た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

12月20日

2011年12月20日 | essay
 年の瀬の慌しさの中で、ふと時間が空くと、何をしていいかわからずじっと一点を見つめてしまう。

 午前中に車を出して街中でいくつもの用事を済ませて、なおかつ午後からこなすべき用件の数を考えながら、早めに食事をとろうと行きつけの食堂の駐車場に乗りつけたら、まだ開店していなかった。あと十五分程度待つ必要がある。時間がふと空いた。
 他の用事に取り掛かるには中途半端なので、仕方なく車の運転席に座って外を眺める。
 晴天である。しかし車の窓を開けたら寒いのもわかっている。松本平の、乾燥した冬である。
 見ると、駐車場の隅に小さな祠があった。両腕に抱えて運べそうなほど、小さな祠である。白狐が両脇に立っているので、お稲荷さんだろうか。板金でできたような鳥居もあるのだが、倒れて祠の階段にもたれかかっている。全体におもちゃのような祠である。
 一方の白狐には陽が当たる。一方の白狐は陰である。

 不意に泣きたくなった。私は何をあくせくしているのだろうか。何にとらわれ、悩んでいるのだろうか。私はあいつらによって嘲笑われているのだろうか。私は、どこで、何を失ったのだろうか。
 
 キー回し、車を出した。食事はここでなくてもとる場所はある。
 
 
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いくら2011

2011年12月07日 | essay
 Hさんからいくらが届く。北海道の採れたてのいくらを自家製のたれで漬け込んだ絶品である。毎年届く。ありがたい。ご高齢であるが、まだまだお元気なんだとわかる。こちらの元気を気遣っていただいているのもわかる。幸せである。遠くにいる人と、心でうなずき合える幸せである。

 独り身の頃はこのいくらを独占していたが、結婚して家族を持って、子供が好んで食べるので、近年は奪い合いである。たらふくは食べられなくなったが、まあこれも幸せの一形態であろう。幸せを分かち合える幸せである。


  温もりと 命をいただく 師走かな
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独杯

2011年12月05日 | Weblog
 若いころ、自分は世界に対し人一倍敏感だと思っていた。

 がそれは、自分の反応に敏感であるに過ぎないことに

 つまり、世界を見つめるのではなく自分を見つめているに過ぎないことに

 この年になってようやく気づき始めた。

 結局は自意識過剰か。

 どうりでこの体に酒を入れれば

 すべては良い方向に向かっている感じに見えるわけだ。

 
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