た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

たんぽぽ

2005年04月29日 | essay
東京の友人が黄金週間だなとメールしてきた。なるほど、和訳すれば黄金週間である。
仕事で今日も一軒一軒ビラを撒く。汗が額ににじむ。住人はみなどこか遊びに出かけている。
ポストの受け入れ口が堅い。マンションとマンションの隙間に細く伸びる日陰の小径を抜けたら、
突然畑が広がっていた。畦にはたんぽぽの黄色い花が咲き乱れていた。私はチラシを手に、行く先を失った。

そうだ、その通りだ。 黄金週間だな、と、私は心で友人に返事を送った。
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今夜もしりとり気分

2005年04月29日 | Weblog
深夜 ヤフー 不規則 隈 間違いだらけの生活 詰まらない朝 最低の午後 ゴミのような夕べ
別に今日も何もなし 深夜 ヤフー 不規則 隈・・・・


・・・・・・・・・・・・
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正直再考

2005年04月27日 | 写真とことば
 自由の保障された現代は誰もが正直に語っているようで、その実正直に語ることの最も難しい時代かもしれない。
 というのも、語り口が洗練されてきているからだ。その主な原因はマスコミの教化にある。小学校低学年の子どもたちがすでにテレビのタレントや漫才師を真似てとてもユーモラスな語り口を身につけている。大人のOLもラジオのDJと変わらない軽快なしゃべり方をする。一見、思ったことをすぐ口にしているように見える。だがその裏では無意識に、怒りや悲しみなど泥臭い感情を押し殺し、差し障りのない会話がこしらえ上げられているのである。
 人々の言葉が、人々本来の言葉ではなくなってきている。借り物の言葉なのだ。それは宮廷言葉を身につけた貴族同士のように、物腰の柔らかさと仲間意識の強い会話を提供するが、のどを振り絞って出すような切実な言葉は何一つ吐けなくなるのだ。
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しりとり気分

2005年04月27日 | Weblog
火曜日、ビール、ルックス、水曜日、ビール、ルルブ、文武両道、雲母、木曜日、ビール、ルクセンブルク、茎、金曜日、ビール、、、

 以上しりとり気分でした。
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二人の三輪車おばさん

2005年04月25日 | 写真とことば
三輪車にのる二人のおばさんに出会った。
狭い路地に一定の距離を置いて並び
二人とも一生懸命にこいでいた。
よく見ると左のおばさんは前輪が二つ
右おばさんは後輪が二つの三輪車。
三輪車にも二種類あるのか! と
どっちが果たして楽なのだろう、と
呆然と私は二人を見送ったが
右と左はつかず離れず
車が来たら左右に分かれて
車が去ったらまた一定の間合い
ひょっとして
彼女たちは三輪車工場の社員であって
どちらのタイプがこぎ易いか試乗しているのでは?
あるいは仲のいい友達で
今日は互いに交換し合って乗っているとか
あるいはあるいは犬猿の仲
あんたが前輪二つならあたしゃ後輪二つ
ふん、どっちが優秀か競争しようじゃないの
あるいはたまたま行き合わせた赤の他人
ちょっと、あの人のあたしと逆じゃない
早く行ってよ何となく恥ずかしいじゃない
それともひとつの芸術で
三角形と逆三角形
二人がいつか合体すれば
あわせて六輪車とそれじゃサーカス
いろいろ考えているうちに
幸せな気分になりました。
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夕べの祈り

2005年04月24日 | 写真とことば
すべてが眠りにつく前に
今日を許したまえ
鉄格子の隙間と、高架下の空き地と
遠い国の廃墟と、あの向こうの交差点で
憎しみが今日も
幾多の無知を犠牲にしたが

安らかな夜の訪れる前に
今日を許したまえ
少女は愛に唾を吐きかけ
青年は夢に罪をかぶせ
母親は息子の父を呪い
労働者は顔を腕に埋めたが

放蕩と忘却の闇に包まれる前に
今日を許したまえ
言葉が棘(とげ)となり
沈黙が断絶となり
努力の後に苦い後悔を味わい
ガラスは音を立てて彼らを笑ったが

太陽が西の空に燃え尽きる前に
今日を許したまえ
すべてはこのままであり
≪コノママガスベテデアリ≫
哀しみが夕焼けとなって
孤児(みなしご)たちの涙を干上がらせるとしても

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我慢についての邪視的考察

2005年04月21日 | essay
我慢できる限界値は、我慢して得られる快楽に相関する。

(よって、人は合理的な理由がなければ我慢できないのだ。

後にこれだけのものが得られるから、今これは我慢する、と。

とすると、それは我慢と言えるのだろうか? むしろ作戦だ。

後に相応の見返りを得るための。純粋な意味での我慢なんて、

誰にも──どんな意志の強い聖人にも、できっこないのだ。)



・・・これは表題の通り、我慢についての邪視的考察である。

自分が些細なことで我慢できなかったがゆえに、これを書いた。
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誇り

2005年04月20日 | essay
 人と人との出会いと交流においては、互いのプライドよりも謙譲や寛容が好まれるが、国と国同士の出会いと交流においては、プライドの主張と尊重が最優先される。人と人とは結構実益で動くものだが、国と国とは実益がなくても誇りに関われば動く。人間で面子を重んじる人は少なくなったが、面子を重んじない国はない。そのようなことを以前から漠然と思っていた。二元論にきれいに納まらない場合だって多々あるが、イデオロギーという堅苦しい代物が、つねに個人のレベルではなく国家のレベルで問題になるのはなぜかと考えたら、どうも図解はそこに行き着くのである。

 お隣の中国が騒がしい。騒ぎの種は我が国にあると言われている。中国側の硬直した態度はまさに、国家としての誇りがなせる業である。それをただ中華思想だ、尊大だと非難して首を横に振るだけでは、結局誇りの傷つけ合いに終わろう。かと言って日本の誇りをまったく度外視して交渉に臨むのも、国として哀れである。哀れであるだけではない。いつか必ず鬱屈し歪んだ形の誇りをこの国に呼び戻すことになろう。誰かと喧嘩して勝たなければ納まりのつかない自尊心である。戦争は国民の心の中にそうやって用意される。

 政治家がよく「毅然とした態度で」と言うのは、よってもっともなところである。ただどういう態度をして「毅然」と見なすかを、よくよく吟味してみなければいけない。かっこいい、と個人を評するその評価の基準は千差万別である。それは構わない。いろんなカップルが誕生しなければ子孫は繁栄しない。しかし、こと自分たちの国家のあり方に関して、どういう姿をもってかっこいいと見なすかは、下手をするとその国の存亡をも左右する問題となる。語弊を恐れずに言えば、一個人よりも国家の方が体裁を気にするものであり、しかも体面を傷つけられたときには長く忘れないのだ。誇りが美意識につながり、正義論へと連なっていくお定まりのテーマ、つまりナショナリズムという議論のあり方がここにある。それは決して古びていないし、それを理由に軽視されてはいけないのである。
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静電気

2005年04月19日 | essay
 二年ぶりにまた車を運転するようになって、ドアの開け閉めの際の静電気に参っている。
 中古の軽自動車のような、いかにもがたがたしながら走っていそうな車は、それだけ静電気を多く帯びるのか。というのも私の現在の愛車はまさに中古でがたがたの軽自動車である。しばらく運転したあと停車する。ドアを開ける。車を出る。ドアを閉めようとノブに手を触れると、ばちっ、と音がする。私がおののく。
 指がしびれるのも嫌だが、むしろあの、ばちっ、という音に驚く。買い物して戻ってきてドアを開けてもまだ、ばちっ、が健在だと、さすがにうんざりする。私は小心者である。だんだんドアに手を触れるのが恐怖になる。
 これでは遠からず、車に乗れなくなるか、車から出られなくなる。どちらも生活に支障をきたすので、対策を練ることにした。
 まずは折りたたんだハンカチ越しに。それでもばちっ。
 なんと強力な静電気なのだ。ようし、そっちがその気ならこっちも本気、絶縁体を用意しよう。ということで、ゴム製の指サックを購入した。これを指にはめて触ればへへっ、静電気の奴もさすがに手も足も出まい。ああ、今日もいい天気だ、川べりまでドライブするかな、とドアに手をかけたとたんばちっ。
 どういうことなのだ。私の愛車の静電気は絶縁体まで貫くのか。
 私はびどく混乱した。指サックも貫く? ひょっとして指サック以外のところが触れたのかも知れないが、いいや、何か雷のように指サックを遠回りして電気が来たような気もするぞ。空中放電? 一体これでは、ゴム手袋をはめなければいけないということか。そんないかにも汗ばみそうなものを───しかもそんなものをはめて駐車場に姿を見せれば、これから家宅侵入を試みる泥棒と間違えられるではないか。
 ええい、こうなったらむしろ静電気を有効利用しよう。充電器をドアのところに備え付けて、車のエアコン程度の発電に使えないかしら・・・と思考がはるか遠くに行ってしまっている私であった。

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野沢菜わさび風味

2005年04月15日 | 食べ物
松本に移住したばかりの私がいまだ食していなかった一品だが、先日松本に遊びに来た友人が買って置いていってくれた。食べてみるとこれがなかなかうんなかなかなかなか。わさびの風味がつくだけでこれだけ上品になるのかと感心した。まるで単なる村の寄り合いの宴会に浴衣姿の乙女が晩酌をしに現れたようなもので、と、いやこれは発想が古めかしいし男女平等。しかしやっぱりわさび風味は旨いのであって、あまりの感心に、自分の娘が生まれたら「わさび」と名づけようと思い立った。しかしその前に結婚しなければならず、そのさらに前に結婚してくれそうな人を見つけなければならず、ううん、何だか、わさびが目に沁みてきた。
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