た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

体育委員

2017年08月28日 | essay

 体育委員に任命された。

 体育委員というのは、誰もが任命されるのを嫌がることで有名な地域の役職である。何をするかは定かでないが、とにかく嫌がられていることだけはよく知られているという、その存在自体が不気味な役職である。誰も成り手がないということで、最後は組長から達筆の手紙まで送りつけられ、どちらかというとその達筆ぶりに圧倒されて、引き受けることとなった。なってみると、実際にすることと言えば、球技大会などの最中、ひたすら腕を組んで選手たちを見守るくらいのことである。あまり建設的とは言えないが、ひどく苦痛とも言えない。

 先日の日曜日は軟式野球を見守った。曇りという予報を見事に裏切った炎天下、山の緑と田畑に囲まれた球場で、白球が飛んだり跳ねたりするのを丸一日眺めていた。確か出場資格に三十歳以上無制限という規定があり、どこのチームも多彩な年齢層の寄せ集めである。若者たちは打つわ投げるわ、年寄りたちは落とすわ空振りするわで、なかなか世代間のバランスを取るのが難しい。こちらも眺めているだけでなく、ときどき拍手をする。ゲームが緊迫すると控えめな檄(げき)を飛ばすこともある。点差が開きすぎると別の体育委員と雑談する。

 試合を眺めながら、ふと幼い記憶をよみがえらせた。正確に言えば、その当時の記憶はない。幼い私の映る一枚の写真に対する記憶である。ようやく立ち上がることの出来たくらいの私が、開いた窓に手をかけ、じっと外を眺めている。その背中を収めたモノクロ写真である。当時、私の家族は教員だった父親の赴任先で、教員住宅に住んでいた。住宅は校庭に面しており、校庭で野球部が練習するのを、幼い私は飽きもせずにずっと眺めていたという。後年母親からその写真を見せられたとき、当然物心つく前の話だが、ああ、確かに自分は、あの頃そんなことをしていたに違いない、という感覚を覚えた。実際そんなことをしていた気にまでなった。自分という人間は、結局、ぼーっと何だかよくわからないものを眺めているのが一番性に合っているんじゃないか。

 そんなことを試合中に思い出したのは、試合の展開そのものよりも、グラウンドの奥の、外野選手がポツンポツンとしか見えない、だだっ広い空間に自分の目が行っているときであった。球の飛んでこない芝生に陽はさんさんと注ぎ、球場の向こうの木立からはセミの大合唱がゆく夏を惜しむかのように鳴り響いていた。

 気がつけば、私の視線はいつもそこへ戻っていた。

 自分の出ない試合の、それも球の跳んでこない茫漠とした広がりをひたすら眺めやる。何だか自分の人生の縮図を思い知らされたようでもあり、それはそれで気楽な人生ではないかと開き直る自分もいた。

 快音が聞こえ、慌てて拍手をする。

 体育委員としてのその日の任務は夕方五時まで続き、ビールをしこたま飲まされて終わりを告げた。

 

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ひまわり

2017年08月23日 | 断片

ビルの谷間に驚くくらい背の高い

ひまわりの花が枯れていた。

自分の産んだ種の重みに耐えかねて

背むしのように項垂れていた。

誰かに褒められたくて咲いたのだろうに

誰かを思い焦がれて待ったのだろうに

ビルの谷間にはそよ風もなく

あまりの暑さに立ち止まる人とてなく

私もまた

汗を拭き拭き

残忍とは思いながら

いつか「彼」のようにならないためにも。

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熊に出会う

2017年08月16日 | essay

 車に乗っていると、いろんなものに出会う。中房温泉を目指しているときは、猿に出会った。猿はそれ以外にも時々出会っている。二年ほど前、両親を連れて扉温泉に立ち寄った帰り道には、鹿の親子連れに出会った。三頭いたから、親子連れだと勝手に決めつけている。友だち連れかも知れない。だいぶ昔になるが、上高地の近くでカモシカを目撃したこともある。

 先日は熊に出会った。熊に出会うのはよくよくのことと思う。そのときも温泉地を目指していたから、考えてみると、温泉を目指すと動物に遭遇していることになる。だがさらに考えなおすと、温泉地はたいてい山の中にあるので、これは当たり前のことである。温泉を目指さなかったら、そんな山奥に行く必要もない。

 その日は、行ったことのない温泉(確か雨飾温泉とかいったと思う)を、看板だけを頼りにふとした気まぐれで目指していた。やたら細い坂道を何キロも登った。大きな道路から入るところには看板があったが、途中には何もない。木の枝や小石が路面に落ちていたりして、どれほどの交通量があるのかも怪しげな山道である。本当に着くのだろうかと不安になった矢先、カーブを曲がったら、黒いものがお尻を見せて走って逃げていくのがわかった。急ブレーキをかけて見送ったが、あれは確かに熊だった。そんなに大きくなかったから、子熊かも知れない。

 熊はさすがに迫力がある。逃げるお尻だけでも十分な迫力である。同乗者一同驚嘆し、当然ながら引き返すことも検討した。熊に襲われたら車なんて一発だ、という意見が出たが、そもそも熊は車を襲うのか?という疑問も出た。確かに、もう二度と出てこないことも十分考えられる。何より、温泉には入りたい。雨飾りという陰気なんだか陽気なんだかわからない名前にも強く惹かれるものがある。ここまで来て引き返すのが悔しい。せめてひと風呂浴びて引き返したい。

 ハンドルを握るのは私だったが、結局、ギアをドライブに入れ、先に進んだ。このような浅はかな判断で、世の災害というものは起こるのだろうが、そのときは同乗者が全員浅はかだったらしく、特に異議は出なかった。

 車はこわごわと進んだ。対向車は一台もない。森はさらに奥深い。子熊が親熊を呼んできて奇襲攻撃を受けたり、熊の集団に囲まれてカツアゲされたりする想像図を同乗者同士で逞しくしながらも、こんな秘境にある温泉なんだからさぞかしいい湯だろうという希望的観測を頼りに、さらに数十分ほど山道を登った。しかし行けども行けども辿り着かない。熊に再び遭遇する恐怖でハンドルを握る手が汗ばむ。道はどんどん細くなり、車一台通るのに、両脇から茂る葉っぱが車体に当たりそうなほど狭い道になった時点で、ついに断念して下山した。

  あの先に本当に温泉があったのかどうか、今もってわからない。狐の化かす話は昔からよく聞くが、熊に化かされたのかも知れない。冷や汗だけかいて、ひと風呂も浴びられずに随分損をした。今度道端で熊に出会ったら、その先には進まずにおこうと思う。

                         

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読み切り短編  『幻視(げんし)』

2017年08月06日 | 短編

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 休日を利用して、書き直しをした。家族に読み聞かせてみたら、いろいろ手を入れる必要に気付いたからである。読み終えたときの家族の沈黙が、何よりも参考になった。寛容なる読者の再読を乞う。 

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幻視

 

 

 地中海は夏の日差しをまともに受けて腐乱した魚のようにぎらぎらと輝いていた。高く切り立った海岸沿いに蛇行する道を、赤いアルファロメオが疾走した。そのはるか上空を、一羽の白いユリカモメがゆったりと舞っていた。海も崖も空も、誰かの描いた空想画のように壮大で鮮明であった。後部座席のデイジーは車窓を全開にして顔を外に突き出し、その小さな胸一杯に風を吸い込んだ。

 「ユリカモメになった気分!」

 「危ないから首を引っ込めなさい、デイジー」派手な金縁のサングラスを少しだけずらして、助手席からロレンツィオ夫人が娘に注意した。「あなたのユリカモメとやらに、首をくわえて持っていかれるわよ」

 「大丈夫よ、友だちだから!」

 「母さんの言うことが聞けないの、デイジー。危ないから首を引っ込めなさい」

 デイジーは頬を膨らませ、答えない。首元に結んだ臙脂色のリボンがはためく。

 「よしきた、お嬢さん」

 運転席でハンドルを握る父親が、視線は前方に向けたまま口を挟んできた。日に焼けた筋肉質の太い腕を誇らしげに肩から見せ、細いサングラスをかけている。「十数える間にその可愛い首を引っ込めるんだ。さもないと今日のピクニックは中止だ」

 父親が八を数えたところでデイジーは上半身を車内に戻した。膨らんだ頬をさらに赤く膨らませながら。

 父親は口笛を吹いた。

 デイジーは必要もないのに車窓まで閉じて、まるで海と永遠に決別するかのように小さな体を後部座席に寝転がした。つまんない。彼女は不満げに目をぎゅっと閉じた。

 その瞬間、強烈な光景が、まるで夢の中のように鮮明に浮かび上がった。

 きゃっ、と叫んで彼女は目を開けた。

 それは、急カーブを曲がり切れずにガードレールを突き破り、その衝撃でボンネットを大きく歪めながら、なおも十メートル下の深緑色の海原へと飛び込んでいく、まさにこの赤いアルファロメオだった。それを彼女は見たのだった。目を閉じていたにもかかわらず。

 幼いデイジーが脈絡もなく奇声を発するのは日常茶飯事だったので、ロレンツィオ夫妻はどちらも振り向きもしなかった。

 デイジーは一人で体を震わせた。

 なんなの、さっきの光景は。

 再び目を閉じると、心象風景も再び始まった。今度は海に落ちる光景ではない。まさにこの車がスピードを上げ、ガードレールを突き破った例の急カーブに差し掛かろうとしている。先ほどより少し手前の景色である。だがあの急カーブはすぐそこに迫ってきていた。悲痛な叫びのようなブレーキ音が脳裏に鳴り響いたところで、デイジーは目を開けた。汗びっしょりだった。

 「これは────これは、これから起こる風景だわ!」

 「どうしたの、デイジー」母親がおざなりな声をかけた。

 デイジーは目を閉じるのが怖かったが、白昼夢の意味を知りたい気持ちの方が優った。

 彼女はこわごわ三たび目を閉じた。さらに場面はさかのぼった。車は海辺から少し逸れた、黄色い野菊の揺れるなだらかな下り道を走っていた。はるか上空にユリカモメ。そのまま目をつぶっていると、場面は転換し、車窓から首を突き出し、臙脂色のリボンをはためかせる自分自身の姿になった。

 彼女は目を見開いた。車は丘の頂上に差し掛かっていた。前方の下り坂には黄色い野菊が咲き乱れている。デイジーは絶望的な確信と共に、金切り声を上げて父親の肩を揺すった。

 「停めて! 父さん、停めて! お願いだから、この先を行っちゃ駄目!」

 「おい、何だ、悪ふざけもいい加減にしろ、危ないぞデイジー」

 「危ないの、このまま進むと危ないの!」

 「どうしたの、急に。おやめなさい、デイジー。おトイレに行きたくなったの?」と母親。

 「違うの、このまま進むと海におっこっちゃうの。お願いだから停めて、父さん!」

 娘が執拗に喚き散らすので、ついにロレンツィオさんは車を停めた。溜息をつき、日に焼けた太い腕を背もたれに乗せて後部座席を振り返った。

 「さあ、どういうことだ、デイジー。場合によっちゃおしおきだぞ」

 「見えたの。この先の、カーブで曲がり切れなくて、車ごと海に落ちていくのが見えたの」

 「何だって?」

 「この道なの。この車なの。父さんと母さんも乗ってるの。私も乗ってるの。この先で、この車ごと崖から落ちちゃうの」

 夫婦は互いの顔を見合わせた。

 まったく、この子の妄想癖にも困ったものだわ、という表情で夫人が首を横に振った。夫は太い腕を組み、しばらく思案していたが、サングラスをかけた顔を再び後部座席に向けた。

 「それは、かなりのスピードを出していたのか?」

 「そう、そうよ。そうよ」

 「わかった、デイジー。じゃあこうしよう。父さんは、これからスピードを落として、亀さんのようにゆっくりと運転する。お前が予言したその危険なカーブとやらを過ぎるまでね。それから、スピードをもとに戻す。父さんの運転技術は信用してるね?」

 デイジーは汗だくの顔でその提案を聞いていたが、ちょっと不安げながらも頷いてみせた。

 「うん。だったら大丈夫だと思う。ゆっくり運転してね」

 「ああ、亀さんのようにな」

 「亀さんのようによ」

 車は再び動き出した。

 ロレンツィオ夫人がバッグからコンパクトを出して口元を確かめながら、うんざりした声で言った。「デイジー、あなたのせいで日暮れに到着しそうだわ」

 亀のように、とまでは行かないが、先ほどまでよりはずっと速度を落としてアルファロメオは走行した。要は────要は、その問題のカーブのところだけスピードを落とせばいいんだろ、とロレンツィオさんが思い直してからは、速度も少しずつ増した。「もっとゆっくり、ね、もっとゆっくりお願い」という後部座席からの幼い懇願がなければ、彼は元通りの速度で走ったであろう。

 車は黄色い野菊の揺れる下り坂を抜け、再び切り立った崖の道に出た。ユリカモメが前方の空高いところで旋回している。 

 「あっ、ここよ! ここ!」

 娘の叫びがあまりに真剣なので、さすがのロレンツィオさんも速度をぐっと落とし、そのカーブを曲がった。なるほどそれはほとんど鋭角に近い急カーブであり、もしガードレールを突き破れば、命は到底ないと思われる絶壁であった。波の砕ける音がはるか下から聞こえた。

 アルファロメオは無事そのカーブを通り過ぎた。ユリカモメもいつの間にか見えなくなった。

 「さあ、これで安心したかい、未来予報士のお嬢ちゃん」

 心からの安堵の溜息をつき、デイジーはシートに身を沈めた。同時に自分の予測がやっぱり何の根拠もない妄想だった気がしてきて、恥ずかしさに少し顔を赤らめた。

 「うん、もう大丈夫。ごめんなさい。もう大丈夫だわ」

 「目を閉じて少し休みなさい。疲れたのよ、デイジー」

 夫人の勧めるがまま、デイジーはくたくたになった身を横たえて、目を閉じた。

 不思議な夢を見た。

 牧場のテラスで家族三人、ジェラートを食べている。半時ほど前、実際に立ち寄った牧場であることは明らかだった。その時、確かに、三人でジェラートを食べた。

 場面は変わり、家の庭先で花壇のポピーに水やりをしている自分がいた。ひらひらのスカートに水がびっしょりとかかり、母親の怒った声が聞こえた。

 二日ほど前の昼下がり、これも実際あった出来事であった。

 間違いなかった。記憶は未来から現在を駆け抜け、過去を遡っている。

 場面は次々と変わった。どれもこれも、かつて経験した場面であり、それもどんどん古い日付のものになった。場面の切り替えはさらに激しくなり、もはや幼いデイジーには何が何だかわからなくなった。

 思わず目を開けたら、車は猛スピードで、例の急なカーブに差し掛かろうとしていた。彼女は息を呑んだ。すでに先ほど、慎重に運転して通り過ぎたはずのカーブであった。前席の両親は何事もなかったかのように前を向いて沈黙している。空高くから悠然とこちらを見下ろす、一羽の白いユリカモメ。

 デイジーは死に物狂いで絶叫した。

 彼女の声に負けないほど甲高く、急ブレーキの音が鳴り響いた。

 

 (おわり)

 

 

 

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