た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

『変温』抄

2018年02月11日 | 断片

 これは、進化なのか、それとも退化なのか。

 知ったこっちゃない。俺にわかるわけがない。何が原因で何が目的なんだか、そもそも原因も目的もあるんだかないんだか、知りようがない。正直に言わせてもらえば、知りたくもないでござんす。ただ、ただ、俺は元の身体に戻りたいだけでござんす。

 とてつもなく大きな流れが、人類を今、これまでとは全く違う方向に押し流そうとしている。俺はその流れの、先端にいる。

 俺には価値がある。希少価値という価値が。それがためにこの原稿をこうして書く価値もあるわけだが。俺は、なんと、一番乗りなのだ。一等賞! 小、中、高、大学、ちょっとだけ社会人と生きてきた中で、どんな小さな分野においても、今まで一度も取ったことがない賞。どうだ、すごいだろう。けら、けら、けら! 何のことはない。俺が世界で一番最初の(これも「おそらく」という但し書き付きだが)「発症者」、というに過ぎない。だから一等賞。俺は、人類にとって、諸悪の根源的存在なのだ。あいつのせいで・・・と一生言われ続ける運命を背負った人間なのだ。あらゆる人から疎まれ、誰にも祝福されることのない第一人者。

 それでも俺には、「先駆者」として、事の成り行きを書いて残す使命がある。たぶん。だって今のところ、誰よりも長くこの難病と付き合っているわけだから。俺は言いたい放題、好き勝手気ままに書くつもりだ。ちょうど、カウンセリングの患者が言いたいことを自由に言わせてもらえるように。その方が、後世の参考になるってなもんだ。そうでしょう、世の学者さんたちよ。一見、くだらないとしか思えないしゃべくりの端々に、事の真実が隠されているやも知れんでしょうが!

 何だか、俺は興奮している。感情の起伏は以前より鈍くなった感じがするのだけど、でもひそかに、まるで冷めた激辛カレーのように、興奮している。冷たいけど、hot!・・・わかってもらえるでしょうか。人類初の存在となった喜びと、独りぼっちのみじめさが混在しているのだ。やけっぱちと不安が同居しているのだ。これは明らかに進化じゃない。明白に退化なのだ。それはわかっている。それはわかっているけど、問題は、なぜこんなことが起きたかってことなのだ。

 それは今年の初め、一月七日の朝だった。

 俺は変温動物になっていた。

 いやいや、これじゃ説明にならんぞなもし。もっとくわしく。どうでもいいことまで赤裸々に。

 それは───ありていに言えば───ひどく孤独な正月の終わりだった。独房に閉じ込められた無期懲役囚のように、俺は孤独だった。特別なこっちゃない。独りで生きてきた人生の、他人と接触のない日常の延長線上にある、祝う相手のいない年末年始。ゴキブリとNHKの集金員以外誰も訪ねてこないアパートの六畳一間で、脚のぐらついた電気炬燵に首まで潜り込んで迎える新年だ。こういうすさんだ暮らしを何年前から続けているのか、数えたくないから数えてないが、大学を出た年に直子と別れて以来だから、もう相当の歳月になる。直子。直子。直子。直子。直子のことはよく考える。それが発病の原因か?

 その朝、炬燵が熱くて俺は目覚めた。太陽を抱き枕にしたみたいに熱い。ひどい寝汗だ。頭ががんがんする。俺は毎朝起きたら洟をかむ習慣があるが、このときは体中の穴という穴から液体が漏れ出ている感じで、ティッシュどころの騒ぎじゃなかった。それでも俺は、ティッシュを探して片肘を突いた。まだこの段階では、熱さの原因は、昨日の晩にコンビニで買って一人で飲んだ安物の白ワインのせいか何かだと思っていた。

 いや、それにしても熱過ぎる。

 たまらず俺は炬燵を飛び出した。その光景は見ものだったと思う。体中に熱湯を浴びせられたかのように小躍りしていたはずだ。フライパンのソーセージ状態。まあね。俺という人間は、昔から落ち着きがないと言われ続けてきた。親に言われ、教師に言われ、直子にまで言われた。がしかし、これほどまでに落ち着きがないというか、慌てふためいたのは生まれて初めてだろう。こりゃ炬燵の温度設定が間違っていたかと、炬燵布団をまくり上げてみたら、目盛りはちゃんと「低」を示している。おかしい。インフルエンザで四十度の高熱を出した時以上の体の火照りようだ。しかも体中が、何というか、酢漬けにされたような変な感覚なのだ。鈍いが、刺激的なのだ。このまま死んでしまうのか? と本気で思った。とにかく異常だった。足がよろめき、畳に落ちていた読みかけのエロ雑誌を踏んづけた。途端にひどく汚いものを踏んだ気がして足を引っ込めた。こんなどうでもいいことまで書くのも、エロ雑誌に対してそこまでの不潔感を抱いたのは、それが初めてだったからだ。いやもちろん小中学生の頃の、まだ初々しい、潔癖症的時代にはそんなこともあったや知らん。しかし歯ブラシを買い替えるようにビニ本を買い替える習慣が身につく年頃になると、すぐにそれらは何でもない日常必需品になり下がってしまった。当たり前に転がる猥雑。無感動な自慰。バーチャルな快楽に走るから、現実の女の子と出会えないのかと、ときどきは反省もしてみたが、とは言っても先の傷んだ歯ブラシは買い替えなければならない。読み飽きた雑誌も買い替えなければならない。終いには、ヘアヌードの見開きを敷物にしてその上でカップラーメンを啜っても何とも思わないほど、感覚は麻痺していた。それがこのとき、反射的に飛びのくほど激しい嫌悪感を覚えたのだから不思議である。立派な異変だ。自分の身体の生理的な部分が、すでに大きく変調をきたしていたってことか。

 炬燵から出て三十秒もすると、あら不思議。今度は嘘のように、体温が急降下するのを感じた。寒い。ひどく寒い。氷をぎっしり敷き詰められたタラバガニ状態である。タラバガニほど自分は高価じゃないか。そもそも部屋が寒い。駄菓子屋の霜の付いたアイスケースのように冷え込んでいる。これは前からのことだ。暖房は炬燵だけ。エアコンなし。えー、会社勤めを一年で辞めてコンビニバイトだけで自活する生活では、エアコンをあつらえるだけの余裕が無いのでございます。仕方ねえじゃねえか。不景気な世の中が悪いのだ。直子も冬に泊まりに来た時は、寒い、寒いと言っていた。もうずいぶん昔の話だ。

 直子のことはよく思い出す。エロ雑誌に眉をひそめるくらいだから、そっちの欲求が今あるわけじゃないけど、しかし直子のことは、こうなってしまった今でも、不思議と恋しいのだ。

 笑うとえくぼの出来る、目のくりくりした可愛い子だった。

 話を一月七日の朝に戻さなければ。いくら元々が寒い部屋だと言っても、ちょっと異常なほどに体が冷え切っていくのを俺は感じていた。自分の肉体が借り物の容器のようだ。明らかに感覚が違う。今度は凍死の危険性を覚えた。俺は動きまで鈍くなった手足を必死に動かして、再び炬燵の中に体を入れた。

 そこからはコメディだ。炬燵に入れば、今度はまたオーブンで焼かれるような熱さ。炬燵から飛び出すやいなや、北極に立たされた寒さ。炬燵。外。炬燵。外。そんなチャップリン顔負けのドタバタを、計十回は繰り返したろうか。もちろんやってる当人の俺は全然面白くない。半分本気で泣き出しそうです。いよいよ、俺はこのアパートの自室という、この世界で唯一最後の居場所まで奪われるのか。ずっと以前から居心地の悪い世界ではあったけど、もうどうやったって暑過ぎるか寒過ぎるしかないのか。これはひょっとして神経過敏ってことですか? 照れるなあ。俺の感覚が研ぎ澄まされていると。なるほど。繊細だと。俺ってこんなに繊細だったっけなあ。「男のくせに細かい」と直子に馬鹿にされたのは、ひょっとしてこのこと???

 ほとんど錯乱状態でへとへとになった思考を振り絞って、炬燵の上にあった携帯電話を取り上げ、俺は百十番に電話した。

 「どうしました」

 「あの、体がものすごく熱くなったり寒くなったりするんです」

 この説明はどう考えても間が抜けている。とても緊急性は伝わるまい。実際、電話の向こうも、「はあ・・・」と戸惑ったような相槌を返してきた。いたずら電話か、と心の隅で疑っていることまで透けて見えた。畜生。俺はわざと必死に聞こえるように、まあ現実に必死だったわけだが、アパートの住所を早口で告げ、とにかく死にそうだから一刻も早く来てくれ、と怒鳴って電話を切った。下手な説明をしたものだ。俺はだいたい、人に説明するのが下手くそなのだ。一年勤めた会社でもやたらドヤ顔をする上司に言われた。「お前は説明が下手なんだよ。そんなんで顧客が取れると思っているのか?」うるさい、死ね、死ね!・・・畜生、俺が死にそうなんだよ。救急隊員の野郎が、いたずら電話だと決めつけて来なかったらどうするんだよ。て言うか来ないに決まってるじゃないか、『熱くなったり寒くなったりするから来てくれ』なんて。くそっ、何だかやけっぱちな気持ちになってきた。はいはい、どうせ実害はございません。俺一人くらいがこの世からいなくなっても。むしろ有益かな。け、け、け! ひょっとして、田舎の母親くらいはおそらく多少は悲しんでくれるかもしれんが、まあその他は世界広しと言えども誰一人として困らないだろう。直子も含めて。

 俺はよろめく体を引き摺って玄関に向かった。とにかく五感がおかしい。携帯電話が手から滑り落ちた。食器棚に肘が当たり、その振動でグラスが落ちて割れたが、その音も何だかくぐもって聞こえた。俺は割れたグラスすら見向きもせずにひたすら体を動かし、玄関に出た。部屋の空気に原因があるんじゃないかという気がしたからだ。この部屋を出れば、助かるかも知れない。今日は一月七日。七草がゆの日だ。七草は言えません。ごぎょう、はこべら、ほとけのざ。すずな、すずしろ。あ、五つ言えた。とにかく新鮮な空気を吸おう。何かがおかしくなっている。外は寒いかな。寒いだろうな。この部屋より冷え込んでたらまずいぞ、という懸念も十分にあったが、もはや俺自身がこの状況に耐えられなくなっていた。ぼくちんはこらえ性がないんです。どうにも、じっと待っていることができなかった。俺はドアを開け、外界の空気を吸い込んだ。それはとてもすがすがしい、東京の空気とはとても思えないほどすがすがしく澄んだ、そして冷え切った空気だった。ああ、生き返るようだ、と頭の片隅で思いながら、俺は気を失った。

 

(途切れる)

 

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近日『変温』抄掲載!

2018年02月11日 | 断片

 瞬時に情報の更新されるこのインターネットの世界では、忘れられるのもまた瞬時である。一週間も更新しなければ古文書扱いをされかねない。何かと世事に多忙でまとまったものを書き上げることもままならないが、忘れられるのも嫌なので、何か載せようと思う。現在、仕事の間隙を縫って、ずっと以前に書いた『変温』という小作品をちびちびと書き直している途上である。その一部を載せようと思う。かつて読んだことがある方はごめんなさい。今のところ、あまり変わってはいないです。

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