのスペースに重なり合うようにして服が吊ってある。「安ク、デキル」と電卓を出してくるので、交渉して薄手のシャツを数枚買った。車に戻ったらすぐに着かえたが、薄手なだけあってとても涼しく心地よかった。ただし、帰国後洗濯するともう着られなくなったというのは後日談。
 建物の外に出たら直射日光が背中を突き刺した。屋台でジュースを買う。こちらが出した紙幣に対し、店の側に釣りが足りなかった。お婆さんが大声で怒鳴りつける。怒鳴られた若者が慌てて釣りを手に入れに走って出ていった。何だか総じて、アジアを実感する場所であった。

 車に乗り込み、運転手に「次、寺、寺」と告げる。運転手はしばらく首を傾げていたが、大きくうなずいて「OK」と返す。我々の意思疎通もだいぶと楽になった。
 ヒンズー教の大きな寺院に到着した。腰布を渡され、身につけて入る。デンパザールとは打って変わって爽やかな風が境内を吹き抜ける。水辺には蓮の花が咲き、花の上を蝶が舞う。その羽音すら聞こえてきそうなほど静かである。石段に三人腰かけ、しばし憩った。バリの人は信仰深いと聞く。こういう場所が、バリ人の思い描く極楽なのかなあと、夢想した。

 水田に囲まれたレストランで昼食をとったあと、棚田を見ることに話がまとまった。旅行冊子には美しい棚田の写真があったから、どこかにあるに違いない。ところが棚田、というのが運転手に伝わらない。そもそもこちらも、棚田という英語を知らない。手の平を段々にして見せながら「ライス、ライス、ライス」と言ったが無駄であった。「田がたくさんあって、眺めのいいところ」と伝えたら、さほど眺めのよくないところに連れて行かされた。いいや違うんだよ、そうかパンフレットに写真がある、写真を見せよう。こんな風景の見えるところだ。ああ、これか。わかる。わかる。大丈夫。
 運転手席と助手席で四苦八苦の会話しながら、車は何とか目的地の村にたどり着いた。
 村の名をテガラランという。
 
 それは、私がこの旅で最も求めていた風景であった。
 険しい谷間に、どうやって造ったのだろうと不思議に思えるほどに、小さな田が幾重にも重なっていた。南国の木が畔から天を目指して伸びる。日光と水田の色と微かな霧のせいで、谷全体が薄青く輝いて見える。絵に描いたような風景である。しかしながらどんな絵でも見たことのない風景である。我々三人は息をのんだ。
 上半身裸のいかにも農夫らしい老人が、老犬と畔に座り込んでバナナの葉で編んだ帽子を売っていた。「息子」が一つ買い求める。
 我々三人は改めて、谷間を見渡した。
 私は居ても立ってもいられない気分になった。元来が農家育ちである。妻子を茶店に憩わせておいて、一人で猿のようにどんどんと畔を下って行った。下るといっても、勾配が急で足場に迷い、なかなかに危険である。それでも私はひたすら下った。下りながら童心に戻っていた。私の田舎に棚田はない。だがこの足もとの感触は、鼻につんとくる草いきれは、ひどく懐かしいものであった。
 十五分はかかったろうか。妻子も茶店も見えなるまで下りきってから、さてどうやって戻るかが心配になった。階段も坂道もないから、どこをどう登ればいいか皆目わからない。しまった、私は童ではなく今は一家の主であった、私が上にたどり着けなかったら妻子は露頭に迷ってしまう、あるいはこんな私に愛想を尽かして先に日本へ帰ってしまうのではなかろうか。いずれにせよ大変困る。
 息を切らせながら何とか元の場所まで登ってきたら、妻子はヤングココナツのジュースを飲んでいた。もらってみると水のような味である。「息子」は私の話を聞くと、「僕も行ってみる」と叫んで畔を一段飛び降りた。その拍子にバナナの帽子が畔に落ちて汚れてしまった。買ってさっそく汚すところは実に彼らしい。真っ赤な顔で呆然と彼がたたずんでいたら、先ほど帽子を売りつけた老人が現れた。帽子を手に取り、流水で洗ってくれた。笑顔で「息子」に帽子を返す。「息子」も満面の笑みになった。

 時刻が迫っていた。ジェゴグ鑑賞というのが旅行のセットに入っていて、午後六時までに会場のプラザバリに到着しないといけない。タクシーは街中を信じられないスピードで戻った。路上にはとにかくバイクが多く、大方のバイクが積載過多であり、子供二人と夫婦の計四人で乗っているバイクまでいる。彼らがまた車に負けじと飛ばす。我がタクシーは車とバイクの間隙をぬって、まるで映画のカーチェイスのような軽快さで走り抜ける。後部座席がやたら静かになった。あまりのスピードに声が出なくなったらしい。バリ人の運転技術は大したものがあるが、事故は多いのか? と訊いたら、とてもとても多い、と首を横に振りながら即答した。私も黙り込んだ。
 ジェゴグ開演にはぎりぎり間に合った。まあ、総じて親切な運転手だったと言える。 

 ジェゴグ演奏は、HISが主催したものであり、観客はみな日本人であった。ほお、これほどの同国人がこの小さな島に集結していたのかと感心した。みなブランド物の服に身を包んでいる。現地製のいかにも安物のシャツを着た親子はそういない。バナナの葉の帽子を被った子どもに至っては、一名を除いて皆無である。
 ジェゴクとは、太い竹を楽器とする音楽である。長さを微妙に変えながら切ったものを木琴のように並べ、力任せに叩く。ゲンコツが二つ余裕で入るような巨大なものもあり、それらが何台も連なって一斉に叩かれると、パイプオルガンのような荘厳な響きを持つ音を出す。初めこそその新奇さに感動していたが、次々と演奏される曲はどれも似たりよったりであり、添え物のダンスもいま一つ洗練されてない。司会進行役の座長が片言の日本語で説明をしてくれるのだが、やたら冗長で、しかも意味が通じない。日中動いた疲れも災いしてか次第に疲れてしまった。
 途中で切り上げ、食事を済ませると、ホテルに戻った。子供が寝付いたあと、妻と二人でもう一杯、とホテルのバーに繰り出す。柱と屋根があるだけ、あとは吹き抜けの夜風が心地よい洒落たバーで、我々はカクテルグラスを重ねた。
 テーブルの上のキャンドルライトの揺らめきを眺める。その日最後の数十分を、私と妻は言葉少なに過ごした。

 バリ滞在も、あと一日。
 
(つづく)
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4月23日

2009年04月23日 | essay
 春風が 誘い出すのは 花見心と 恋心。

 車一台分がようやく通る狭い路地を歩いていた。向かいから中学生の男女がやってくる。男女といっても、二人は塀についた磁石のように道の両側に別れ、車一台分の間隔をしっかり取って歩いている。恋人同士では到底なさそうである。しかし赤の他人でもないらしく、ときどき交互に顔を向けたり、笑ったりしている。だが二人が同時に顔を向け合い、目を合わせることは決してない。
 私は微笑を禁じえなかった。素敵な日差しの下の素敵な光景である。二人はクラスメートの域を脱していないのだろう。下校が一緒になったのは偶然かも知れない。それとも、ひょっとして、二人のうちどちらかが偶然に見えるように、さりげなく下校時刻を合わせたのかも知れない。会話は盛り上がってはいない。しかしときたま笑い合うところからは、相性は決して悪くない。それどころか────互いに秘めた思いを苦しく胸に抱きながら、何気ない会話を装い続け、帰路が別れるまでの時間稼ぎをしているのかも知れない。 
 ああ、これが、十代の恋のはじまり方かも知れない。

 そんなことを夢想してしまう自分は相応のオジサンだな、と心中頭を掻きながら、私は彼らの間を通り抜けていった。ちなみにそのときの私は、陽気に誘われぶらりと散歩に出かけていたわけではなく、パンクした自転車を修理に出すため、ずるずると重い鉄の塊を引き摺っていたのである。

 青春と現実。二人とすれ違いざまに、私が何だか惨めな気持ちになったことを、今更否定するつもりはない。
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4月22日

2009年04月22日 | essay
 あんまりさわやかに晴れた朝なので、珈琲を片手にベランダに出てみる。見渡すと街の向こうに北アルプスの峰が見えた。そうか、このアパートからは山が見えるのだ。八か月前に入居した時点で知っていたはずだが、すっかり失念していた。忙しかったのだろう。心に余裕がなかったか。山を発見して嬉しいような、少し寂しいような気持ちになり、珈琲を啜る。鈴の音に振り向くと、去年の夏にかけたままの風鈴がすっかり色あせて風に揺られていた。

 今年の夏はそこまで来ている。
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バリへ(二日目)

2009年04月12日 | essay
 バリ二日目の朝は、果物の切り口のように鮮やかであった。

 なかなかいい例えだと我ながら思う。なぜそんな例えが出たかと言えば、珍しい色とりどりの果物が、ホテルの部屋にサービスで山積みされていたからである。単純である。妻子はアケビのような中身の一品に感動していた。ゆっくりと起きたわれわれは、思い思いの果物を齧りながら広いベランダのデッキチェアに腰かけ、広い中庭を眺めた。
 いかにもリゾート地らしい造作が広がる。昨日チェックインした時は日没後だったのでまるで気づかなかったが、巨大なヤシの木らしきものが林立し、プールは青い空を映し、まことに南国情緒に溢れている。より正確に言えば、手入れの生き届いた南国情緒である。果物は美味しい。車の音など全く聞こえない。なるほど、休息が旅の目的ならば、こういう風景に囲まれてのんびりするのも悪くない。
 子供がプールを熱望するので、どちらかと言えば私は町に出かけて怪しげな場所探索をしたかったのだが、午前中一杯子供の提案に従うことにした。
 子供を泳がせながら、プールサイドのデッキに横たわってビールを飲む。何かの映画に出てきそうな場面である。紋切型である。そう思いながらもそのゆったりした時間を満喫した。
 周りを見渡す。午前中からプールサイドに現れるのは大体白人だが、彼らは白人としてのトレードマークであるかのように、一様に太っている。水に浮かべたらクラゲのように腹のひだが広がるんじゃなかろうか。しかしよほど誇りある民族なのだろう、周囲のことには全く無頓着である。視線がさまようことがない。プールの中でずっと抱き合っている男女がいる。デッキに寝そべりひたすら本を読んでいる女がいる。何もせずにデッキに横たわっている老人がいる。誰も彼も一様に静かである。やかましいのは、わが「息子」くらいである。
 いやもうひと組いた。同じホテルに同時にチェックインした日本人の親子連れである。二人の男の子がわが「息子」と同じくらいの年齢なので、すぐに仲良くなって、一緒にわいわいやり始めた。監視役としては大変ありがたい。大人同士も親密になった。
 プールは日本庭園の池のように細く長く蛇行しおり、ウォータースライドなどもあってなかなか退屈しない。太陽は見事に暑い。潮風が心地よい。こういう旅も悪くないなあとぼんやりしていたら、午前の時間はすぐに過ぎた。

 午後はホテルの外に出た。とにかくちょっとでもいいから地元の人たちの生活のにおいを嗅ぎたい、という私の要望が受け入れられた形である。
 道路わきに所狭しと並ぶ土産物屋を散策する。早速値段交渉に入る。ホテルの敷地内の店と違い、いくらでも安くなる。そもそも値段を聞いても素直に教えてくれない。電卓を突き出して、いくらなら買うのか逆に訊いてくるのである。日本人観光客なら遠慮して高く言ってくるから、そのときはその値で買わせようという算段であろう。ところがそうは問屋が卸さない。私は彼らの期待よりはるかに安い値段を提案するから、向こうは呆れ顔で首を振る。じゃあこっちも要らないよと店を出ようとすると、慌てて私の袖をつかむ。ねえ、せめて半額で。だから言い値じゃなきゃ買わないよ。わかったわかったそれでいい、はい袋、他に買い物ないか?
 妻子は目を白黒させながら私の交渉を眺めていた。二人とも優しい心の持ち主だから、そんな買い物の仕方はしたことがなかったのだろう。はばかりながら私もそんなにしたことはない。だが、私は今回、彼らにぜひとも土臭いところを見せたかった。綺麗ごとではない世界を見せたかった。バリの人たちは、生活のために少しでも高く売ろうと必死で売りつけてくる。当たり前のことだ。だがそれに対し、金銭感覚のない日本人観光客がやたら金をばらまくことは、決していいことではない、と、私は思う。そういう民族は利用されこそすれ、尊敬されない。売る側も、いくらでも買ってくれるのだからと、詰らないものを法外な値段で売って平気になる。買う側がものを見る目を確かに持ち、妥当な値段を要求してこそ、売る側もより良いモノづくりを目指し、その結果長く観光客に愛される商売をするようになるだろう。ただし私自身は物を見る目がないから、結局買った品を後で見たら、どれもこれも、どうしてこんなもの買ったのだろうという代物ばかりであった。何のことはない。

 それはともかく、妻子は値段交渉がいたく気に入ったようであった。私の予想に反している。彼らの方が私よりも俄然熱心に交渉し始めた。その日買い物を終えてホテルに帰ったのちも、子供は「あの値引きする買い物をまたしたい」と言い出す始末である。子供の教育に果たして良かったのかはなはだ疑問である。

 午後、旅行にセットになっているバリ式マッサージというのを施してもらう。まあ指圧である。広告にあるように女の人がする。気持ちよかったが、別にそれで体が軽くなるというわけでもない。そんな夢のようなマッサージはそうあるものではない。私が声を上げてばかりいたから、気になって身が入らなかったと、隣で同じくマッサージを受けた妻があとでぼやいた。納得がいかない。指圧と言うのは声を上げるものではないのか。

 夕食はホテル内のレストランでとることにした。これも旅行にセットになっているサービスである。レストランに行く途中に発見したことだが、ホテルの中でも露天商が風呂敷を広げて商売していた。妻子はまた値段交渉がしたいらしく、テーブルについてもうずうずしている。いいよ、気になるなら行ってきなよ。ここで飲みながら待っているから、と言って私は彼らを送り出した。
 
 バリのカクテルは美味しい。このからりと暑い風土のせいだろうか。一人グラスに口をつけて宵闇を眺める。そうだ、今まではずっと一人で旅してきたのだ。それはそれで何物にも代えがたい素敵な時間だった。しかし、と私は妻子を待ちながら思った。しかし、一人は、こんなにさみしいんだ。
 私が年をとったのだろう。いや、かつて一人旅をしているときもつねにさみしかった。それはそれはさみしかった。そのさみしさを飲みつくそうとするかのように、ひたすら旅を続けていた。
 あの当時の、ある種修行僧のような孤独と厳しさは、もう戻らないのか。ふむ、と私はカクテルのお代わりを注文する。先ほどよりも目を細めて闇を眺める。何かを手に入れる引き換えに、私は何かを失ったのか。本当に、これで、よいのか。
 歓声が聞こえて、振り向いたら二人が戻ってきていた。子供がサメの歯のついたブレスレットを私に差し出す。私にくれるという。もっとまけさせたかったけど、なんだか難しくてさ、結局ほとんど言い値で買ったんだ。そう話す表情が悔しそうである。いいんだ。それでいいんだよ。値段交渉は目的じゃない。ありがとう。よくがんばったね。ブレスレットは、私はあまりしないんだけどね。

 われわれ三人はグラスを合わせなおした。波の音が遠くかすかに聞こえる。食事をしている人は、いつの間にか、われわれともうひと組くらいである。 
 バリ二日目の夜は、時計を持たない生活だけに許されている贅沢さで、ゆっくりと更けていった。    

(もう少し続く予定)
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バリへ(第一日目)

2009年04月04日 | essay
 バリへ。なんだバリかと舌打ちする人も多かろう。私も数か月前、家人から計画を聞かされたときは心の中で舌打ちした。バリなんて、花柄模様のハイヒールを履いて、屈伸できないほどぴったりした短いジーンズ、スパンコールつきのシャツに身を包んだ女子大生がきゃあきゃあ言いながら真黒になりに行くところだと思っていた。野性味溢れる流浪の旅を性格的にも経済的にも好んできた私にとっては、あまりに豪奢で予定調和で、ずいぶん物足りない旅に違いない。しかし今回は妻子を伴う家族旅行である。致し方ない。家内安全、冷房完備、広告産業、記念写真である。よくわからないが、つまりは腹をくくったのである。

 乗合バスに四時間揺られ、飛行機に七時間揺さぶられてバリに着いたら夕刻であった。なるほど暑い。赤道はすぐ近くである。
 
 グランドハイアットバリという名のやたら大きなホテルに連れていかされた。大きいだけあってチェックインにも時間がかかる。チェックインが済めば、ロビーからさらに、小学校の校庭をぐるりと回るほど歩かなければ部屋にたどり着けない。道順は極めて複雑である。この調子では、ホテルの敷地内の地図を覚えることでこの旅は終わってしまいそうである。ポーターにチップを渡し、ベッドに腰を下ろしたころにはとっぷりと日が暮れていた。
 
 いやしかし、と私は寝ころんだばかりのベッドから立ち上がった。貴重な海外旅行第一日目を、靴下の数の点検だけで終わらせてなるものか。私は心を鬼にすると、疲労した家族を急き立てて外へ出た。

 ロビーでホテルサービスの一つである無料送迎のタクシーを呼んでもらい、下調べもないままシーフードレストランを目指す。

 ところがここに一つ困ったことが起こった。タクシーの運転手と言葉が通じない。インドネシア語が通じないのはこちらの不勉強だから致し方ないものの、通じると聞いていた英語が一向に通じない。心配になってレストランまでの所要時間を訊くと、何とか押し問答してようやく25分もかかるとわかった。みんな極度にお腹が空いている。道端には格好のレストランも数多く見える。近くで済ませようとタクシードライバーに目的地変更の旨を英語で伝えたが、通じない。「ロッキンロッキン?」など不思議な英語を返してくる。いいから止まってくれと言っても、困ったように首を振りながら止まってくれない。タクシーは言葉を失った三人の日本人旅行者を乗せ、夜のバリをひたすら疾走した。

 後々振り返るに、このときが一番緊張したかも知れない。海外旅行と言えばリゾートホテルでプールに入るくらいしかしたことのない女子供を、私はいきなりとんでもない冒険に引きずり込んだのか。のちにわかったことだが、ホテルつきの無料タクシーと思っていたのはレストランつきのタクシーの勘違いであった。それではさすがに途中で降ろすわけにいかない。ちなみに、「ロッキンロッキン」とはLooking looking.で、観光と言う程度の意味らしく、その後タクシーに乗るたびに耳にした。言語習得を抜きにした異文化交流はかくも難しい。

 連れていかれた問題の場所は、波音近い砂浜にテーブルを並べたなかなか洒落たシーフードレストランであった。桶に入った魚を自分たちの目で見て選び、焼いてもらう形式である(写真は焼いているバリ人たち。とても職人風には見えない)。日本人客も多く見える。地元のミュージシャンが怪しげな歌詞でビートルズや「なごり雪」などを演奏していた。我々三人はテーブルにつき、ようやくグラスを三つ鳴らすことができた。それは大げさに言えば、今日一日の戦火を潜り抜けた戦友たちの乾杯に似た感慨深いものがあった。

 珍道中は始まったのだ。日本は遥かかなたである。もう何が起こってもおかしくない。熱帯の島はアジアの匂いに満ちている。心地よい酔いが疲労した五体に浸透し始めるころには、私は頭の隅で、明日の計画をわくわくしながら思い描いていた。

(つづく予定)
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ポールジロー

2009年04月03日 | 食べ物
 旧年度が終わった。年度の終わりにはポールジローと去年の暮れあたりから決めていたので、仕事が終わったその足でバーへ。その足と言っても距離がある。よって自転車である。自転車で飲みに行き、自転車で坂道を駆け上り、帰宅する。普段の行き帰りには車を使うので、なかなか過酷な行事である。それでもバーへ行く。太ももが急性筋肉痛になってでも(そうか、筋肉痛はだいたい急性のものか)、バーに行く。家人をダイニングテーブルに頬杖つきながら待たせてでも、バーへ行く。立派なことである。こういう輩はとうてい長生きできまい。
 
 「何だかさ」
 掌に載せたグラスが温かみを失うころに、ぽつりとつぶやく。
 「たとえば、高校に入った子が卒業していく。つまりそれだけで三年経ったんだ」
 バーテンダーはナプキンを動かす手を止めない。私も相槌を期待していない。
 私はしみたれた風に一口すする。 
 「こっちは何にも変わってないんだ。見送るだけだよ。いつも見送ってばかりいる仕事だ。」
 ────なるほど。
 「立ち止っていると、年をとるね」

 一杯のポールジローは吝嗇してもすぐに無くなった。私はしょざいなく店内を二度見渡してから、鞄を持って立ち上がった。
 「年度の終わりにポールジローだよ」

 さて、早く帰らなければいけない。やはり何といっても、家人を待たせるのは怖いことであるから。
 
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