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た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

入笠山晩秋

2019年11月18日 | essay

 11月17日日曜、今シーズン最後の山を入笠山(にゅうがさやま)に定め、出立。

 行きがけに「女鳥羽(めとば)の泉」という名の湧水に立ち寄り、ステンレス製ボトル800㏄二本分の水を汲む。山行きの朝の恒例行事となっている。神社で柏手を打つわけではないが、安全な登山の願掛けのようなものである。もちろん、湧水で沸かす湯がまろやかで美味しいのは確かである。

 山を選ぶ際は、古本屋で買い求めた『信州日帰りで行く山歩き(しなのき書房)』二巻本を頼りにしている。登山ルートを精緻な鳥瞰図で示しており、大変わかり易い。立ち寄り湯の案内までついている。その本には、入笠山については往復七十分ほどの短距離コースが紹介されていたが、現地に行ってみると、ずっと下の駐車場で、登山客が車を停めている。そこからだと倍の所要時間になるが、それでも大した距離ではない。予定を変更し、そこに車を停めて歩き始める。

 途中、とてもよく整備された湿地帯に出る。11月なので何も咲いてなかったが、春夏は綺麗であろう。白樺がところどころに生えるだだっ広い湿地を眺めるだけでも気持ちよい。それにしてもいやに整備されていると思ったら、カゴメが管理していた。大資本が入るとこうも違うのかと、八島湿原の朽ちかけた歩道を思い浮かべる。ただ、人工的なまでに整備された自然と、なるべく原野のままの姿を残した自然と、どちらを好むかは人次第である。

 特に苦も無く頂上に着く。登山というよりはハイキングコースである。しかし頂上からの眺望は、北アルプス、中央アルプス、南アルプス、八ヶ岳を四方に抱き、圧巻である。

 お握りに食らいつきながら、コンロで湧水を沸かす。マルタイラーメンに、チャーシュー、刻みネギ、メンマ、ゆで卵を入れる。登山を重ねるうち、少しずつ工夫をするようになった。

 食事後、もう一度湯を沸かし、紅茶を淹れて飲む。紅茶を飲みながら、ぐるりと四方を眺め渡す。

 手早く道具を片付けると下山。

 

 

 来シーズンは、再び美ケ原から始めようかと思っている。

 


高枝きりばさみ

2019年09月23日 | essay

 ついに高枝きりばさみを買った。こういう日が来るとは思ってもみなかった。

 高枝きりばさみと言えば、私が学生の頃、テレビショッピングで盛んに取り上げられた商品である。テレビショッピングの代名詞的存在であり、その非日常的な形状と、そこまで必要かと疑わせるに十分な特殊用途のせいで、どちらかというとコミカルな印象を与える存在であった。ああいうのを騙されて買う大人がいるんだろうな、と、学生で庭木の剪定などしたこともない私は冷笑したものだ。「高枝きりばさみ」という名前からして、用途をそのまま呼称にしただけであり、長ったらしくて滑稽だ。せめて「高枝ばさみ」で、「きり」は要らないのではないか。

 その高枝きりばさみを、買ってしまったのだ。ためらうことは随分ためらった。所有することで近隣から馬鹿にされないか、とまで心配した。しかし、我が家の庭に前の所有者から残る梅の木が、イソギンチャクの化け物のように枝を伸ばしている。おまけに隣に植えたシデコブシも手が届かない高さまで繁茂してしまった。ここは世紀のアイデア商品に頼るしかなくなったのだ。

 意を決して購入すると、今度は使ってみたくてしょうがない。子どものおもちゃと同じ理屈である。さっそく使用してみた。手元の握りを握ると、三メートル先のハサミがカチャカチャ動く仕組みである。ハサミの隣にはなぜかのこぎりまで付いている。

 梅を切ると、爽快に切れる。もちろんシデコブシもバサバサ切れる。何と便利な道具であることか! これは、その名の仰々しさに相応しい、大変優れた発明品であったのだ。馬鹿にしていた自分を恥じた。謙虚な気持ちでのこぎりまで使ってみたが、さすがに三メートル先をギコギコするのは難しかった。

 しばらくは重宝するであろう。問題は、一度高枝をすべて切り落としてしまうと、次の出番まで相当時間がかかることである。

 値段はそれなりである。だまされたと思うほど高くはない。確か学生時代のテレビショッピングでは、一本一万円で、もう一本「おまけにお付け」していた気がする。もう一本はいらないから半額にしろ、と当時の自分はテレビに向かってつぶやいたものだが、実際、今ならそれくらいの値段で売っている。学生時代の自分の指摘は妥当だったと言える。

 目下のところ、どこに収納するか、が悩みの種である。

 

 

 

 

 


乗鞍一句

2019年09月03日 | essay

 

乗鞍岳に登る。

登ると言っても、山頂近くまでバスで行くのだから楽なものである。

子供連れや老人たちも登る。カップルも登る。一人サンダルで登っているのも見た。

かつて神の宿る山として人の立ち入りを拒んだ山も、現代ではちょっとワイルドな観光名所である。

かく言う我々も山頂でお握りを食べ、山小屋付近で湯を沸かしてスープを飲んで、

下山してお土産を買い、温泉に入り満足して帰った。

果たしてこれでいいのだろうか?

乗鞍岳よ。

 

 

 

     青峰も むず痒きかな 虻と蠅

 

 

ちなみに温泉は『鈴蘭小屋』というやけに古びた宿で入った。硫黄の香る白濁の湯が四肢に沁みて、とても気持ちよかった。

 

 


桃の行方

2019年08月26日 | essay

 

 年を重ねると誰でも引きこもりがちになる、と人に言われたが、なるほど自分も若い時と比べて外に飲みに出ることがずいぶんと少なくなった。家庭的な人間となったのである。それでも時には、刺激を求めて、あるいはもう少し自己弁護して言うなら、自分の中の感受性が鈍磨するのを恐れて(なぜ飲みに出ると感受性が鈍磨しないのかはともかく)、夜の街を歩くこともある。そういうときは、なるべく新しい店を見つけようとする。

 二月の寒い時期に小さな居酒屋を見つけた。カウンターに五、六席ほどしかない。小母さんが一人で切り盛りする店である。自分が初めて訪ねたとき、彼女は客のいないカウンターに突っ伏して寝ていた。やれやれとんだ店に来たと思ったが、「ごめんなさい、暇だから眠っちゃった」と目を擦りながら詫びる彼女の姿に、取り繕いや言い訳がましさがない。よく見ると正直者の丁稚のような顔つきをしている。なんだか居心地よさを覚えて席についた。

 背伸びをすれば壁に当たる狭い店だが、窮屈な感じはしない。何年も行きつけた馴染の店のような気分になる。出てくる小皿は格別手の込んだものではないが、どれもいい味を出している。聞くと実家は田舎で、桃を栽培しているとか。親が年老いたので、娘の自分が今年から手伝いに行き始めたのだと言う。へえ、桃ができるんだ。一度たべてみたいな、という話になり、酔った勢いも手伝って、前金を払って予約注文してしまった。 

 それから春が過ぎ、夏が訪れ、自分も仕事が忙しくなった。あの居酒屋と桃のことはときおり頭を掠めるが、再訪する機会を逸していた。それでもあの実直な女将のことだから、桃は送ってくれるに違いない、と思ってみた。いやあの店に立ち寄ったのも一度きりだし、送ってこないのじゃないか、と疑いもした。何で桃なんか注文したんだろうとも思った。桃は確かに好物だが、人から貰うもののような気がしていた。自ら注文したのは初めてである。

 家人に報告すると、へえ、桃なんて珍しいじゃない、と驚いた風を見せ、でも楽しみね、と付け加えた。

 お盆を過ぎて夏の盛りを越し、朝夕にひんやりした空気を感じ始めても、桃は一向に送られてくる気配がなかった。電話一本、メール一つない。スーパーで桃を見かけた家人が、あの桃はどうなったの、とせっついてきた。私より期待していたらしい。うん、どうなったんだろう、と自分もいい加減な生返事をした。

 

 朝から晩まで仕事場に詰める必要がようやくなくなった、八月下旬の雨上がりの夜、私はあの居酒屋を再び訪れた。初めて訪れた時と違い、店内は複数の客でにぎわっていた。

 入口の引き戸を開け、女将と目を合わせたのが数秒間。私の顔を思い出した彼女は、悲痛な声で、「ああ、何回も連絡したのに!」と叫んだ。聞くと、あの日から私の前払い金を封筒に入れて冷蔵庫に貼りつけ、片時も忘れないようにしていたという。桃が出荷できる時期になると、私の書いた電話番号にメールもし、電話もかけ、留守電にもメッセージを残した。が、一向に返事が返ってこない。なんど連絡を取ろうとしても、取れない。そもそも、現物を送る前に連絡する、という約束だったらしい。自分は酔った上の記憶でよく覚えていなかった。それにしても変な話である。こちらの携帯にそんな履歴は一度もない。メモ書きを見ると、番号は間違っていない。間違ってないけど、と言うと、でもそこに掛けたのよ、と言い返す。数回の押し問答の末、自分が酔って書いた9を、彼女が7と読み間違えたことが判明した。そう言われて再度見ると、なるほど丸の部分が潰れて7にも見える。これは自分の悪い癖である。過去にも自分の書いた9を7と読み間違えたことがあった。自分で自分の字を読み間違えたのである。これはこちらが全面的に悪い。私は素直に彼女に謝罪した。

  数字の読み間違えは笑い話で済んだが、運悪く桃の出荷はちょうど終了したところ。女将は自家製の桃を食べてもらえなかったことを心から悔しがった。こちらも、話に聞いた桃を食べられなかったことが心残りであった。酒を飲んで談笑しながら、彼女が「とりあえずこれはこのままお返ししますね」と出した封筒を差し返し、じゃあこれで来年の予約を、と願い出た。

 隣席の客とも話が盛り上がり、酔いも回っていい気分になった。酒の追加を注文しようと女将を見ると、細い目が今にも塞がりそうである。正直者の丁稚が、番頭の小言を聞きながら眠くなりました、という顔をしている。

 「眠そうだね」

 「うん、なぜだか眠い」

 問い質すと、早朝から実家の白菜の種植えをやったのだとか。そう言えば最初にこの店に来た時も寝ていたな、と思い出し、含み笑いをしながら席を立った。

 

 店を出たら、夜風は秋の匂いがした。

 桃は来年届くと思う。それまでにもう何度かはこの店を訪れるつもりである。

 


地元を楽しめ!(アタラクシア!)

2019年05月10日 | essay

 

 里山辺、と呼ばれる松本市街から東に外れた土地に移り住んで、もう十年が経つ。山にも街にも近く、言い換えれば山からも街からも外れた感じで、なるほど里山辺だなあとつくづく思う。これだけ住んでいれば、町会の役を割り当てられたり(体育委員に任命され、メンバーが足りないとかで運動会で走らされたり)、近所の知り合いが徐々に増えたり(毎朝犬の散歩で挨拶しながら互いの犬を遠ざけ合ったり)、などなどしながら少しずつ地元の生活に馴染んできている。が、いかんせん田舎なので不便を感じることもある。

 その一つ、と言ってもほとんどこの一つに尽きるのだが、周りに飲食店が少ない。家から歩いていける距離に少ない。つまり、ぶらっと散歩がてら一杯やることが難しいのである。ごく庶民的で慎ましい休日の楽しみを奪われているのだ。

 ぶらっと一杯だって?────なんとまあ享楽的な、と非難するなかれ。決して贅沢を言うわけではない。わずかな金を、地元に落とし、いっときの快楽を得る。地元も潤い、自分も潤う。何と健全な経済活動ではなかろか。

 その望みを果たすべく、犬を引き連れ方々を探索して回るのだが、私の求めるものが現代の車社会にそぐわないのか、なかなかこれという暖簾(のれん)に行き逢わない。

 それでも最近、嬉しい発見が続いた。

 

 車を山に向かって走らせ、十分程度行ったところに地元のワイナリーがある。そこへ歩いてゆけばいいということに、最近気づいた。

 ちょっとしたハイキングコースである。行きは緩やかな上り坂。車道を避け、ひたすら農道を選ぶ。水田地帯を抜けると、丘陵全体がぶどう畑である。ぶどうの樹と樹の間を縫うようにして小一時間も歩くと、ワイナリーに出る。併設のレストランを利用するつもりで来たのだが、夕刻で、レストランはもう閉まっていた。それで、売店で白のフルボトルを一本買い、コルクを店員に抜いてもらい、ついでに試飲用のコップを二ついただいた。どんな無理を言っても、その女性店員は、「何もかも承知しています。酒の楽しみ方は十人十色ですから」と言わんばかりの笑顔で応対してくれた。きっと彼女も相当ワイン好きなのだろう。

 このワインを、眺めのよいテラス席に座り、連れ合いと二人で傾けた。眼下には広大な松本平(だいら)。そのさらに遠くには、冠雪した峻厳な北アルプスの峰々。普段、狭い家で狭い庭を見ながら飲むのと違い、それは、心臓を丸ごと体の外に取り出し、初夏のそよ風にあてたような、何とも開放的な外飲みであった。

 

 半分もボトルが空けば、元来酒に強くない我々二人はそれで充分である。残ったボトルは袋に入れ、またぶらぶらと来た道を引き返す。往路の喉の渇きも心地よいが、復路の、ほろ酔い気分の爽快感と言ったら、なかなか筆舌に尽くしがたい。ぶどう畑とぶどう畑に挟まれた坂道をたらたらと下れば、夕日に染まる盆地が圧倒的なスケールで迫る。よくできた映画のワンシーンを観たような、なんだか感動的な気分に浸った。

 疲れ具合も、ちょうどいい。

 松本のお薦め観光コースとして、この「こっそりワイン小路」なるものを市に推奨したいくらいである。理想的な距離と、起伏と、お楽しみである。ただし、あくまでもスタートとゴールを我が家に設定した上での「理想」なので、汎用性はない。市に推奨するのも止しておこう。

 

 もう一軒。

 里山辺からもう少々山沿いに近づくと、美ケ原(うつくしがはら)温泉がある。こじんまりとした温泉街である。昨今はどこの温泉街もそうみたいだが、そこかしこに寂れた観がある。そんな裏通りに、『食事処 平屋(たいらや)』が存在することを、いったい、松本市民はどれだけ知っているだろうか。

 軒に並んで吊り下がる小さな赤ちょうちん。閉じられたガラスの引き戸に、閉じられたカーテン。店の前を十人通りかかったら、そのうち五名は閉店していると思いこむだろう。残り三名は、店があることすら気づかないかも知れない。最後の二名だけが、その怪しげな佇まいに妙に心惹かれる。そんな、やっているのかやっていないのかわからない食堂である。

 私は妙に心惹かれた一名であった。発見自体は数年前にさかのぼる。しかしいかんせん、いつ来ても閉まっている。それが、今年のGWの五月三日、やっぱり気になり、散歩がてら立ち寄ってみたら、店の前に貼り紙がしてあるではないか。

 「四日、五日は休みます」

 何たること。四日、五日は休むだと?────ということは、本日三日は店を開けるということではないか! 私は歓喜の叫びを心の中で上げた。念のために入り口をノックして、本日の開店時間が夕方五時から六時半まで(たった九十分?)ということを訊き出した。いったん家に戻り、日が傾くのを待って連れ合いと二人、再度店へ繰り出す。こうなると執念である。

 ゆっくり歩いて行ったつもりが、五時十五分前着。さり気なく店の前を行ったり来たりしながら(連れ合いは「こんな姿を人に見られたら確実に怪しまれるね」とぼやきながら)、戸が開くのをひたすら待った。

 なぜここまで、古い食堂にこだわるのか?────それは、私にもわからない。ひょっとして、その店が残っている理由を知りたいのかも知れない。大資本ならともかく、小さな個人営業の店は、景気の影響を受けやすい。時代の潮流について行けず埋没してしまうことも多い。そんな中、決して時代におもねらず、自分たちの変わらぬやり方で、細々とでも続けていくには、一つに、経営者たちの忍耐強さが欠かせないだろう。もう一つに、やはり、何か人を惹きつけるものがそこにあるに違いないのである。それは味であったり、雰囲気であったり、人柄であったり。それらの内のどれかが、誰かを捕え、まるで根を伸ばすように地域とつながり合うのだ。

 店内はさほど広くない。半分が土間のカウンター席。しかし最近は使われた形跡がない。半分は畳敷きで、座卓が二台。うす暗さはいかにも昔の食堂である。土間の隅には薪ストーブ。冬場に活躍するのだろう。調理した品を出し入れする小窓越しに見える、壁の向こう側の厨房は、案外広そうである。

 壁に貼られた品書きは二十ばかし。

 いかにも人の良いおしゃべり好きな奥さんと、往時はなかなかの好男子で鳴らしたと思われる無口な主人の、老夫婦で切り盛りしている店であった。薪ストーブの向こうの壁に、開店時間が大書されてある。平日午前十一時から一時間半。夕方五時から二時間(ときには一時間半)。日曜休み。これではなかなか開店しているときに行き逢えなかったわけである。

 とりあえず大瓶のビールを注文した我々に、「温かいビールもね」と奥さんがお茶を淹れてくれる。瓶ビールと佃煮を出したあと、どっかと椅子に腰を下した彼女が、

 「さて、何にしましょう」

 と威勢よく聞いてきた。

 こうなるともう、私はわくわくを抑えきれない。三品ほど注文したと記憶する。たしか、野菜炒めと、焼き魚と、豚カツ定食だった。食べてみると、何と、どれも美味しい。豚カツの柔らかいのと、マグロの旨みには驚いた。聞けば、いい素材を仕入れているとか。おまけに無口な主人は若い頃、温泉街の旅館をくまなく渡り歩いた板前だったらしい。この店が残ってきた理由が、よく腑に落ちた。

 座卓に片肘を突き、冷たいビールを口に含む。豚カツをもりもり食べる。美味しいねえ、と言い合う。他には、何もない空間である。だからこそ、昔よくあった時間がそこに流れる。

 心の錠をかちり、と外されたような、じんわりとしたくつろぎに満たされた。

 とは言え、制限時間は一時間半。喋りながらも飲み食いを精力的にこなし、完食して席を立った。奥さんによれば、五日は地元のお船祭りを観に行くらしい。ご主人は足が悪いから俺は行かない、と毎年言うのだが、でも結局観に行くのよ、と笑って教えてくれた。

 店を出れば、外はまだ明るい。家々には、祭りのしめ縄が長く張られている。この辺りの風習である。飾り紙が、ぱたぱたとひらめく。水の張った田んぼの脇を、ほんのり酔いの回った体で歩いていると、本番前の練習だろうか、遠くから風に乗り、かすかに笛の音が聞こえてきた。

 

(おわり)


確定申告終える

2019年03月08日 | essay

 夕日の沈む北アルプスに向かって一息をつく。

 

 仕事の終わり。「新年度」という名の仕事の始まり。

 

 食べて寝るだけが人間だと思っていたら、随分違った。

 

 随分違った生き方をしなければならなかった、という驚きを

 

 いまだにどこかに引き摺っていて

 

 

 

 ふと何か

 

 大事なことに気づけそうな気がして

 

 振り返ったら、すでに日はなく、北アルプスはどこまでも冷たく雄大だった。

 

 


魅惑の青

2019年02月25日 | essay

 その青は、一瞬で私を虜にした。

  まるでどこかの宣伝文句みたいだが、その通りなのだから仕方ない。

  パソコンの画面に映るトルコブルーに、私の目は吸い寄せられた。水面の揺らぎのような、異世界への導きのような、マーブル状の模様────今度の休日にどこか立ち寄れる窯元はないかと探していた矢先であり、そんなことを休日ごとに繰り返している私は相当変わり者だと我ながら思うものの、近年私の心をたぎらせる陶器熱は一向に冷め難く、今回も気付けば、地図と窯元の電話番号を手に車に乗りこんでいた。

  それだけ興味があるのなら勉強して知識を増やせば立派なのだが、そこがずぼらなところで、いまだ陶器とは土を固めて焼いた物、という程度の知識しかない。骨董品を買い占める財政的余裕もない。だからちょうどいいのである。たまに車を走らせて作品を見に行くくらいで。

  唐木田窯。私の地図に赤のマーカーで記入した文字を何度も確認しながら、私はハンドルを操った。

 

 2月の上旬のことである。暖冬とは言え、山間は雪のある恐れがあった。念のためタイヤチェーンまで購入した。今まで一度も嵌めたことのない代物である。陶器を見に行くためにわざわざタイヤチェーンを買うのだから、高熱もここまでくれば重症である。

  しかし今回は私の用心深さが吉と出た。目指す窯元は、篠ノ井山布施の雪深い山中にあった。ことに最後の狭い上り坂は、車のCMのように雪を掻き分け、荒々しく進まなければならなかった。チェーンがなかったら、確実に立ち往生していたろう。

  ようやく辿り着いた家には、実に多種多様な作品が陳列されていた。私は息を呑んでそれらに見入った。聞けば先代は、一度廃れた松代焼を現代に復活させた人だと言う。先代の遺品も見ごたえがあった。懐具合と相談しながらも、せっかくチェーンをつけてまで来たのだからと、数点買い求めた。

 

 

  購入した品を包んでもらう間、熱いコーヒーをいただきながら、窓の外を眺めると、人跡を阻む雪山が幾つも重なって見えた。陶器づくりとは沈黙との語らいであろう。それは孤独で、ときに凄まじいものであるのに違いない。

 

 暖かくなってからの再訪を確約して、その家を後にした。

 


存在の後

2019年01月24日 | essay

 犬の散歩に出た。

 雪が降りそうで降らない、化膿したように重苦しい色の曇天だった。朝日はどこか厚い雲の裏に隠れていた。お天道様だってこれほど寒ければ、顔を出したくないに違いない。首筋に入りこむ冷たい風が不快だった。大きなくしゃみをした。すぐにでも引き返してストーブの前に座り込みたかったが、犬がいるから仕方ない。大して可愛い犬ではないが、トイレをしてもらわないとこちらが困る。小さな柴犬で、ふだんは寒がりな癖に、いったん散歩に連れて出ると、当然の特権であるかのように、ぐいぐいと紐を引っ張ってどこまでも行こうとする。トイレをしたらすぐ連れ戻されるとわかっているので、我慢してなかなかしようとしない。実にさもしい犬である。

 年明けから続く憂鬱な気持ちを抱えて、私はいつものコースを辿った。生と死のようなことを漠然と考えていた。死ということは存在の消滅だが、果たしてそれだけのことであろうか。精神が死ぬとはどういうことか。精神は物理的な意味で存在するものではない。だとすれば、肉体が消滅しても精神が消滅することはないのではないか?───何を考えてるんだ俺は。これでは霊魂不滅を唱える狂信家と同じではないか。でも、そもそも、物質であれ非物質であれ、完全なる消滅ということは可能なのか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   

 道端のあちこちを嗅ぎたがる犬を無理に引っ張って歩く。

 凍てついた民家が幾つも肩を並べる通りを抜けると、視界が開け、ブドウ畑に出る。夏にでもなれば甘ったるい香りが辺りを漂うが、冬の現在は、一定以上の高さにならないよう矯正された木々が、葉のない枝を呪術師の振り回す腕のように四方に伸ばしているばかりである。くねくねと続く細い道を進むと、そのブドウ畑も終わる。視界はさらに劇的に広がる。水田地帯に出たのだ。

 もちろん冬の時期は、稲の刈り跡だけが集団墓地の墓標のように連なって寒風に晒されているばかりである。

 遠くに連なる山々を見上げ、左右に広がる枯れた田を従えながら、真っ直ぐに道が伸びている。その中途に、ポツンと一本、大きな木が立っていた。腕を回しても届きそうにないほどの太さの幹である。何の木かは判別しない。それほど注意深く眺めたこともない。しかし、何となくこの広大な風景の中心的存在のような樹木であり、詩的な形の枝ぶりもあって、私はいつもこの木の辺りまで来て、引き返すことに決めていた。

 だがその日、木は、地面とすれすれの切株だけ残して、影も形も無くなっていたのである。

 思わずあっと声が出るほど、それは異様な光景であった。あれだけの存在感を示していた木が、たった一夜で、姿を消したのである。土地の持ち主が切り倒したのであろうか。それにしても枝葉の残骸すら無い。よほど邪魔だったから、すぐに搬出したのだろうか。しかし昨日までは確かに、そこにあった。たった一夜で────果たしてどれほど不都合のある木だったのか────匂いがしそうなほど痛々しい切り口の上を、今はただ、空っ風が渦巻いていた。しかし、名前も知らない木とは言え、散歩の度にその存在を意識していた私にとっては、まだそこに、何かがある気がしてならなかった。

  そのとき、誰かが私に向かって、「お前の仕業だな?」と言った。

  枯れ枝を擦り合せたような声であった。小さいがはっきりと聞こえた。私は急に立っていられなくなり、切株に手を突いた。軽い吐き気すら覚えた。しばらくしてから、くらくらする頭を押さえて、ようやく立ち上がった。死というものが本当はどういうものか、おぼろげながらようやくわかったような気がした。

 もちろん実際には、そこには私と犬の他誰もいなかったはずだ。霜の降りた山々はただ風にごう、と鳴るだけであくまでも無表情であった。鼻をうごめかして無い餌を漁っていた犬も、私のしゃがみこんだのすら気づいてないようであった。

 きっと、私の幻聴だったのだ。

 がたがたと震えが来るほどの寒さを覚えた。上着の上にオーバーコートを重ねて着ていたが、全然足らなかった。さっきまで広々としていたはずの景色が、急速に収縮して自分に迫ってくるかのような息苦しさを感じた。田んぼも山々も、何もかも嫌になった。

 私は帰りたがらない犬を引き摺るようにして、来た道を足早に引き返した。 

 

 

 


節季

2018年12月18日 | essay

 早朝犬の散歩に出かけると、週に二度、軽トラックで野菜を販売している女性に出会う。商売気があるのかないのか、幟(のぼり)も値札もないから、最初は販売しているのか、ただ野菜を荷台に積んで憩っているのかわからなかった。しかし採れたてのものを百円ニ百円で売っており、量的にけっこうサービスしてくれるので、頻繁に利用するようになった。「にいちゃん、もう一束おまけしとくわ」という感じである。

 近所の老婆たちも、買い物に出なくても便利だと、一人、二人、集ってくる。彼女たちは、どちらかというと買うことよりしゃべることの方に時間を費やして帰っていく。男は私だけである。そのせいか、サービスもいい気がする。

 種類は多くない。二、三種類。あくまでも家庭菜園の販売である。小松菜が終わり白菜が出始めたと思ったら、今朝は南天の枝を売っていた。正月の飾り用らしい。どう飾るのかわからないが、一枝買い求めた。何でもいいのだ。犬の散歩に出かける前にニ百円ほどポケットに入れておくのだから、何かは買うのである。

 おかけで季節感をよりはっきりと感じるようになった。スーパーの野菜売り場を覗いて回っても味わえない感覚である。手押し車でやってきた、背の曲がった老婆が、私も顔見知りと挨拶してくれる。犬にまで挨拶してくれるようになった。犬は興味がないから知らんぷりだが。

 ふと、先日ふらりと入ったフレンチレストランのことを思い出した。雰囲気のある店内だったが、注文はすべてアイパッドでさせられた。「そこのボタンを押していただければ、厨房に注文が伝わります」というわけだ。料理はとても美味しかったので、できれば店員の顔を見て品を選び、感想を伝えたかった。アイパッドの方が能率がいいということか。それとも最近は、店員と会話することさえ嫌がる客がいるということか。

 人の顔を見る贅沢がある。そのもう片方に能率がある。AIがある。

 私はやはり、百円玉をポケットに入れて、軽トラに向かう方が性に合っている。

※写真は土岐市下石地区


土岐市下石窯元巡り

2018年12月03日 | essay

 漆器とか陶器とか言い始めたら「年寄り」の始まりだとくらいに思っていたが、そろそろそれが始まったらしい。先月は木曽平沢の漆器祭りに行ったと思ったら、今月は美濃焼きの産地、土岐市の窯巡りである。

 とは言え興味本位の域を出ないから、美濃焼きの何たるかはよくわかっていない。温もりのある人肌色の志野焼や、緑の鮮やかな織部焼など、その産地の多種多様な陶器を総称して美濃焼と言うことは、本から学んだ。それくらいである。千円の花瓶と数十万円の花瓶を識別する自信すらない。それでも、たまたま土岐市の下石(おろし)地区というところにたくさんの窯元が集中してあることを知り、面白そうだから、雰囲気だけでも見てみようと思い立ったのである。

 雲一つない日曜日。午前八時に出発し、二時間半かけて松本から土岐市へ。よく知りもしない陶器のために往復五時間かけて行くのだから、我ながら変わり者だと思う。

 土岐ICを降り、まずは「志野・織部道の駅」へ。道の駅なのに、販売しているのはほとんど陶芸品である。品数の多さに思わず目を奪われる。値段の安さに二度目を奪われる。自宅に飾ってみたいものもある。使い込んでみたいものもある。じっくり見ればきりがない。

 後ろ髪を引かれる思いで道の駅を出、併設された織部ヒルズに向かう。ここは陶器の一大卸団地である(どうやら土岐は、陶器生産量日本一らしい。そんなことも知らなかった)。卸団地とは言っても、場所によっては店舗を構えて一般客にも販売している。ラーメン店主が店で使う器一式を買い付けに来るような所である。卸問屋ならではの雑多な雰囲気が、必要とされ大量に取引される陶器たちの充実した運命を垣間見るようで、なかなか感慨深い。しかし団地だからやたら広い。一つ一つ見て回ったらそれこそきりがない。

 車を出して、いよいよ下石へ。

(写真は下石窯元館)

 まず下石窯元館に立ち寄り、窯巡りについて尋ねる。初老の職員が、ここに車を置いて歩いて回ればいいと言う。───日曜日だからやってないところがほとんどだよ、それでもいいの?───ええ、町の雰囲気だけでも味わえれば───そうかね、じゃあ早めに行くといいよ。夕方になると途端に寒くなるからね───。  

 会う人会う人、みな気さくで親切である。土地柄であろうか。

 車を置き、町を歩く。細い道路がくねくねと伸び、車はほとんど通っていない。よくある田舎町と言えばそうであるが、なんとなくそれだけでないものを感じる。商店の看板や自動販売機すら見かけない。禁欲的なまでに簡素である。家は工房を併設しているところが多く、塀越しに覗くと、素焼きを待つ大量の器が干されたりしているのがわかる。一軒一軒は個人宅であろうが、扱っている器の数は膨大である。

 ここは完全に職人の町なのだ。受注されたものを作るために、日々働き、生活している。家の造りに見栄はない。自分たちの作り出すものが栄えればそれでいいのだ。

 町を縦断する用水路は深く、青い藻を縫うように小川がせせらぐ。庭の柿の木も紅葉も、控えめな色をささげて陽の光を浴びている。さすが陶芸の里だけはあり、陶製のものは至る所で目につく。道案内の地図も陶器ならば、道路標識も郵便ポストも陶器。裏庭の片隅には、ひび割れて商品にならなかった素焼きのかわらけが積み重なっていたりする。

 歩いていて意外と目についたのが、「とっくりとっくん」である。名産の徳利に目や口や手足をつけたキャラクターで、町のあちこちでいろんな悪さをしている。宴会を開いたり、本を読んだり、排水溝を覗き見していたり。町は静かだが、とっくりとっくんはその静寂を埋め合わせるかのように賑やかである。

 工房の中を見学することは、結局叶わなかった。もっと見学制度を整えたり、自宅に売り場を設けたり、ちょっと憩える喫茶店みたいなところが増えれば、観光客で賑わってくるのかも知れない。だが、おそらくそれを、この町は望んでいないのだろう。ただ心静かに、集中して仕事に取り組める環境が保全されることが大事なのだろう。

 こういう町に支えられて、日本の伝統文化が続いているのだ。

 散策中、「ポケモン・ゴー」とおぼしきものをやっている親子連れを除き、別の観光客に会うことはなかった。

 冬至前の日暮れに急き立てられるようにして町を後にした。あれだけ陶器を見た割にはさほど買い物をしなかったが、心に十分なお土産をもらった。

  

(写真は「とっくりとっくん」の一つ)

 

 いかに年寄りじみていると言われようとも、もうしばらく、器の世界を探訪しようと思っている。